2013-04-30 22:31 | カテゴリ:本の紹介
バーカーの「血の本Ⅴ マドンナ」読了。
血の本シリーズも5冊目。
ゆっくり味わうように読んできたと思うのだが、読み始めると結構早いような気がする。

*禁じられた場所
ホラー映画「キャンディマン」の原作小説。
遥か大昔、本屋の立ち読みで読んだ記憶があった(^^;)のだが、読んでみたら結構内容を忘れてしまっていた。
いずれ「超時空映画館」の方でキャンディマンのレビューはやりたいと思っていたんだけれども、それをやる上でも、この原作との比較研究は、必須であろう。
まあ長くなるのでそれは今ここではやらないが、映画を見てしまった後だと、映画よりもむしろ原作に多少の違和感があるように感じてしまった。それだけあの映画が良く出来ていた…と言うか、原作をとても上手くアレンジしてあるといったほうがいいのかな。
読み終えてみて、映画はかなり大胆に翻案してあるのだが、それでいてきっちり原作をなぞった内容になっていることがわかった。
まあ一言で言うなら、行かなくてもいい場所に行ってしまったばかりに死ぬことになるオバハン大学生の話なんだけど、テーマは「身体が滅んでも、魂は伝説の中で生き続ける(形を変えて生きるという事か?)」というもので、原作ではなんかもやっとした感じに描かれているそれを、映画はストレートに見せている。
北村龍平の「ミッドナイト・ミート・トレイン」なんかでバーカーは監督と激しくぶつかったそうだが、こういう誠実なアレンジなら、バーカーは喜んで受け入れるような気がするなぁ。
ヘレンがキャンディマンと炎にまかれて死んでいくのは映画と同じだが、原作ではその理由が曖昧としていて(大体、キャンディマンの存在自体が何だか不条理。不条理ゆえの怖さみたいなものはあると思うんだが、映画を見た後だと、どうもなぁ)、ちょっと消化不良か。
ただ、お菓子売りの亡霊(?)であるキャンディマンの、道化師を彷彿とさせる外見のインパクトは、ダンディな黒人の幽霊よりもこちらのほうが優っている気がする。
でもなんでこのキャンディマンは右手が鈎になっているんだろうか?
その辺りは映画では上手いこと辻褄合わせしてたが、原作だと色々と疑問が残る存在だ。
ラストの炎はガイ・パークスデー(大昔に火あぶりになったテロリストにちなむイギリスの伝統行事)に絡むものだったとは思っていなかったのでちょっと意外でした。

*マドンナ
廃業したスイミングセンターのプールの怪異を描く作品なのだが、物語の本質はそこにはない。
世の男性にとって女性の身体というものは、自分の身体と比較するとメカニズムがより複雑で、それが一種不思議な感覚や、あるいは時と場合によっては不気味なものというイメージを抱かせることがある。
「女体の神秘」なんていう言葉がそれを端的に表しているし、だからこそ男性は女性に惹きつけられるわけだが、この小説は自分の身体がその神秘的な存在に変貌していくという「性転換」の恐怖(?)を描いた作品。
真面目に考えてみると、性というのは不思議なもので、異性・同性に性的なことで振り回される人間は多いし、心と性が一致しない人間が生まれてくるのは結構ザラにあり、更には肉体的に男女そのどちらでもないという人間が生まれてくることもある。
また、誰しも一度は自分が女に(男に)生まれていればどうなっただろうなどという他愛もない空想をしたことはあるだろう。であればそこに物語や恐怖が発生してくる余地もある。
稀代のストーリー・テラーであるバーカーはゲイだそうだが、彼はこれまでの作品においても、女性を賛美して持ち上げることを度々行なっている。
この「マドンナ」という作品はその最たるものと言えるかもしれない。
以前バーカーは一種のフェミニストなのかも…ということを書いたけれども、もしかしたら彼は女性に憧れを持っている…ありていに言えば、自分が男性であることを受け入れながらも、女性になりたいという願望を持っているのかもしれない…と思ってしまった(彼がゲイだということも影響していよう)。
物語には二人の登場人物が出てくるのだが、結果としてどちらもマドンナの魔力によって「男性にとっての未知なる存在」である女性へと身体が変貌してしまう。
その結果、ひとりは自分の変化を受け入れられずに死を選び、もう一人は周囲に拒絶されながらも自らに起こった変化を素直に受け入れ、マドンナとともに生きることを選ぶ(いや、結果的に死ぬようなことはほのめかされているけれども)。
この正反対な道を選ぶ二人が、バーカー本人(あるいは読者)の女性になりたい、いや、なりたくないという気持ちの葛藤を表現しているように感じて、なにや興味深かった。
途中でマドンナに仕える数人の美少女たちが登場してくるが、彼女らもおそらく、主人公と同様に元は男性だったのではないか…という事がする。

