2017-02-10 00:32 | カテゴリ:懐かしい話題
2/12のテレビ東京系「モヤモヤさまぁ~ず」とかいうテレビの散歩番組で、模型メーカーの童友社が紹介されることになったとTwitterで流れてきました。
童友社と言えば、昔から城とか神輿とか人力車とか渋い模型を出してきた老舗に数えられるメーカーです。
私は確か高校生の頃、このメーカーが出している1/4の鎧兜(加藤清正のやつ)を購入して作った記憶があります。

これですね


このプラモデルは今は定価で2万円以上もしますが(ひえ~!)、その頃は古いせいもあってか、高校生が小遣いを2ヶ月も貯めれば買えるくらいの値段でした。
確か8千円かそこらじゃなかったかしら。
そういえば、黒田長政とか豊臣秀吉の兜のプラモデルも作りました。
ちゃんと兜を入れる櫃かついてくるやつでしたね。
今はその兜のプラモデルも童友社から発売されていますけれども、その昔は緑模型だったかニチモだったか(どちらだかは失念)というメーカーから出ていた古い模型でした。
その頃はまだ、盛岡市にも古い模型店が残っていて、その店先でそういった古いプラモデルが普通に売られていたものでした。
しかし、今もそうした懐かしい模型を再販して発売し続けてくれる童友社はありがたいメーカーですね。
童友社が緑模型やその他から金型を譲り受けたということなのでしょうが、改修などを加えつつも長持ちさせて使用しているというのも、模型史の観点から見ても素晴らしいことと思います。

ところで童友社といえば1/3の刀のプラモデルを出しています。
ハデハデの拵えが印象的な太刀型の通称「一刀」と、大刀と脇差が二振り揃った「二刀」と言われるシリーズが有り、結構な数が出ています。

これは一刀の方ですね


こちらは二刀


これが、本物の真田紐で柄巻きを巻いたりする凝った作りの上にメッキパーツがキラキラと大量にあり、なかなか見栄えもよく、作りごたえのある模型なのですよね。
結構古い模型ですが、今も順調に再版を重ねています。
それに関して、面白いんだか面白くないんだかよくわからない思い出がありますので、それをお話しましょうか。

昔、今から20年以上も前と思いますが、その刀のプラモデルを是非コンプリートしたくて、近所の模型店に取り寄せを頼んだ事がありました。
今だったらネットでぱぱっと見つけてポチっちゃえ!という話なんですけど、その頃はまだインターネットが現在のようにお手軽な感じで普及していなかった時代です。
すると数日後に模型店から電話がかかってきて、
「問屋に在庫がないって言われて、二刀しか取り寄せ出来ないんだけど、どうしますか?」
「そうですか、それでもいいので取り寄せをお願いします。それで、一刀の方も是非欲しいのですけどもどうしたらいいでしょうか」
「うーん、問屋にないってだけで模型メーカーの方に在庫がないってわけでもないだろうから、直接頼んでみるしかないのでは」
と言われましたので、単純な僕はああそうか、とばかりに直接童友社へ問い合わせの荷電をしたのです。
今から考えるとなんだか非常に失礼なことをしてしまったのかもしれないなあ…と思わなくもないのですが(^^;)、その頃はそんなことお構いなしでありました。

すると童友社の方が電話口に出られたのですが(まあ当たり前ですが…。男性の方でした)、こちらにも伝わるくらい機嫌が悪いのです。
こちらは少々驚きましたが、恐縮しつつ荷電の意図を伝えますと、やはり問屋とか模型店主ではないただの若造がかけてきた電話でありましたので、付き合い切れねーよ!みたいな口調で、
「そういうことは模型メーカーに電話されてもどうすることも出来ません。近所の模型店に取り寄せを頼んで下さい。そのほうが送料もかからないわけですからよいと思いますよ。それではそういうことでよろしくお願いします」
とさっさと電話を切られてしまったんですね(^^;)。
その模型店が取り寄せ出来ないとか言ってるんだけどなー…と途方に暮れる思いでしたw
結局二刀の方だけ全種コンプリートして、未だに一刀の方は手にれられてません。
いや、今は商品が行き渡っていて、模型店に行けば普通に売られていますし、何よりアマゾンなんかに注文すればあっという間に手に入るわけですが、なんかこう、この歳になってしまったら、しかも古物商なんつうモノホンの刀を扱ってる商売をしていると、今更模型の刀を買わんでもなあ…という気になってしまうんですよね(^^;)。

