2016-12-04 11:17 | カテゴリ:歴史
「奥南落穂集」の意訳は今回で終了します。
全19回のお付き合いありがとうございました。

自分でも、訳しながら色々と調べてみましたが、明らかな誤伝や初歩的な記載ミス等も散見され、また話の整合性のつかない部分なども多く、原本作者もかなり記憶の取り違えや資料の読み間違えをして書いていることがわかります。
従って、文書の正確性には限りない疑問符がつきますが、それでも戦国時代の北東北に割拠し、領地争いに鎬を削っていた豪族たちがどのような人生を辿り、如何様な末路を迎えたのかその興亡をを垣間見ることはできようかと思います。

東北の大名は、全国的に有名で人気のある「伊達政宗」だけではないのです。
作者不詳のこの文書に書かれているような、無名の…あるいは比較的地味な人々も生きていたということを忘れないでいてあげて下さい。



奥南落穂集(意訳)19
大崎左衛門督義隆のこと

 斯波尾張守源高継の弟・斯波伊予守家継または家兼という人は、足利に連なる一族で征夷大将軍・足利尊氏に仕えて軍功を挙げた。それによって奥州探題職に任じられ、貞和年中(1345~1349)に奥州へ下向した。陸前国加美郡の名生城に住んだが、その周辺が大崎郷という地名であるのにちなみ大崎氏と改姓した。奥州には南朝方の豪族が多く割拠していたが、それを武威をもって討ち従え、あるいは親和するなどして従え、ことごとくを北朝に服従せしめた。

 二代目は大崎治部大輔直持が家督し、その弟・修理大夫兼頼は出羽按擦使となって、羽州最上山形城に住して最上氏の祖となった。直持から四代目の大崎左京大夫持兼は、次男の左衛門佐教兼を明応元年(1492)に陸中国志和郡へ下らせて高清水城に住まわせ、持兼は志田・栗原・遠田・玉造・加美・黒川の六郡を領した。

 その三代目は大崎彦三郎高兼といったが、病弱である上、家内に不正があったため、郎党は離反し臣下のものは叛いた。岩手山城に拠点を移したものの、大崎氏の武威は大いに衰えることとなった。永禄三年(1561)にまだ若くして亡くなった。
 その息子・彦太郎が家督して大崎左京大夫義直と名乗り、中新田城に移住して元亀二年(1571)将軍・足利義昭に駿馬を献じ、返礼として鷹と鐙一領を拝領した。天正五年(1577)に亡くなった。 

 その息子・龍王丸が家督を継いで、大崎左衛門督義隆と名乗って小野田城に拠点を移したが、すぐに名生城に移住し、同十五年(1587)長身である新田刑部少輔と伊庭七郎の両人が家内での権威を争い、それぞれに兵を集めて戦争するに及んで大崎領内は大いに乱れ、主君はあってなきものになった。同十八年(1890)に至って豊臣秀吉の小田原の陣に参礼しなかったことを咎められて領地は没収され、浪人となって京都千本通に住み、蒲生氏郷の扶助を得て生活した。氏郷が亡くなった後は、上杉景勝の家臣となった。

 義隆の息子は右京亮義成といい、没落後は最上義光の扶助を得て千石を給せられた。文禄年中(1593~1596)に亡くなった。義成の息子・大崎源三郎義久は三戸を来訪して南部信直に仕え、慶長元年(1596)に二百石を給せられたが、同四年(1599)家禄を返上して南部家を去り、伊達政宗に仕えた。
 義隆の次男・大崎七兵衛義名は没落後は最上へ行き、慶長八年(1604)に南部利直に仕え百十石を給せられた。七兵衛の子は大三郎といったが早世した。次男の甚太郎義世も早世し、家名は断絶となった。
 また、義隆の三男・大崎庄三郎義辰は蒲生氏郷に仕えて二千二百石を給せられたが、後に去って上杉景勝に仕え臣下となった。

