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2017-12-06 10:15 | カテゴリ:歴史
*九戸彦九郎実親、討たれるの事

<実親、信直を計る>

 九戸彦九郎実親は南部家の家督を望んでいたが、北、南、東の計略によって信直が総領となり三戸城へ入城したため、実親は従うふりをしていたものの、内心では家督への野心を捨てていなかった。
 それについて実親に同調するものも数多くあり、彼らは、
「表面上は信直に帰服したようにふるまっても、心には虎や狼のような害意を忘れてはならない」
とささやき交わしていた。中でも七戸彦三郎家国は信直に従うことを不本意に感じていたため実親と協力し、密かに実親の意を受けて3月3日、信直を馬場野の屋敷へ招待し、射的の遊興を催した。
 
信直はこれが謀略であるとはつゆ知らず、馬場野の舘に出かけて行った。同行したのは北彦助愛一、同主馬秀愛、東彦八郎重康、毛馬内権之助政次、三上才兵衛、金田市之助、佐々木上野介、同左馬之助などの若侍たち17名ほどである。
 九戸実親はこれを知って大いに喜び、
「おお、これぞ天が我に三戸城を与えたもう好機である。即刻襲撃して討ち取るのだ」
と、武田菱や鐘の白旗を東風に翻し、百五十騎の兵を率いて馬場野の館へ急行した。
 
 馬場野の舘では大将の信直を始め一同の者は何も気づかぬまま、射的の宴に興じていた。
 百歩離れた場所から柳の葉を射抜いたという古代中国の武将・養由基(ようゆうき)の業を真似て弓を引き、正鵠(せいこく)を失して(注・的の中央を外すの意味)武技の未熟を恥じるものや、あるいは桃の花を浮かべた酒を飲み、曲水の詩を詠じる者もいて、それぞれが様々な風流を楽しんでいた。
 
 ちょうどその頃、九戸実親の密謀を伝え聞いた木村又助という者が、急に馬場野へ現れて密かに信直へ面会し、
「九戸実親が本日、ご主君を討ち取ろうと企てて手勢を集め、只今ここへ向かっている途中でございます。速やかに三戸城へお戻りになられ、敵をお討ち取り下さい」
と囁いた。信直はこれを聞き、
「なるほど」
と合点して、急ぎ三戸城へ帰還した。
 これを知らない実親は、手勢とともに馬場野の舘へと急いだ。

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2017-11-22 23:53 | カテゴリ:歴史
<信直の家督相続>

 さて、信直は晴継の遺体を菩提寺の聖寿寺へ運び、礼を尽くして葬った。この際三戸城の留守居役は北信愛が勤めた。何しろ世情が大いに乱れている時代なので、信直に従うものたちは全て甲冑を身に着けていた。
 葬礼の儀式を終えた信直が三戸城へ帰還しようとすると、先日の家督相続の遺恨を含んでいたのであろう、九戸家の手の者が誰とは知らず百四、五十騎も後方の森の陰から飛び出して、弓鉄砲を射掛けてきた。信直の共には北信愛の長男・彦助愛一、次男の主馬秀愛、南少弼盛義などがおり、皆武器を抜き連れて迎え撃ち、聖寿山と川守田山の狭間で刃を合わせ、三、四度まで追い返したが、日が暮れたため信直は付近の川守田舘に向かった。
 舘主・川守田常陸入道の嫡男・久兵衛が急いで現れ一行を招き入れたが、そうしているところへ襲撃者の一団が追跡してきて、門内へ乱入した。

 信直はこの様子を見るやいなや鉄砲を押取り、先頭を切って突撃してくる大将らしき侍へ発砲して撃ち倒し、落馬させた。
 これを見て信直の家臣たちは我も我もと斬って出て、川守田父子も同様に突撃したため、襲撃者たちも必死に戦ったけれども小勢のためかなわず、過半のものが討たれ、しかも大将が射殺されたためかなわぬと思ったのであろう、八方に散って逃げ去った。
 翌日信直はなんの問題もなく三戸城へ帰還したが、領国内の一門は言うに及ばず、家臣の者や下々の者にまで即座に出仕せよという触れを回した。もしこれに異存を抱くものがあれば即刻成敗するのでそのつもりでいるように、とも付け加えたのであえて逆らうものもなく、全て信直の命令に従った。