まあ何しろ古い話ですから、いまではもう童友社に対してなんとも思っていないんですけど、果たしてあの電話口の男性は一体何にあれほど苛立っていたんだろうかと、今でも時々思い出すんですよ。
ひょっとしたら上司の方と喧嘩でもしてたのかなー…などと懐かしくw

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2016-05-20 17:50 | カテゴリ:懐かしい話題
 つい先日のことです。
 骨法の堀辺正史氏が昨年末に亡くなられていた由、ネットサーフィンで偶然知りました。
 死去がマスコミに公表されたのは今年の3月、葬儀一切はご家族の意向で近親者の方のみで行ったとのこと。享年は74歳だったそうです。
 最近は小林よしのり(僕はこの人があまり好きではありません。思想はともかくとして)なんかと対談したり意見交換をしておられるのを雑誌で読んでおりましたが、写真を見るに以前と比べてずいぶん痩せられ、そして対談の中で心臓の手術をされた旨話してもおられたため、お年を召されたので無理も無いことだと思ってはいましたが、まさか突然亡くなるとは思いもよらないことでしたので、存外な驚きでありました。
 ネットでポツポツ見られる追悼記事によれば、亡くなる前日は普段通りの生活をされ、その夜就寝したまま亡くなったようです。このような言い方になってしまい何ですが、良い亡くなり方でしたね。病気で苦しんだ挙句、家族や知人に迷惑をかけて亡くなるよりもずっとマシでしょう。
 もちろん堀辺氏と僕は一面識もありませんが、少年時代に堀辺氏の著作に出会い、「骨法」という格闘技に様々な影響を受けた直撃世代の人間としましては、多少なりの悲しさと寂しさを禁じ得ません。
 まずは堀辺正史氏のご冥福をお祈りしたいと思います。…合掌。

 以降は僕が骨法について思うところを書きます。
 長文の上いささか的外れな意見もあるかと思いますが、そこは個人的見解ということでご容赦下さい。

 まずは「骨法」って一体何だったんだろうと考えてみました。
 堀辺氏は骨法を
「奈良時代から堀辺家に一子相伝で伝えられた古武道を、自分が他流試合を重ねる中で現代風にアレンジし、実践的に構成しなおした現代武道」
…というようなことを著作に書いておられました。
 実際に、「骨法」と名のつく古武道は数多く存在します。
 また、一子相伝とまではいかなくとも、公に名乗りを上げず、近親者や数少ない門人にのみ伝統を受け継いでいる古武道の流派もあると聞きます。以前、僕が住んでいる岩手県の紫波郡というところにも、古流骨法が人知れず残っているという話を聞いたことがあり(真偽の程は定かではありません)、度肝を抜かれる思いをしたものでした。
 ならば堀辺氏の骨法履歴は本物なのか?といえば、おそらく違うと思います。