*バベルの子供たち
なんと「血の本」には超珍しい、シニカルなコメディ小説。
世界征服だとか国家を操るだとか、漫画や小説に登場する悪党たちはよく口にするが、それを実際やってみたら、超めんどくさかったです…というような内容。
支配される方の国家元首が命令されることに慣れてしまって、命令がないと自分では何も判断がつけられない馬鹿者揃いというあたりが大変面白い。実際、我が国の政治家にも、素人目から見ても「こいつ本当に政治家かよ」と思わずつぶやいてしまいたくなるような愚かな人物はゴロゴロしているが、おそらくその手の人物は世界中に満ち溢れており、バーカーは彼らを皮肉っているのだろうと思う。
それを政治評論風に真面目にこなすのではなく、こういう物語に仕立ててしまうところがバーカーらしいというかなんというか。
また、支配者たちの方も、年中顔を突き合わせて難しい会議などをしなければならず、また老いさらばえるまで砂漠の真ん中にぽつんと建っているアジトから一歩も外へ出ることが出来ないので、この重圧から開放されたい、人の多い所で死にたい…と切望しているなど、何とも滑稽に見える一方で、どこか切ない気がした。
支配される方は唯々諾々と指示にに従っていれば何も考えることがないので楽だが、支配している方はデータを集めたり協議をしたり分析したりと、比較にならぬほどの苦労をするものなのだなあ。
そしてそれが何十年も続くうちに支配者たちそうした協議にに倦んでしまい、カエルの背中にゼッケンを付けて競争させるカエルレースで全て物事を決めているという辺がすごい。
そんなもので世界が回っているのだとしたら、逆にゾッとしないでもないが…。
他の作品のように血みどろな描写は一切ないが、歳をとった「支配者」たちと主人公がジープで逃げ出すシーンはそれなりにサスペンスフルではある。

*夢の中
米国の20世紀最大の怪奇小説家・ラヴクラフトは「未知なるカダスに夢を求めて」「銀の鍵」など、夢に範をとった作品を書くことがよくあった。
バーカーのこの作品も、それに類した作品といえるかもしれない。
ただしラヴクラフト御大の夢小説は夢の世界を舞台にした主人公の冒険譚を描いたものだが、バーカー夢小説は恐怖と不思議な切なさを描いたものなので、方向性も言いたいことも大きく異る。
テーマは「輪廻転生」だろう。
刑務所の中で主人公の囚人が、同房の奇妙な囚人と自分が時々夢に見る不思議な街とをめぐる恐ろしい出来事に巻き込まれていくという内容で、舞台はほぼ刑務所の中(そして、夢の中)だけ。
主人公とビリー少年の関係はどことなくホモセクシュアルっぽい。尤も、作品中で「僕はホモじゃない」とビリー少年に語らせて入るが、読んでいて明らかにホモっぽいのだw
こういった同性愛を想起させるキャラクターは「豚の血のブルース」や「血の本(第6集に所収の作品名です)」などの諸作品にも登場してくるが、ホモを公言してはばからぬバーカーのショタコン趣味とか、萌えシチュエーション的なものがなんとなく透けて見えるようで、ちょっと興味深いw
ビリー少年は主人公と死んだ祖父の亡霊との間で心が揺れ動き、人間になったり怪物になったりするのだが、これは誰がどう見ても恋愛の三角関係を暗示しているだろう。
そう言った意味では大変奇妙な形ではあるが、ホモ同士の恋愛小説っぽくも読めないこともないだろう。
影(個体が暗闇の中で影になって見えるというのではなく、本当に影)が変形するとか、吐血し苦しみながら得体のしれぬ怪物に容貌が変化していくビリー少年など、描写が大変具体的で、読んでいてまるで映画を見ているように生々しいビジュアルを想像することが出来た。
最初は冷静沈着なキャラだった主人公が徐々に恐怖に囚われ、しまいには恐怖のあまりここから出せと喚いたりなんかりするようになったり、心にトラウマを持ったまま出所して、何の解決も希望も見いだせないまま警官に射殺されてしまうあたりにはいささか驚いた。
まあ、夢の中に出てきた不思議な街は死者の街なので、そこに秘められた秘密を暴くためには、どのみち自分が死ぬしかないのだということなので仕方ないといえばしかたがないのだろうが、いいキャラだったのでもう少し救いのある終わり方にして欲しかった気がしないでもない。

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2013-04-29 16:27 | カテゴリ:ブログ
盛岡も今日は朝からの晴天、そして気温も異様に暖かく、ようやく「春」が実感できるような陽気になりました。
先ほど買い物に市内へ出てみますと、この陽気のせいか人出がかなりあり、道路も混み合っておりました。