2017-11-16 11:40 | カテゴリ:歴史
*南部家の家督相続と葬儀場での一乱の事

<南部の家督>

 南部彦三郎晴継の病死に伴って葬儀のことはひとまず置き、一門・郎党が招集されて家督相続の相談が行われた。
 八戸弾正直政はいまだに幼少である。その他の一門には東中務少輔朝政、南遠江守宗政、石亀紀伊守信房、毛馬内靱負秀範、北左衛門佐信愛など、家臣には石井伊賀守直光、桜庭安房守光安、楢山帯刀義実、吉田兵部少輔、福田掃部介、久慈備前守直治、野田掃部直親、浄法寺修理重安などが、皆それぞれに意見を述べた。
 ここに南部の一門で九戸左近将監政実は、家中に栄耀を極め大きな影響力を持っていたため、諸氏はみな威風を恐れて媚びへつらっていた。この政実は弟の彦九郎実親が晴継の姉婿に当たるため、彼に家督を継がせるべきだと主張した。しかし、一同の中で北左衛門信愛はこれを許さず、
「南部の家を次ぐべき方は、晴政公ご長女の婿となられた田子九郎信直殿こそふさわしい。信直殿の奥方がもし女性ではなく男子であられたなら、誰が家督を争うだろうか。女性だからと言って初めを捨てて、末を取るというのは物事の順逆に合わない」
と言うと、南遠江守と東中務もこれに協力して手勢百余騎を率い、信直の館へ迎えに行った。

 信直は晴継の近い親族であるため何か思うところがあったようで、古代中国の英雄で漢の高祖・劉邦が人々の推薦を受けて沛の長になったという故事のように、思慮を深くし徳を隠して固辞していたが、北信愛がしきりに薦めたためついに沈黙したままではいられなくなり、三戸城へ入城して南部家26代の家督を継いだ。

2017-11-13 19:37 | カテゴリ:歴史
<晴継の死>
  
 時は流れ事は移ろって応仁の乱以降、天下は大いに乱れて、日本東西から平和は失われた。驕り高ぶり逆心を起こした輩がそれぞれに威風を争ったので、南部に従うものも無くなり、僅かな領土を巡って駆け引きするだけになっていた。

 その頃の当主は、南部初代・光行から数えて21代目の子孫・南部右馬頭政康の息子で右馬頭安信の長男・彦三郎晴政であった。この晴政はかつて安政という名であったが、天文5年(1538年)に家臣の一条左衛門を甲斐国へ派遣して武田大膳大夫晴信(注・武田信玄の実名)より諱の一時をを拝領し、晴政と名を改めた(注釈1)。
 晴政には多くの娘がいた。長女は津軽の郡代・石川左衛門高信の嫡男・九郎信直の妻である。石川高信は晴政の叔父で、父・安信の弟である。次女は九戸彦九郎実親に嫁ぎ、三女は東中務朝政に嫁いだ。四女は南小弼盛義の妻である。末娘は北左衛門信愛の次男・主馬秀愛の妻となった。
 六番目の子で唯一の男子・彦三郎晴継は父の死を受け幼少で家督を継ぎ、南部家の棟梁となったが疱瘡を患い、16歳の若さで亡くなった。一門は深くこれを嘆いた。加えて後継するような子もなかったため、人々は南部家の行末はどうなることかとささやきあった。世は戦国乱世で、他家の零落を見てはそれを討ち滅ぼして利を得ようと考える者は無数にいたため、家臣たちが嘆くのも無理のないことであった。