<臣下のもので南部家に召し抱えられた人々>

石川越前隆定    (重臣で一万八千石を領した。石川内膳正隆持の息子。天正十五年の乱では新田方に一味して、十八年{1590}に没落した。信直に仕えて三百石。岩崎一揆・大坂の陣に従軍し、寛永十二年{1636}に死んだ)
石川久膳屋高    (越前の子)
石川助右衛門高貞  (久膳の子。通称は半十郎といった)
石川金十郎高春   (隆定の次男。十駄二人扶持)
葛岡三十郎義和   (旧臣。監物義忠の子。利直に仕えて二百石)
葛岡治右衛門義徳  (三十郎の子。二百石)
葛岡主鈴      (治右衛門の子。早世し、家名断絶となる)
矢口采女次親    (旧臣。浪人後は大崎右京亮義成の娘・於満の方を連れ、儀俄氏に託した後辞去して最上家に仕えた)
矢口庄左衛門正影  (采女の子。重直に仕え九駄二人扶持)
欠口吉左衛門次有  (庄左衛門の子。家禄没収になり、その後は御徒となる)
矢口庄左衛門次影  (吉左衛門の子)


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2016-12-02 23:33 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)18
葛西正兵衛晴勝のこと

 葛西壱岐守平清重は、右大将・源頼朝に仕えて多くの軍功を挙げた。文治五年(1190)頼朝の奥州征伐により藤原泰衡が滅亡すると、同六年(1191)清重は奥州奉行に任じられ、陸奥国登米郡登米城に下向した。桃生・牡鹿・本吉・登米・磐井・気仙・江刺の七郡を領地として、国人たちはこぞって服従した。

 清重には男子が八人もあったが、次男である伯耆守清親が二代目を、その三男・伊予守朝清が三代目を継ぎ、桃生郡石巻城に住して、その子孫は七代目に至って一門のものが多く繁栄した。彼らは領内各所に住んで、登米城の葛西判官三郎兵衛重政は、南朝方の北畠顕家に属し、新田義貞に従軍して戦った。
 貞和年中(1345~1349)になると、征夷大将軍・足利尊氏の一族にあたる斯波伊予守家経が奥州探題職に任命されて陸奥国へ下向し、陸前国加美郡名生城に住み着き、大崎氏を称した。これにより国人たちの大半は大崎氏に服従し、北朝方に属するものが多くなった。このとき、葛西家の八代目・兵庫助忠延は大崎家と和親してその縁族となったので争いは起きず、近郷は平和であった。
 応仁(1467~1468)の頃から諸国で騒乱が起きはじめ、豪族たちが互いに領地を争い合うようになって、世情は穏やかならぬものとなった。葛西一族の家臣たちもみな一家をなして独立したため、葛西宗家は大いに衰えた。

 忠延から八代日の子孫・葛西壱岐守晴信は、初名を三郎相模守といった。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原の陣へ参礼しなかったために没落し、浪人となって各地に身を潜めつつ流浪したが、文禄(1592~1596)中に亡くなった。
 その息子(注・名前は脱落している)は伊達政宗に仕えたという。また、別の息子・葛西正兵衛晴勝は初名を庄次郎といい、父親とともに流浪して遠野へ身を潜め、慶長六年(1601)三戸を来訪し、南部利直に謁見してその客分となり、七百石を給せられたが、同十五年(1610)には五百石に改められて臣下となった。

 その息子・正兵衛晴易は寛文二年(1662)に亡くなった。その息子・正兵衛晴綱も三百石を給せられ南部の家臣となったが、晴勝の二男・平三郎晴連は一生を浪人のままで終わった。
 その子・平左衛門晴宗は南部重信より二人扶持を給せられ、勤務に努力したため加増されて御用人に取り立てられ三百石となった。晴易の次男・市右衛門晴興は重信の代に百五十石を給せられた。
 南部の葛西一族は五家を成したが、その他にも一族は諸国に多くあるそうだ。
 江刺氏はもともとこの家の長臣であり、永正(1504~1520)の頃は主家よりも威勢があった。それについては別に伝を立てて詳細を記している。