そして、この暖かさによるものか、市内の桜が一斉に咲いているようです。

これは、今日買い物に行った市内の産直施設の駐車場にある桜です。

sakura1.jpg

2枚目は晴天、しかも逆光の状態で撮影しましたので、カメラの画面がえらく見づらかったです。
画面が真っ黒に見えちゃって、そこに自分の顔が反射しているという感じなので、ほとんどカンで撮影しました。
なんとかなりませんかね、あれ。

このあと、市内中心部はどうかなと思って、わざわざ帰宅ルートを超遠回りにして石割桜などを見て来ました。
さすがに凄い観光客と自動車で、とても車を止められる状態ではないので(もともと駐車禁止エリアですが)、写真は撮ってこれませんでしたが、今が満開、見頃でした。
この調子じゃきっと雫石の一本桜もすごい人だろうなぁ。
一本桜はまだ少し早いかなとは思うけれども、

その一方で、他の場所では桜はまだ咲き始めというところあり、市内全域が桜の花と香りに満たされるのはあと2日3日はかかるでしょう。
また冷え込んで花が散ってしまわないことを祈ります。



2013-04-28 23:10 | カテゴリ:雑記その他
世の中は大型連休のようですね。
このブログをリーディングしているエブリバディはビッグなホリデイをエンジョイされていますか?
旅行に行く人、家にいる人、イベントに行く人、様々でしょうが、いずれも健康や身の回りにはお気をつけて、楽しい休日を過ごされて下さい。
この連休がステキな日々になりますように。

今朝新聞で読みましたが、盛岡もようやく石割桜が満開になったそうです。
でも全然あったかくないんですよねえ。
日中はまあまあですが風が冷たかったりするし、朝晩はまだ3℃とかいう低温なので、ストーブは止められませんねえ。
リンゴ農家をしている叔父は、霜が降らなければいいがとそればかり心配していました。
早く暖かくなってほしいものですが、きっとようやく暖かくなってきたなと実感できる頃にはもう暑さが始まっているんだろうな。
嫌ですねえ。

それでは楽しい休日を。



2013-04-26 18:44 | カテゴリ:ちょい旅
今日のブログは昨日の続きになります。


ほのぼの館の入口の壁に描かれた、11ぴきのねこのイラスト…と言うか、壁画ですね。
かなり大きいです。
「おもちゃの部屋」と書いてありますが、昨日の写真の座卓とじゅうたんを写した写真の後ろの方のスペースのことで、竹とんぼやらコマやら、昔懐かしい民芸品のような趣のおもちゃがたくさんおいてありました。

「11ぴきのねこ」が好きだ!とか、懐かしいな~とか思われた方は、機会を見て三戸に遊びに行かれるとよろしいかと思います。
多分、幼かった頃の自分に戻って面映いような、切ないような、そんな郷愁を感じることができると思います。

見学を終え、お世話にしていただいた係員の方々に挨拶をしてアップルドームを辞去した後は、老母の好物「三戸南部せんべい」を購入するため、三戸町内へ。
南部せんべいというのはみなさんも多分ご存知かと思いますが、岩手県の郷土食です。
正確に言えば岩手県ではなくて、旧南部領の郷土食で、現在の青森県の太平洋側全域から岩手県北上市あたりまでにかけての地域の郷土食です。
したがって、岩手県内のみならず、旧南部領ならどこで作っても南部せんべいということになるのですね。
まあ、一口に南部せんべいといった所で地域ごとに特色があり、食べ比べると面白いのですが、それについては後述します。

11.jpg
せんべいを購入した「小山田せんべい店」の前から望む三戸の「同心町」の通り。
直線的で道幅の狭いところが当時を彷彿とさせます。
三戸は江戸時代においても南部藩の重要な都市の一つとされ、城が残され管理が行われていました(歴史の教科書などに出てくる一国一城令とか言うが嘘だということがこの事例を見ただけでもわかりますよね)。
したがって町並みも城下町特有の碁盤の目状に作られています。
現在、盛岡や八戸、花巻などの規模の大きな都市圏になると道路の拡張工事や宅地造成などのため昔の面影を残す通りというのは殆どなくなってしまったのですが、三戸町にはまだ当時の趣を残す道が残っています。

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さすが11ぴきのねこの町です。
街角の至る所にこんな案内標識が置かれています。
これはお寺の前に立てられていた標識です。

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そしてそのお寺の前庭には石でできたねこの像が!
隣に人間が腰掛けると大きさがちょうど同じくらいになりますので、かなり大きいですね。

せんべいを購入後、そこからほど近い場所にある三戸城址へ向かいます。

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三戸城の本丸跡。
現在はイベント広場になっているようですが、かつてはここに三層の天守があったのだとか。
三戸城はかなり規模が大きい急峻な山の上に建てられた城で、典型的な戦国時代の山城の一つで、現在でも自動車でないと上まで登ってくるのが辛いくらいに険しいです。
うっかり遠景を撮影してくるのを忘れてしまったので、ご覧になられてもどんな城だかイマイチ想像しにくいと思いますが(^^;)、気になった方はぐぐってみてください。