 手元にある堀辺氏の著作やビデオによる骨法の色々な技術…近間での掌打や蹴り、敵の手足を絡めて関節を極め、あるいは倒すなどの業を見る限り、その動きは日本の伝統的な古武道というよりも中国拳法、それも南派少林拳の一流派「詠春拳」に酷似したものとわかります。
 堀辺氏の肩書を読むと、「中華民国台北県国術会顧問」という一文があります。コレが事実とするなら、堀辺氏はおそらく台湾で詠春拳を学ばれたのでしょう。
 「喧嘩芸骨法」はその詠春拳に、堀辺氏が学ばれていたという大東流合気柔術や武田流中村派合気道などの武道に伝えられる立ち関節技や投げ、一部の蹴り技などを加えたものと考えればしっくりきます。
 いわば複合流派で、新興のミックス格闘技というわけですね。
 堀辺氏が骨法を発表された1986年前後は、現在と違ってインターネットなんて便利なものはありませんでした。
 なので骨法に疑義を挟む人も情報の少なさゆえにまた少数派で、僕も含めた多くの人が堀辺氏にコロリと騙されちゃったわけですが、情報が湯水のように溢れている現在においては、まったく通用しない「ハッタリ」です。言い方は悪いですが、化けの皮はすぐ剥がれます。

 僕は堀辺氏が、喧嘩芸骨法が詠春拳の亜流であると隠してまで、そうしたハッタリをかます必要はなかったと思います。
 詠春拳はもともと、胸ぐらのつかみ合いから始まる喧嘩において実戦的だと言われている拳法ですし、これを学んだブルース・リーがフィリピンの武道をミックスして「ジークンドー」を創始したことは非常に有名です。
 ですから堀辺氏もこれに倣い、
「この武道は私が詠春拳に着想を得て創始した現代武道です」
 と最初から言えばよかっただけのことです。
 もっともその場合、一子相伝云々などという神秘性は失われるので、骨法がここまで注目され、有名になることもなかったでしょうが(そもそもその場合骨法なんて名前にはなっていなかったでしょう)。
 そうしていれば、現在ネットで散見されるような「詐欺」「インチキ武道」「カルト武道」などという揶揄や批判を受けずともすんだのではないでしょうか。
 ただ、堀辺氏はこの骨法を喧嘩芸と名付ける前は、吉丸慶雪氏という合気道家と組んで「換骨拳法」という名前で売り出していたらしいので、前言を翻すには引っ込みがつかなかったということ、そしておそらく経済的理由で門弟が欲しかったということもあるのではないでしょうか。

 次に骨法の迷走がどこから始まったのかと考えてみました。
 これはやはり、1990年代になって日本へ輸入されてきたグレイシー柔術をはじめとするブラジリアン柔術の台頭と、いわゆる「なんでもあり」のバーリ・トゥードを肯定しはじめた辺りからでしょう。
 しかもただ肯定するどころか、堀辺氏は何を思ったか喧嘩芸で培ったものをあっさり捨てて、寝技が主体の「日本武道傅骨法」に技術体系も武術論理も宗旨変えしてしまいました。
 やはりコレが致命的だったように思います。
 週刊プロレスとか格闘技通信などの雑誌に、堀辺氏が連載されていた武道論なんかはなかなか面白く、なるほどもっともだと感じられる部分もあったものの、だからといって自らが積み上げてきたものをおジャンにしてどうするのでしょうか。
 あそこでグレイシーは黒船だとか言わないで、多くの武道家と同じように、
「グレイシー柔術は武道ではない!」
とか言って否定して、骨法はずっと喧嘩芸のままで業を磨いていけばよかった気がします。
 そうすれば現状のような迷走をせずに済み、現在とはもっと違ったものになっていたことでしょう。
 ただ堀辺氏は武道家としてよりもむしろ「論客」「思想家」として優秀な方だったらしいので、それまでは「路上の格闘技」「実践的」を追求してきたとする持論を証明し、武道界における自分のポジションを強固なものとするためにも、対応せざるを得なかったのかもしれません。
 いずれ、堀辺氏が「黒船」だなどと主張していたブラジリアン柔術と何でもありの試合によって、骨法はまさしく明治維新の江戸幕府のように倒れてしまったわけですから、これ以上の皮肉はないでしょう。