<一族并びに臣下のもので南部家に召し抱えられた人々>

浜田彦兵衛清春  (葛西一族。浜田阿波守重正の息子。 没落後は閉伊郡に潜伏し、信直に仕えて七百石。大槌城代。寛永十六年{1651}に亡くなった)
濱田彦兵衛清昌    (清春の子。三百石となり、花巻に住む)
濱田大隔清周     (清昌の子。寛文三年{1663}に百五十石となる)
濱田甚五兵衛清秀   (大隅の子。盛岡に移り、百六十三石)
勝又右馬允清辰    (葛西支族。天正十八年{1590}主家の没落により浪人する。花巻を来訪し、慶長十一年{1606}利直に仕えて二百石を給せられた)
勝又藤左衛門清綏   (右馬允の子)
勝又六之丞清勝    (藤左衛門の子)
勝又伊兵衛偕昌    右馬允二男左内 二駄二人
名須川茂左衛門義照  (旧臣。名須川城主・名須川玄蕃の四男。主家の没落により浪人する。花巻に来て住み着いた。寛文十年{1671}重信の代に新田へ五十石を給せられた。花巻与力)
名須川茂次右衛門義勝 (茂左衛門の子)
名須川小兵衛義徳   (茂次右衛門の子)
名須川吉左衛門義正  (茂左衛門の次男。新田へ四十八石を給せられた)
布佐七右衛門常之   (旧臣。浪人。花巻に来て、石井伊賀守に仕えた)
布佐新右衛門常行   (七右衛門の子。浪人)
小野寺山三郎常久   (新右衛門の子。重信より五駄二人扶持を給せられた)

2016-12-01 22:09 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)17
柏山伊勢守明助のこと

 柏山氏は千葉介平常胤の子孫で、陸奥国胆沢郡の領主であった。源頼朝より地頭職を給わったとも、足利将軍の時に下向してきたとも言うが、詳細は不明である。大森城(注・大林城の誤り)を居城としたが、永正(1504~1520)の頃より衰えはじめ、江刺家の旗下となり天正十八年(1590)になって没落した。

 当主の柏山伊勢守明助は浪人となり、慶長三年(1599)に南部利直へ仕え、千石を給せられた。花巻に住して北松斎に従い、番頭(注・バントウではなく、バンガシラと読む。今でいう上級将校クラスの戦闘指揮官)を務める。岩崎の和賀氏が没落した後に岩崎城代となり、岩崎に居住し、寛永元年(1624)に亡くなった。

 死後は嫡男の半太郎明定が家督を継いだが、寛永二年(1625)になって亡くなった。子供がなかったため、弟の平左衛門明信が家督を継ぎ、江戸勤番を命じられたが、寛永四年(1627)に二十五歳の若さで亡くなった。その息子の兵蔵明通が家督したが、幼少の上に病弱で、同四年(1627)十二月に亡くなり、後を継ぐものがなく家禄は没収、家名断絶となった。

 伊勢守明助の弟の柏山九郎兵衛明知は、兄とともに花巻へ移住したが、慶長五年(1600)、岩崎一揆の際に討死した。同じく弟の柏山弥三郎明範は兄と同じく利直に仕えて百石を給わる。その息子の柏山仁左衛門明忠は寛永六年(1629)に亡くなり、子供がなかったため家名断絶、家禄没収となる。これによって柏山一族は完全に断絶した。遺骸は岩崎村(注・記載欠落)に葬った。