15.jpg
広場横の駐車場とそこにある売店。
売店はかなり古びた感じで、昭和レトロ感がプンプンしていますねw
普段は右端の一軒しか営業していないようです(桜まつりになると全部開店するのかな?)。
昔、岩手公園(盛岡城址)にもこういうおでんやらおみやげ品やらを売っている売店があったんですよねえ。
懐かしいです。
ちなみに、桜はまだまだ先のようでした。

16.jpg
重臣の屋敷跡にある天守を模した歴史資料館。
もちろん鉄筋コンクリート造りの模擬天守(早い話がにせもの)ですが、それなりに立派ではあります。
何度か中を見学したことがありますが、なかなか珍しいものもあって面白いですよ。

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とりあえず模擬天守も撮影して来ました。
最上階は当然のように展望台ですw

この後、三戸町内を出て道の駅さんのへに立ち寄ったあと、帰路につきました。
自宅到着は大体17時半頃。
長時間の運転は流石に疲れますが、楽しいものです。

18.jpg
今回のちょい旅で購入した「11ぴきのねこ マラソン大会」という絵本。
猫の町で、11ぴきのねこ+どこかのねこ10ぴきがマラソン大会に出場する絵が、アコーディオン式に折りたたまれた愉快な絵本です。
とにかく描き込みがすごいし、猫達がとてもいきいきしており、眺めているのがとても楽しい本です。
おすすめ。


19.jpg
そして三戸せんべい。
手前が「せんべいの生みみ」で、奥のが三戸せんべい。
厚くて若干固めの盛岡せんべいとは異なり、三戸せんべいは薄焼きで結構柔らかいです。大体、色がすごく白いんですよね。盛岡せんべいは、もっと色が濃い感じです。
盛岡せんべいは硬いので、食べるとボリボリ言いますけど、三戸せんべいはシャリシャリといった歯ざわり。とても食べやすいですよ。
ごま入りで、味はほんのり塩味が付いているだけですが、素朴な小麦の味が楽しめます。
僕の知人は、はちみつを塗って食べていましたし、アイスクリームのスーパーカップを乗せる人もいます。
三戸では田植え時のこびる(おやつ)として、甘いお赤飯をこのせんべい二枚の間に挟んで食べるのだそうです。
僕もそのせんべいサンドを食べたことがあるのですが、お赤飯の水分がせんべいに染みて柔らかくなり、独特の触感があってとても美味しかったですよ。

20.jpg
せんべいのみみというのは、せんべいを焼く際に、ペースト状の生地を焼き型に入れた時にできるはみ出た部分のことです。
この生みみは、それを過熱することなく集めて袋詰めしたものです。まあ、加熱してないわけではなく、焼き型に流すときにちょっと炙られているので、全くの生というわけではありません。
この生みみはぐにゃぐにゃしていて歯ごたえがあり、食べられるチューインガムみたいな感じです。
味はやはりほんのりした塩味ですが、これがお酒のおつまみにいいのですw
スルメを食べるような感じで、気づかないうちについつい食べ過ぎてしまいます。
ちゃんと火を通したパリパリのものも売られていますが、やはりこの生みみのほうが断然に美味しい。
生ものなので残念ながら日持ちはしないんですが、冷凍庫に入れておけば結構長持ちします。
これ、皆さんにもぜひ召し上がっていただきたいですねえ。
三戸へ行く機会があったら是非どうぞ!!

今回はこんな感じのちょい旅でした(^^)。

2013-04-25 22:08 | カテゴリ:ちょい旅
今日は久しぶりに良い天気でした。
陽気もかなり良くなりましたので(とはいえ、朝晩は未だにストーブを焚いているのですが)、ちょっと遠出をしたい気分になりまして、愛車「傷だらけのハート号」(軽自動車なのが悲しい)を走らせ、青森県三戸町までドライブへ行くことに。

三戸は、僕が住んでいる盛岡とは非常に縁の深い街です。
というのは、江戸時代盛岡に城を構えていた封建領主南部氏は、もともとこの三戸の領主だったからです。
鎌倉時代に源頼朝に従って甲斐の国から東北に来た南部氏は、現在の青森県から岩手県北部を領地として与えられ、以降数百年の間にわたり、ここで繁栄してきたのですね。
江戸時代になり、領地が広域化したために現在の盛岡へ移ってきたのですが、そういう理由なので南部氏にとって三戸は祖先の地、魂のふるさとです。
盛岡に住む歴史好きの僕にとっても、三戸は興味深い町で、これまでに数回訪れたことがあります。
盛岡市から三戸町までは約100キロほど北の道のり、時間にして2時間程度といったところでしょうか。
三戸には戦国時代南部氏が居城としていた城跡などもあるのですが、今回は三戸町出身の絵本作家・漫画家「馬場のぼる」先生の足跡を訪ねて行くことを目的としました。