 最後に、堀辺氏は実際に強かったのかという点を考えてみます。
 ネットの掲示板などでは、「堀辺氏はインチキ武道家なので弱かった」というのがほぼ定説になっていますが、それはどんなものでしょうか。
 僕はある程度の強さを身につけていたのではないかと思います。
 もちろん実際に堀辺氏とお会いしたことはないですから、ビデオなどの映像で観察(?)する他ないのではっきりしたことはいえませんが。
 一流の武道家だとか、喧嘩にめっぽう強いとかいうわけでは決してなかったでしょうけれども、それなりの実力は備わっていた気がします。
 ビデオで見た限りですが、運足や立ち関節技への入り方などはそれなりに綺麗でしたし、一連の動作からはちゃんと稽古を積んでいないとできない「慣れ」のようなものが感じられました。
 大体、台湾の国術会の顧問をしているくらいですから、少なくとも中国拳法の腕はそれなりだったでしょうし、またそうでなければ、曲がりなりにもあれだけの数の弟子、特に骨法の第一世代の弟子である廣戸氏(現在はスポーツトレーナーとして活躍されているそうです)などの優秀な弟子は集まってこなかったでしょう。
 まあ自伝に書かれている他流試合とか左翼だか右翼だかの内ゲバが云々というのは、明らかなハッタリだと思いますし、某掲示板で指摘された体幹がぶれているとか、動きに柔軟性が感じられないなどといった部分は確かにその通りだと思います(^^;)。
 有名な「徹し」は、澤井健一氏の太気拳から盗んできたものだとかいう主張をする人が多いようですが、自分がやるにしろ、澤井氏のところへ弟子を潜りこませて盗んでこさせたにしろ、少し練習したから、あるいは見てきた程度の練度で再現するのは難しいはずです。
 徹しは殺人的な威力があるとずいぶん誇張されていますが、アレは中国拳法なんかではよくある突きで(纏絲勁、浸透勁などと数種類あり、沖縄唐手では裏当てという似たような技があると言われます)、たしか詠春拳でもワンインチパンチとか言われているものがあるはずですし(すみません、名前はど忘れしました)、堀辺氏もそれをただ単に習得されていただけなのではないかと思います。
 それを骨法を立ち上げる際、「徹し」などと名づけて見栄とハッタリを張っていたのでしょう。
 
 堀辺氏最大の欠点は、嘘がバレたことでも、ご自身の実力がそれほど高くなかったということでもなく、自分の継承者になれるような優秀な弟子を育てられなかったことに尽きると思います。
 どういう事情があったかはわかりませんが、非常に優秀な弟子であったとされ師範代でもあったという廣戸氏などの第一世代の門人が大量離脱し、残された第二世代の弟子はまだ技術が未熟なまま師範代になった上、陰険なイジメ行為で後輩をいたぶるなど人格まったくなっていなかったと聞きます。
 技術が未熟というだけならいいのです。堀辺氏が丁寧な指導を行い、皆で同じ稽古をしていけばいいだけです(とはいえ、途中で技術の大転換をしてしまったのですから稽古のしようもなかったでしょうが)。
 問題は、内弟子や通い弟子の間にいじめがあったとされる部分です。
 堀辺氏自身はそうしたことに口出しを一切しなかった(見て見ぬふりをしていた?)といいますが、これが氏の武道家としてまったくダメな部分と思います。
 人の上に立つ武道家は、弟子を育てることでより強くなれます。
 弟子への技術指導や人格指導を行うことで、自らの欠点に気づき、それと向き合い、改善し、技術的にも精神的にも成長できるものといいます。少なくとも、僕が昔学んだ古武道の先生はそのようなことを言っていました。
 これがまったく出来なかった堀辺氏は、武道家として二流三流と言わざるを得ません。
 もしいじめが本当のことであって、ご自身がそれを知っていたなら見て見ぬふりなどせず、そんなことはやめろ、人間として恥ずべきことだときつく言い聞かせるべきでした。
 それが人望を得て人を集め、ひいては流派を発展させて、より良い弟子を育てることにも繋がるのです。
 それをしなかったおかげで骨法は名のある優秀な弟子が育たず、理論的にも技術的にも二転三転迷走し、最初は喧嘩芸から始まったものが、いつのまにやら短刀を使用したナイフ術に変貌してしまいました。
 