<一族並びに家臣の者で南部家へ召抱られた人々>

折居嘉兵衛明宗    (支族。伊勢守と同じく利直に仕えて五十石。岩崎一揆の鎮圧に功績があり、岩崎に住むようになった。万治二年{1659}八十二歳で亡くなった。柏山一族の祭祀はこの家で執り行った)
折居三九郎明吉    (嘉兵衛の子。慶安八年{注・慶安の元号は五年までしか使用されていないため、何年を指すのか不明}八駄で召し抱えられる)
折居嘉兵衛明次    (三九郎の子)
柏葉甚兵衛常永    (支族。主家の没落後、慶長二年{1598}に花巻に来て身を隠すが、後に伊勢守に従った)
柏葉安右衛門常行   (甚兵衛の子。重直の代になって新田に五十石を給せられる)
柏葉長九郎常房    (安右衛門の子。通称を安右衛門と言った)
柏葉安右衛門常令   (長九郎の子。五十八石)
三田将監義勝     (柏山の旧臣。浪人して鬼柳に住んだ)
三田玄蕃義則     (将監の子。浪人)
三田十郎左衛門義正  (玄蕃の子。重信の代に新田へ五十石を給せられ、与力となる)
及川武蔵恒明     (江刺家の家臣・下河原玄蕃の子)


2016-11-21 19:31 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)16
江刺兵庫頭重恒のこと

 葛西壱岐守平清重は源頼朝に仕え、奥州奉行として陸奥国へ下向した。陸前国の登米城に住み、五代目の子孫・葛西太郎信詮の次男・江刺次郎信満は、江刺郡の岩谷堂城に住んで宗家に仕えたが、南北朝以降は宗家と別れた。
 応仁の乱(1467)以後は隣郡で戦争が収まるときがなく、宗家の葛西氏は大きく衰えたが、江刺家は周囲を攻略して領地を増やし、天文(1532~1555)の頃、江刺三河守隆行の代になるとその石高は十万石にも達した。隆行の死後は息子・治部少輔隆重が遺領を継ぎ、隣郷を服従させた。

 その息子が江刺兵庫頭重恒である。天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原へ下向し、参陣しなかった者を征伐するとして豊臣秀次に大軍を預けで下向させたが、その討伐軍が二本松まで到着したとの噂を聞いた重恒は大いに驚き、城を捨てて逃走した。その後は閉伊郡の乙茂村に身を潜めたが、家臣の三ケ尻加賀垣逢は主家の没落を歎き、浅野弾正少弼長政が下向した際、主家の再興を嘆願した。長政はこれに同情して南部信直へ相談したので、江刺兵庫重恒は南部家に召し抱えられて二千石を与えられ、新掘城に居住した。禄高の内三百石は三ケ尻に給せられた。

 重恒の長男・彦三郎重俊は、天正十九年(1591)父に先立って亡くなったため、次男の彦四郎重隆が家督を継ぎ、名前を兵庫と改めたが、慶長七年(1602)に亡くなった。
 三代目の江刺長作隆直は岩崎一揆討伐に従軍して戦功があり、安俵のうちの土沢城へ移って、千五百石を領した。元和九年(1624)に京都で亡くなった。
 四代目の江刺勘解由春隆は、初名を市十郎といい。寛永十八年(1642)に亡くなった。弟の江刺助之進隆次は分地して二百石を領した。
 五代目は江刺勘兵衛長房で、初名を兵十郎といった