馬場のぼる先生は、きっとみなさんも子供の頃に一度は読んだことがあるでしょう絵本「11ぴきのねこ」の作者です。
その縁もあり、馬場先生のふるさとである三戸町は数年前から、11ぴきのねこを町のシンボルキャラクターとして使用しています。
僕は大昔、幼稚園児の頃、この11ぴきのねこが大好きでした。
その頃、講演会でご来盛された馬場のぼる先生ご本人とお会いして「かもとりごんべえ」という絵本にサインを頂戴したり頭を撫でていただいたこともありまして、いたく感激したのを覚えています。
そういうわけですので、三戸町が街のシンボルとして11ぴきのねこを打ち出してきた昨今、先生の足跡をたどる旅をぜひやってみたいと常々考えていたのでした。

事前にネットで下調べをしたところ、どうやら馬場先生の資料をまとめて展示している「アップルドーム ほのぼの館」という場所があるようでした。
そこで今日は、それを目指すことにします。
朝の10時30分頃に自宅を出発、国道4号を北上すること2時間ほど、13時前後に目的地へ到着しました。


ここがアップルドームです。
ドームとか言うくらいなので、建物は円形のドーム型をしています。
ちなみに手前に写っているのは愛車の「傷だらけのハート号」ですw

2.jpg
入り口では「11ぴきのねこ」の七夕万燈がお出迎え。
きっと昨年の七夕祭り(夏祭り?)で使用されたものでしょう。
ちなみに東北各地の七夕祭りは7月7日から半月ほど後の8月5日前後の旧暦で行われることが多いです。

ドーム内の受付で来意を告げると、係員の方が大変親切に対応してくださり、わざわざ展示室まで連れて行ってくださって、なんだかお忙しい中申し訳なかったです。
ありがとうございました。

3.jpg
ドームの内部は体育館になっています。
ドームというからには円形…と先ほど書きましたが、やはりというかなんというか、中身の体育館も円形です。
コートが丸い競技場なんて、ローマの闘技場ならいざしらず、体育館ではちょっと珍しいですよね。
えー、写真がピンぼけですみません(^^;)。
しかし、バカチョンデジカメでもピンぼけになるんですねぇ…。

4.jpg
天井。
やはりドーム状になってました。

5.jpg
展示室の前にあったパネル(?)。
パネルっつか、あれです。
観光地に行くと、人物の顔の部分だけくりぬいてあって、人が自分の顔をはめて写真を取れるようになっている、結構恥ずかしい看板があるじゃないですか。
早い話が、あれですw
ちゃんと裏に敷物とか敷いてあって座れるようになっていました(座らないと顔を合わせられないので)。

次はいよいよ展示室に入ります。
6.jpg
展示室はかなり広く、窓もたくさんあって明るい空間です。
床がフローリングになっていました。
そして11匹の猫の等身大(?)パネルの群れと、馬場先生の原画を写したシルクスクリーンのタペストリーが飾られています。
原画じゃないので結構がっかりしちゃったのですが、多分原画はちゃんとした美術館へ収められているか、あるいは出版社のこぐま社が管理するかしているのでしょうし、仕方ないといえば仕方ないですかね。

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ねこのほかにも、あほうどりやぶたなど、絵本に登場するキャラクターがいっぱいいます。
「11ぴきのねことあほうどり」でねこたちがコロッケを揚げるシーンがあるんですが、それがやたら美味そうだったなあ。

8.jpg
部屋の中心にはじゅうたんが敷かれ、座布団と座卓が置かれてねまれる(ゆっくりできる)ようになっていました。
奥の棚には馬場先生の絵本が沢山。
きっと子どもたちやお母さんたちがここで絵本を読んだりして遊べるようにもなっているのでしょう。
良いですね~!やはりガキンチョに読んでもらってこその絵本ですよね。
ところで同行者の老母といろいろな話をしつつ眺めていると、係の人がわざわざ来られて、今日は寒いですからとストーブを焚いてくださいました。
他にお客さんもいないのに、気を使っていただいて何だか申し訳ないような気分になってしまいました。

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おお、あこがれのとらねこたいしょう!
確かアニメ映画では野口五郎が声を当てていたんだよな。…なんでだ??