注釈1:ここでは武田信玄の実名である「晴信」の「晴」を拝領して晴政と改めたと書かれていますが、実際のところは京都の足利幕府12代将軍・足利義晴から拝領したというのが本当のようです。
ただ、もとを正せば武田晴信の晴の字も足利義晴から貰ったものですから、出どころ(?)は同じなので、無関係とは言い切れないものが有ります。

2017-11-09 12:24 | カテゴリ:歴史
岩崎一揆からいささか時系列は前後しますが、今回から南部信直の家督相続に関する下りを訳していきます。



*南部氏の由緒と晴継の病死の事

<南部氏の由緒>

 奥州糠部(ぬかのぶ)の領主・南部大膳大夫信直は、清和天皇の末裔で新羅三郎義光の孫・加々美次郎遠光の三男・南部光行に始まる一族の26代目当主である。
 初代の南部光行は、かつて甲斐国の南部郷に住んでいた。しかし、後鳥羽上皇の御代・文治5年(1189年)の秋、鎌倉右大臣・源頼朝が奥羽押領使・伊達次郎泰衡を討伐した際、光行は頼朝の部下として戦い阿津樫山、国見沢など数々の戦いで戦功を挙げ、またその忠義が抜きん出いてため、頼朝はこの勲功を重んじ、賞与として糠部や階上などの数郡を与えた。
 これによって光行は建久2年(1191年)12月下旬、本拠であった甲州の南部の庄よりここへ移住して、同郡の平良崎(へらがさき)を居城と定めた。
 
 この光行にはたくさんの息子がいた。長男は一戸彦太郎行朝であるが、妾腹であったため家を継げなかった。次男の彦次郎実光が嫡男として家督を継いだ。三男は七戸太郎三郎朝清である。四男は四戸孫四郎宗朝、五男は九戸五郎行連、六男は波切居(はくい)六郎実長である。この実長は、甲州では浪切居の郷を領しており、同国の日蓮宗総本山・身延山の開基である。また八戸氏の祖であるともいう。

 実光の息子・彦次郎時実は、当時の征夷大将軍・宗尊親王に仕え、鎌倉に住んだという。
 また、元祖光行から数えて10代目の子孫・南部右馬頭茂時は再勝円寺北条貞時の外孫にあたり、北条相模入道崇鑑の一族であったので、正慶2年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡の際、北条一門とともに鎌倉において自殺した。その孫・遠江守政行は、北朝方の足利尊氏の味方となって数度の軍功を挙げ、尊氏より本領安堵のお墨付きを与えられ、先祖に劣らず抜きん出て忠義に篤かった。

 その子・南部左馬権頭守行入道禅高の代になって、逆臣の謀反に遭遇した鎌倉管領・足利持氏がもはやこれまでと自殺しようとしたとき、守行は大軍を率いて駆け付け、たちまち謀反人を討ち平らげて持氏を守護した。その報奨として応永18年(1411年)6月1日、陸奥の国司職に任命された。
 同23年(1416年)、足利持氏が鎌倉犬懸の前管領・上杉氏憲入道禅秀のために悩まされた際、京都にいる征夷大将軍の足利義持は諸国の軍勢を動員して、上杉禅秀を退治した。この際も守行は馳せ参じて軍忠を発揮した。持氏はこれに殊の外感激し、与えた恩賞も他とは異なっていたため、奥羽二州の武士たちはその威風に感じ入り、守行の住む糠部へ挨拶に赴かないという者はなかった。

 その子・南部庄司義政の代になって、鎌倉の足利持氏は京都の将軍・足利義政に謀反を起こした。京都の義政は東国の武士たちに命じてこの反乱を鎮圧させたが、この際南部庄司義政は京都方の味方となり一番乗りで鎌倉の大手口を攻略して、戦いを勝利へ導いた。
 持氏が滅亡したあと世の中は次第に移ろっていったが南部の威風は揺るがず、葛西、大崎を始め、江刺、柏山、和賀、稗貫、志和、横田、秋田、仙北、由利、庄内の諸豪族も南部家の指揮下に入っていた。