<江刺一族や家臣で南部家へ召し抱えられた人々>

口内帯刀隆朝     (一族。信直に仕えて五百二十四石。花巻に住む)
口内彦次郎重幹    (帯刀の子。三戸に住み二百石。家名断絶)
人首平右衛門恒輝   (甚太郎の子。浪人となる)
人首平十郎盛恒    (一族。信直に仕えて百石)
人首甚太郎恒冨    (平十郎の子。七十石。家禄没収)
人首平八郎恒茂    (甚太郎の仁安。八戸へ赴く)
栃内勾当慶都     (支族。盲人であった。没落後は遠野の栃内村に潜伏した)
栃内小左衛門重廣   (勾当の子。利直に仕えて百石)
栃内小左衛門重任   (小左衛門の子)
松田検校印都吉高   (江刺の一族・江刺主膳の次男。盲人であった。閉伊那の小友村に身を潜めたあと京都へ出て、一條通りに住んだという。慶安三年{1651}に亡くなった)
松田清左衛門吉勝   (検校の子。重直に仕えて七十石。その後五十石を加増された)
松田清右衛門吉政   (吉勝の子)
松田清左衛門吉智   (吉政の子。百八十石)
三ケ尻加賀恒逢    (江刺の支族で長臣である。忠義の人。浅野長政に訴えて江刺家は信直に仕えることとなった。加賀には三百石が給せられた)
千葉重兵衛恒章    (三ケ尻加賀の子だが、廃嫡された)
三ケ尻弥兵衛吉次   (重兵衛の子。三百石)
三ケ尻弥兵衛吉道   (吉次の子)
高屋四郎左衛門恒延  (江刺の旧臣。源太夫兼網の子孫・高屋左近則政の息子。主家の没落後は遠野広長に仕えたが、その後は利直に仕えて五十石)
高屋三郎左衛門恒宣  (恒延の子。重信に仕えて百石を給したが没収となる。通称は四郎左衛門)
高屋善右衛門恒之   (恒宣の子。通称は四郎左衛門)
高屋伝左衛門恒高   (恒之子。通称は四郎左衛門)
高屋才六則久     (左近則政の弟。利直に仕えて百石)
高屋仁左衛門儀明   (才六の子。通称は六左衛門)
高屋六左衛門吉倚   (仁左衛門の子。通称は長十郎)
高屋八右衛門恒方   (左近則政の三男。浪人。田瀬一揆の際鎮圧軍に化成し、戦功があった)
高屋長五郎吉勝    (八右衛門の子。重信に仕えて五十石。通称は八右衛門)
高屋長左衛門吉当   (長五郎の子)
下河原玄蕃恒忠    (高屋左近則政の弟。柏山伊勢守に仕えたが浪人となる。遠野に住んだが、後に花巻へ来て政直に仕える。黒沢尻村に百石を給された)
下河原利左衛門恒長  (玄蕃の子)
下河原勘右衛門恒光  (利左衛門の子。百五十石)
下河原文次郎恒算   (玄蕃の次男。郡山与力で新田に三十石を給された)
及川武蔵恒明     (下河原玄蕃恒忠の長男。元和元年{1615}利直に仕えて二百石。その後加増されて三百石となるが、致仕{注・碌を返上して浪人となること}した。号を益庵といい、医業をなした)
下川原武右衛門恒元  (武蔵の子。百五十石。通称は弥次右衛門)
下川原武兵衛廣恒   (武右衛門の子。百石。通称は武右衛門)
小田代肥前氏基    (同流。江刺の旧臣。兵庫重恒の家子{注・直臣のこと}。江刺家が知行する領土のうち田瀬村に住み、慶長五年{1600}の田瀬一揆の際には、決死の戦いを見せて一揆救援の伊達勢を敗った)
小田代蔵人恒真    (肥前の子。江刺の臣{盛岡藩士の江刺氏の家来という意味。以下同じ})
小田代兵部恒弘    (蔵人の子。江刺の臣)
小田代備後恒道    (肥前の次男。江刺の臣)
小田代弥兵衛定    (兵部の子。江刺の臣)