童心に帰ることが出来たというか、昔を思い出してなんとなく楽しいような切ないような懐かしいような、そんな気持ちになった満ち足りた時間でした。
もうちょっと続きますので、残りは明日に。

2013-04-23 23:56 | カテゴリ:懐かしい話題
ガールズ&パンツァーというアニメが人気らしい。

ガールズ&パンツァーで略してガルパンらしいが、僕は初めて聞いた時、ガールのパンツの略かと思いましたよ(思うなよ)。
…よくわからないですが、女の子が戦車に乗ってやんやかやんじゃ!ってな感じのアニメらしいですね。
僕はまだ見てないんですが、大変お世話になっているネッ友S氏がハマっておられるので、なんとなく知りました。
最近はバーカーの本ばかり読んで頭の中が血みどろなんです。
アニメや漫画の入り込む余地がない! 
ところで盛岡にガロパンっていうパン屋があるんですよ。
ガロパン…ガルパン…に、似てる(似てねーよ)!!

戦車といえば少年の頃それなりに好きでした。
とても詳しかったというわけではなかったですが。
小林源文の漫画で「黒騎士物語」とか「パンツァー・フォー!」とか好きで、中学校の頃あたりにHJから単行本が出て、それをよく読んだものです。
小林先生は、絵が大変上手なのはもちろんなんですけども、
「突撃!突撃!」
「魔女のバアサンの呪いか」
DOM! BAM!
など独特の台詞回しとアメコミ風の擬音が良いですよね。

その乏しい戦車の知識で申しますと、お戦車は断然おドイツWW2のケーニッヒティーゲルが好きザマス。
ポルシェ砲塔のやつ。
父親がタミヤの初期くらいに出ていたふるーいプラモデルを作りかけで持ってましてね。
それを与えられて作ったのが、思えばプラモデル初体験でしたなあ。
小学校2年生くらいの時じゃなかったかしら。
だいたいガンプラブームと重なりますので、その頃はプラモデルばかり作ってたような気がしますな。

青年になった頃にタミヤから出た、ケーニッヒティーゲル(ティーゲル1だったっけかな?)のラジコン欲しかったなあ…。
今も売ってるのかな、あの1/24スケールかなんかのどでかいやつ。もしかすると、1/15くらいのスケールだったかもしれないな。
箱がまぁとにかくでかくて、見るからに重そうだった。
確か5万円くらいしたんじゃなかったかしら? おぼろげな記憶なんだけれども。
あれ、未だに欲しいですよ。
お金はないし、買ったところで置き場所もないけど。

そうそう、あと恐竜戦車が好きでしたね。
ウルトラセブンと格闘するやつ。
いや、これは違うか。

あとボクが子供の頃ガチャガチャ(ガシャポンっていう言い方するのかな、今は)で「バイキン軍団」っていうキン消しみたいな(?)消しゴム人形が、クソガキ連中の間で地味~に流行りましてね。
名前のとおりバイキンをモチーフにした…いや、バイキンって言うよりもなんかアメリカのB級映画に出てくるえらくみっともない顔したエイリアンとかモンスターみたいな、とにかくみったくない消しゴム人形なんですよね、それ。
近所の駄菓子屋の前に置いてあったガチャガチャに入っていたんですが(確か1回30円じゃなかったかしら)それを僕もシコシコと集めてたもんでした。
で、その中になんか戦車に乗れるようなバイキン人形があったのですね。
ケツに長い吸盤が着いてて、戦車の車体(砲塔がなくて、その砲塔があった部分に穴が開いてる)にその吸盤をくっつけて乗せるようになってた。
未だになんでバイキンに戦車なんだろうなぁって不思議に思うんだけれども、ガキ相手のチープなおもちゃなんてそんなもんですよね。
なんか戦車って聞くとね、そんなことを思い出しちゃうんですよね。

後は自衛隊の装甲車。
僕の叔父がリンゴ農家をしているんですが、その叔父が昔自衛隊にりんごを納めていたことがあったんですね。
それで子供の頃、そのりんごの納入にくっついて行き、基地の中で装甲車とか見せてもらったことがありましたねえ。
本当はいけないことなんでしょうけど、すごく気さくな自衛隊の人でしたし、あの頃って色々とおおらかな時代でしたからね。
「将来自衛隊に入らないか、君!」
とかにこやかに言われて、いえけっこうですと答えたような記憶があります。

…寝る。

2013-04-22 23:55 | カテゴリ:雑記その他
僕がPCで絵を描くようになってから5年くらいが経ちます。
それまではアナログ一筋でしたので、最初のうちは本当に戸惑うことばかりでした。
しかし今ではほぼPC専門で描くようになってしまい、たまにアナログで描いても、手元にアンドゥ・リドゥボタンを探すようになってしまいました(^^;)。

そんな訳でPCで絵を描くことが多い僕ですが、普段絵を描くのにペンタブレットを使用しています。
WACOMのBambooという安物タブレットですが(バンドル付きで7~8千円くらいで購入した記憶が)、安いとはいえ昨日は十分。僕程度の腕ならこれで何の問題もないです。随分重宝しています。