 堀辺氏は、確かに自称するような、あるいは80年代末期~90年代にかけてプロレスや格闘技に一大ムーブメントを巻き起こしたような優秀で神秘的な武道家ではなかったでしょうし、作り上げた骨法も他流派の寄せ集めであり、古武道ですらなく、技術も迷走し通しというものではありましたが、非常に個性的で、しかも頭脳明晰(論客としては)、独特のカリスマ性を備えた異彩を放つ人物でした。
 一種の「怪人」と言ってもいい人だったと思います(この場合は褒め言葉です)。
 言ってみれば、極真空手の大山倍達氏と同じようなものです。大言壮語癖があり、どんぶり勘定で、いい加減で、それでいて人を強く惹きつける人間的な魅力を持った、色々な意味で個性的な人でした。
 ただ大山氏が優秀な弟子を何人も育て、極真空手を大流派として後世に残したのとは対照的に、堀辺氏の骨法は優秀な弟子を育てられぬまま、近い将来武道界の徒花のひとつとして消えていくでしょう。
 その辺りが唯一にして最大の違いと言えそうです。

 いずれにしろ、面白い人がまた一人この世を去りました。
 昔のあのブームと熱気を知る者にとっては、なんとも寂しい限りです。

2014-06-24 21:50 | カテゴリ:懐かしい話題
YouTubeをダラダラ見ていたらこんなものを見つけましたぞ。



おそらく40歳前後のおっさ…いやいや、男性ならは血の滾りを抑えきれないであろう、懐かしい合体ロボ・アトランジャーのアニメ主題歌です!!
どうも、以前発売された自主制作に毛の生えた程度のアニメDVDの映像と主題歌らしいのですが、なんとアニメ製作はAIC、そして恐るべきことに、このやたら燃える主題歌の作曲は渡辺宙明御大、そして歌手は串田アキラではありませぬか!
なんとも豪華ですねw

この動画を見る限りでは、アニメの出来もなかなかいいように思います。
すっかり見たわけではないので「面白い」とは言えませませんが、透過光の使い方や異様にオーバーなアクションと構図など明らかに80年代風で素晴らしいw
タイガーシャークも出てくるみたいですね。
昔、アオシマのプラモデルを作って遊んだ方なら感涙なしに見ることはできないのではないでしょうか。

どうやら2年ほど前に出た、出来は良かった物の値段が高すぎだったエボリューショントイのマグネット合体玩具の特典として収録DVDが添付されたもののようですが、これ1クールでも構わないのでちゃんとしたアニメを作ってもらえないものでしょうか。
もちろん昔のスーパーロボット風味のお話で…。
アトランジャーが持つ面白さみたいなものはおっさんだけではなく、「合体ロボ」とか昔の「マジンガーZ」などの「スーパーロボット」が未だに人気があり、若い世代にも愛好者が多いという事実を考えれば、今の子供たちにも訴えかければ相通じる部分があるのではないかと思うのですよ。
なのでアニメやそれに準ずる企画が展開されれば、きっとおっさんだけが喜ぶものでもないと考えるのですが…。