小田代久右衛門恒政  (兵部の次男。重信に仕えて二十石。花巻与力)
小田代又右衛門恒次  (久右衛門の子。新田に七十石)
羽黒堂彦市茂道    (江刺支族。主家の没落後は花巻に来て利直に仕えて百石。松斎に従う。花巻に住んだ)
羽黒堂八左衛門正道  (彦市の子。通称は勝右衛門)
松川忠左衛門茂吉   (八左衛門の子)
松川藤四郎恒徳    (八左衛門の次男。新田に百石を給されたが家禄は没収され、家名は断絶した)
鈴木刑部広重     (鈴木三郎重家の子孫。江刺の旧臣。没落後は利直に仕えて二百石。松斎に従い花巻に住んだ。元和二年{}1616)に亡くなった)
鈴木弥五右衛門家元   (刑部の子。家督を継ぐことが出来ず浪人となった)
鈴木弥伝治茂愛    (弥右衛門の子。重直に仕えて四十石)
鈴木次郎右衛門愛次  (弥伝治の子。盛岡に移り五十石を給される)
長坂備中信胤     (千葉家の庶流。長坂城に住み、天文{1532~1555}頃より江刺家に従った。天正十八年(1590)没落し、稗貫郡瀬川村に身を潜める。慶長二年{1597}に亡くなった)
長坂刑部胤方     (備中の子。利直に仕えて百石。松斎に従う)
長坂次郎兵衛胤屋   (刑部の子。実は伊藤小市郎の息子という)
長坂市郎左衛門胤良  (次郎兵衛の子。通称は刑部)
百岡藤左衛門広胤   (備中信胤の次男。江刺の臣)
百岡藤八         (広胤の子。通称は藤左衛門)
太田代宮内清也    (江刺の旧臣・菊池家の末流。太田代村に住み、主家没落後は浪人となる。その後は花巻へ来て、寛永十三年{1637}重直に仕えて百石を給された)
太田代弥平次正也   (宮内の子。五十石)
太田代兵右衛門清邑  (弥平治の子)
太田代兵右衛門吉保  (兵右衛門の子)
鴨澤左馬助恒典    (江刺の旧臣・菊池家の末流。主家没落後は浪人となる。慶長十八年{1614}に花巻に来り仕政直に仕えて十駄を給した。寛永元年{1624}になり家禄没収となる)
鴨繹角兵衛恒充    (左馬助の子。新田に百石。花巻に住む)
鴨澤市太夫恒臺    (角兵衛の子。百五十石。盛岡に移り、角兵衛と名を改める)
鴨澤角兵衛恒作    (恒臺の子。加増分を合わせて二百石を給した。通称は兵右衛門)
鴨澤十兵衛恒篤    (恒充の次男。百五十石。家禄没収となり浪人した)
鴨澤長兵衛恒中    (恒充の三男。百二十五石)
鶯澤杢恒之       (鴨沢家の支族。通称は藤十郎)
菊池半左衛門武長   (江刺の浪人。正保二年{1646}三駄二人扶持で召し抱えられた)
菊池半之丞長則    (半左衛門の子)
菊池金十郎則武    (半左衛門の次男。七駄二人扶持)
猪川式部知宗     (江刺の臣。気仙郡の猪川村に住み、文禄年中{1593~1596}に三戸へ来て利直に仕えて二百石。重直の代になって家禄没収となり、江刺家の家臣となった)
猪川蔵人知清     (式部の子。江刺の家臣)
猪川作兵衛真次    (蔵人の子。江刺の臣)
猪川作之丞展真    (作兵衛の子。重信に仕えて十駄二人扶持)
城彦次郎重能     (江刺の旧臣・城和泉の次男。天正十八年{1590}主家の没落により浪人となる。花巻へ来て隠遁した)
城半右衛門重恒    (彦次郎の子。重直に仕えて百石)
城弥三右衛門義繁   (半右衛門の子。弟へ分地して五十石となる)
城半右衛門義敷    (弥三右衛門の子)
千田茂兵衛元忠    (重信に仕えて二駄二人扶持)