ところが最近、このタブレットの調子がおかしい。
というか、パソコンに入れているタブレットドライバの調子がおかしい。
反応したりしなかったりする。
酷い時には全く反応しなくて、仕方がないので入れてあるドライバをアンインストールして新しいドライバを再度インストールするんですけど、それでもうまくいかない。
困る…。

うーん、やはりWindowsXPが限界に近いのか、それともパソコンに入れている色々なソフトが邪魔をしているのか。
いずれにしろ描きたいときに描きたいものが描けないというのは、ストレスが溜まるものですね。
何とかしないといけないな。

2013-04-20 23:44 | カテゴリ:ブログ
いつまでも寒いのです。

もうそろそろ4月も下旬…つか黄金週間にもなろうというのに、なんで朝方の気温がマイナスにならなきゃならんのですか(^^;)。
日中の気温も、暖かくなったり寒くなったりで、時々雪すらちらつく始末です。
おかげで、今だにストーブをしまうことができません。
特に朝晩が冷え込むので、絶賛稼働中であります。石油代がかさむかさむ…。

貼るらしい話題と申せば、石割桜は開花したという話を聞いてますが、花が開いたっていうだけでまだ「咲いた」といえない状態じゃないかなあ。
だいたいこの寒さで蕾もまた閉じてしまうよ。

おかげで体調もすこぶる悪く、頭を抱えています。
というか、気候に影響されすぎだろ、おれ(^^;)。
やはり持病持ちは辛い。

どうもこの調子で冷え込む天候不順が続くのか・・・と思えば、どうやら今年の夏も異常な猛暑になるかもしれないという予想も出ている。
何だかなあ…。
いい加減に普通の春らしい気候になってほしいものです。

2013-04-18 23:00 | カテゴリ:雑記その他
BSフジで夜7時からほぼ毎日放送している「鬼平犯科帳75」がとても良いのです。

鬼平を演じているのは丹波哲郎なんですが、この人の長くて彫りが深い顔と(こういう顔の人、外人に多いような気もしますな)、腹に響くような声、そして見事な殺陣が非常に良いのです。

タンバさん自体は、僕が子供の…本当に子供の頃からテレビなどで拝見して知ってはいたんだけれども、そのもの凄い殺陣は、高校生のビデオ・バブル華やかなりし時に見た「三匹の侍」で初めて知ったのでした。

それまでもGメン75とか(これかなりの長寿番組だったですよね)、人気テレビドラマ番組に出ていたのは知っていたし、また「元気が出るテレビ」とかにゲストで出て、「タンバだよ~ん♪」とか言ってる変なおじさん…みたいなイメージが個人的にはあったんだけれども、もうこの映画でイメージが一変した。
一言で言うのならば、すごくかっこよかったのですな。
なんて言うんだろうか、この人は「大霊界」とか言っていたから、まず一般的には変なおじさんっていうイメージが付きまとってはなれなかった人だとは思うんだけど、この「三匹の侍」を始めとするタンバ出演の過去作を見てみると、そういうイメージを払拭するほどの、非常に強烈なインパクトが有るんですよね。

「三匹の侍(監督・五社英雄)」は、僕が見たビデオは映画版だったのだけれども、元々はテレビ番組だったのだとか聴きます。
そこに出てきたタンバさんはかっこいい、正義感あふれる中年浪人・柴左近の役だったんですが、一途な正義漢でありながらもどこか虚無的でニヒルな雰囲気を漂わせており(そういう役柄は仲間の平幹二朗の担当だったはずなんだけど)、えらくかっこよかった。
それが災いしたらしく、後にはもっとわかりやすい外見と演技の加藤剛にキャストが替えられてしまったらしいのですが、それでもすごく印象に残っています。

このビデオで、「なるほど大霊界だけの人じゃないのかぁ」とか分かりまして、丹波哲郎が出演しているというだけで色々なビデオを借りて視聴しました。
そのどれもが面白い映画だったのですが(面白いとか言っても、心の底から感動したとか言うんではなくて、ただ単純に面白かったと思えるもので、まあこう言ったら何なんですけどそれほど心の底には残らないような「娯楽作品」が多かったのですけどもね)、主役にせよ脇役にせよ、丹波さんには独特の存在感…それも非常に濃ゆいアクみたいなものがあって、それが存在感を増していたような気がしますね。
以前何かの本を読んだ時に、丹波さんを評して「新東宝のアクの強さを未だに保持し続けている稀有なキャラクター」とあるのを見た時、なるほど言い得て妙だと思ったものでした。