そのためにも、アオシマにはもっとアトランジャーや合体マシンのプラモデル再展開を頑張ってほしいものですw
艦これとか痛車作ってる場合じゃねえぞ、アオシマさん!!w

2013-12-03 23:56 | カテゴリ:懐かしい話題
僕が住んでいる盛岡市の玄関口・盛岡駅が今日で123周年を迎えたそうです。

ここをクリックすると岩手日報(ローカル新聞)の当該記事にジャンプします。

今は東北新幹線の停車駅として、また県都にふさわしい立派な駅舎になっていますが、僕が子供の頃は今のような立派な建物ではなくて、建物は大きいけれども、なんか暗い感じだったのを思い出します。
駅正面向かって右側、今はフェザンという駅ビルのあるところが、だだっ広いお土産売り場になっていた記憶がありますね。
すごいみぞれの降る夜に、東京出張から戻ってきた父を母と二人で迎えに行った記憶があるなぁ…あれは幼稚園に入る前だったかな。
こんなことをよく覚えているものですね。幼少時の記憶ってバカに出来ないな。

あとは、盛岡駅と聞くと個人的に思い出すのは駅弁です。
八戸の名物駅弁に、「小唄鮨」という美味しい弁当があります。
酢で〆た鯖と紅鮭の薄い切り身を押し鮨にしたもので、富山のますのすしの親戚みたいなものですが、今は盛岡駅の駅弁売り場でも結構普通に並んでいる、そう珍しくない弁当です。
ただその当時は八戸からの列車が着く一日二回くらいのタイミングでしか売店に並ばなくて、幻の駅弁などとさえ言われたものでしたから、食べたい人はその時間めがけて弁当売場に並ばないといけませんでした。
僕の父がこの弁当が好きで、僕が育った町は盛岡駅からは大分離れている場所だったんですけど、父に連れられてその弁当を買いに行ったことをなんとなく覚えています。

駅前も、その当時は今から想像できないくらいにごちゃごちゃしていて、しかも駅舎の正面向かって左側には怪しい建物があり、その地下が「駅前地下」というポルノ映画館になってたりして(この建物はほんの7~8年くらい前まではまだありました)、駅の周辺なのにずいぶんなアングラ感がありましたね。

あと亡くなった祖母が良く話してくれましたが、大正はじめに東京駅で刺殺された盛岡出身の総理大臣・原敬の葬式の際、東京から特別列車で原の棺が運ばれてきました。
その際、原を慕う盛岡市民が大挙して押しかけ、駅前から菩提寺の大慈寺まで提灯行列を作って原のお棺を運んだのだそうです。
女学生だった祖母も提灯を持って、その列の最後のあたりを歩いた記憶があるそうでした。
これもなかなか珍しいお話ではないでしょうか。

盛岡駅が123年と聞いて、なんとなくそんなことを思い出すのでした。

そうそう、近々盛岡駅から花巻を経由し、確か遠野までSLが走ることになったんですよ(釜石までだったかしら)。
その車両基地が盛岡駅の西口方面に出来たのだとか。
列車好きの方はチェックを入れておいたほうがいいかも?

2013-11-08 23:08 | カテゴリ:懐かしい話題
先日、古本や中古DVDを扱うお店でパニック映画「ピラニア(1978) コレクターズ・エディション」を手に入れた。
アマゾンではプレミアムが付いて5000円くらいで売られているDVDを3000円ちょいで購入することが出来たのはちょっと嬉しい。



この映画を初めて見たのは小学校の時、確か月曜ロードショーでだった。
僕の母は大酒飲みで当時毎晩のように近所の居酒屋に飲みに行っていたんだけど、僕も母について行って、居酒屋の裏にある経営者宅に上がりこみ、そこの子(僕とは学校の同級生)と一緒に、四本足のテレビ(その頃はまだそういうものがあったのです)で見たような気がするなぁ。
当時はあまり出来のいい映画とも思えなかったんだけど、なんだか印象に残っていないんだよな…。
続編の「フライングキラー」の方だったら結構鮮明に覚えているんだけど。
いずれにしろ色々と思い出せる出来事は多くて、すごく懐かしい。

購入したDVDは勿体つけてまだ見ていないので、明日発泡酒を片手に鑑賞してみようかと思っているんだけど、あの頃の思い出にまたひたれるかなぁ…。