2016-11-19 18:52 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)15
秋田城介のこと

 安倍貞任の次男・安東次郎高星は、陸奥国津軽郡の藤崎舘に住んだ。高星の八代目の子孫・安東太郎尭恒は、建長二年(1250)鎌倉五代将軍の九条頼嗣に謁見して本領を安堵され、それから四代目の子孫・安東太郎貞季は南朝方の北畠顕家に従軍して戦った。
 貞季の長男・安東太郎盛季は松前に渡って下国(注・半島のことだろうか)に住し、以後は下国氏を称した。次男の安東次郎庶季は室町三代将軍・足利義満に謁見して、応永元年(1394)出羽に出兵し、豪族の秋田城介顕任を討ち滅ぼして秋田に移住した。その後は秋田城介と称して、三戸の南部守行と比内を争いたびたび合戦し、以後数代に及ぶ確執を作った。

 この九代後の子孫・安東太郎愛季は、たびたび南部信直と戦争した。しかし後に和睦して、信直の姫君を嫡男・忠次郎秀隆の正室とすることにした。愛季は国太郎舜季の息子である。秋田檜山城に住していたが、天正十五年(1587)の春、病気で死んだ。
 家督を継いだ秋田忠次郎季隆は、初名を安東六郎業時といったが、同じ年の秋に亡くなった。子供はなく、正室は三戸へ帰り、以降は檜山御前と言われた。元和六年(1621)七月三日、二戸の福岡城において亡くなった。号は蓮生院といい三戸の長永寺に埋葬した。この人は実は信直の娘ではなく、北主馬秀愛(注・北信愛の次男)の娘であるという。

 秋田家は愛季の弟の安東太郎を家督として、太郎は名前を秋田城介実季と改めた。天正十八年(1590)小田原へ参陣して秀吉に謁見し、旧領五万石安堵された。朝鮮征伐に関しては後方支援へ回され、海は渡らずに済んだ。慶長五年(1600)徳川家康に味方し、最上義光の加勢として出陣したが、小野寺義通が石田三成の味方をして挙兵したためこれを攻撃し、城を攻め取った。同七年(1602)常陸国茨城郡の宍戸城五万石に国替えとなり、大坂の陣では冬夏の両戦に参加した。寛永七年(1631)理由があって伊勢国の朝熊へ蟄居させられたが、この際入道して梁空と名を改めた。そのまま配所で亡くなった。
 実季の息子・秋田河内守俊季は寛永八年(1632)に家督継承を許され、正保二年(1646)奥州田村郡の三春城五万五千石に国替えとなった。その息子は安房守盛季である。

 愛季の二男・安東玄蕃英季は、徳川家康に仕えたあと酒井忠勝に仕官した。三男の秋田修理進季勝は宗家に仕える。実季の二男・秋田隼人季次は家康に仕えて五百石。秋田長門守季信は秀忠に仕えた。四男の秋田三平季安は宗家の家来となった。

<秋田一族や臣下の者で、南部家へ召し抱えられた人々>

秋田忠兵衛季邑   (一族。利直に仕えて五百石)
秋田忠兵衛季形   (季邑の子。二百石。八戸へ赴く{注・四代藩主の重信が家督を継ぐ際に家督騒動が起き、10万石の南部藩は幕府の命令によって8万石の盛岡と2万石の八戸とに分割された。この際、八戸藩の家来として配分されたという意味だろう}が、後に帰参した)
秋田右京助方季   (季形の子。子供がなく家名断絶)
湊修理季政     (一族。利直に仕えて五百石)
湊市郎右衛門季武  (修理の子。三百石。八戸へ赴く)
五丁目兵庫親隆   (本姓は三浦氏。利直に仕えて五百石)
八木橋左馬助茂矩  (旧臣・備中守の子。信直に仕えて四十八石)
八木橋孫左衛門茂吉 (左馬助の子。二百石)
八木橋藤十郎武茂  (孫左衛門の子。利康{注・利直の四男}に殉死した)
佐藤小助陣赤     (慶長四年{1599}松斎に仕えて百石)
佐藤権兵衛陣重   (小助の子。十八石七斗)
佐藤重左衛門陣固  (権兵衛の子)
成田源之丞長吉   (鹿角郡荒川村に住む。浪人)
成田平左衛門長知  (源之丞の子。松斎に仕えて百石)
成田兵庫助元喜   (平左衛門の子。一度録を没収されるが、後に二百石を与えられた)
堀内三右衛門正康  (寛永十三年{1637}に召し抱えられた。五十石。花巻に住む)