そんな丹波さんの殺陣の凄さをつくづく感じたのは、つい3,4年前になりますが、「大喧嘩(おおでいり)」という大川橋蔵の映画を見た時でした。
この映画は、当時の時代劇アイドル俳優である大川橋蔵の主演なので、軟弱時代劇(こういう言い方はいけませんね。すみません。でも僕は、軟弱にしろ硬派にしろ、時代劇は全般を愛しています)かとおもいきや、かなり硬派な、そして濃い内容でした。
この映画で丹波さんは、ヤクザそのものを憎みながらも、ヤクザの用心棒として生きていかざるをえない悲しい、そして静かにキチガイじみた性格の用心棒の浪人を演じています。
この用心棒、悪ぶっているんですが根はいい人であることを拭いきれずにいるので、主人公の元恋人を助けたりとか何だか中途半端な役廻りじゃのうと思っていたら、ラストで大豹変し、理非善悪、老若男女正邪構わず目につくものは片っ端から斬りまくる大魔神へと変貌を遂げます。
この際の演技が殺陣の見事さもあって鬼気迫っているというか、とにかくすごかったのですね。

それを知っている者にとっては、丹波哲郎=長谷川平蔵はハマリというか…つか、長谷川平蔵よりも、かつて悪名を轟かせて「鬼勘解由」と言われた中山勘解由のほうがイメージに合っているかもしれませんが…とにかく冷厳とした組織の長、あるいは戦士のような、そういうイメージがあり、洒脱で人懐っこいイメージが有る中村吉右衛門の鬼平よりも史実に近いというか、そういうイメージがあって大変好感が持てるのです。

まあこのお話にはちゃんとした(と言うかしすぎている)原作がついていますので、その主人公である鬼平にも人それぞれによってイメージが固定しているとは思うんですけど、丹波さんの鬼平は「史実に近い」と言ったらいいのでしょうか、そういうイメージがあって、個人的にすごく「キャラにハマっている」イメージなのです。

みなさんももし時代劇がお好きでしたら一度ご覧になられると、長谷川平蔵とか丹波哲郎のイメージが多少変わってきていいのではないかと思います。


2013-04-17 21:35 | カテゴリ:震災の記憶
最近結構大きい地震が続いている。
先ほどもかなり大きな地震があった。
この調子だと、来るぞくるぞと言われ続けてきた南海トラフ地震が、近い将来きそうな気がする。
もしかしたら「近いうち」には来ないかもしれないけど、今日来なかったからといって明日も来ないとは限らない…と言うか、そんなことは絶対にありえませんから。

とにかく備えあれば憂いなし。
被災者の端くれとして言う。

常に地震に備えよ。

少なくとも3日分ほどの食料や水、照明器具(ろうそく程度でも屋内なら十分役に立つ)、情報収集機器(スマホや携帯などは役に立たなくなるので、ラジオを持っておくべき)、防寒具、その他生活必需品を用意した持ち出し袋を一家に1つないし2つは作っておくのがよろしい。
そしてそれをいざというときにとっさに持ち出せるところに置いておこう。玄関の下駄箱の中とか、そういうところならどこでもいいので、あ、忘れたといって取りに戻って死んでしまってもつまらないから、手の届く範囲においておきましょう。

出社後に被災して帰宅困難者になると予想される方は、かなりの距離を歩いて帰宅しなければならなくなる。
それを考慮して、会社にスニーカー、懐中電灯、エネルギー補給用のチョコレートかブドウ糖(薬局やドラッグストアで売っている)、後は暴漢や狂犬などから身を守れるもの…折りたたみ式の警棒とか、ステッキ、杖(つえ、ではなく、じょう、と読む。120~140センチほどの棒。スキーのストックのように使えるから徒歩の際の助けにもなろう。スポーツ店や武道具店で売られている)などの、振り回しやすい武器を、ロッカーに用意しておくべきだ。

天災はいつやってくるかわからない!
そして明日がその時かもしれない!!
杞憂に終わるならそれでもいいのだ。
とにかく実際に起こるかもしれないことを考慮して、できることは今のうちにやっておくべきだ。

みなさんくれぐれもお気をつけて!!


2013-04-15 23:47 | カテゴリ:本の紹介
実吉達郎先生の著作「本当にいる世界の超危険生物案内」という本を読みました。




著者の実吉先生はテレビのニュースやワイドショウで、動物関係のネタがあると大抵コメンテーターとして呼ばれて来るおじいちゃん先生です…といえばみなさんもピンとくるのではないでしょうか。
そう、声がでかくて早口で、独特の芝居がかった言い回しをするイカした方です。

実吉先生は動物学者として、またシャーロック・ホームズなどのミステリ、果ては水滸伝や三国志などの中国文学にも造詣が深い方で、未確認動物「UMA」という言葉の生みの親でもあるそうです。
先生は実にいろいろな本を書かれていますが、今回僕が購入したのは先生お得意の動物モノの本で、いわゆるコンビニコミック・コンビニ本といわれるたぐいに分類されます。

この本は世界中にいる危険生物…人間に害を及ぼす動物(それが意図的にしろ、そうではないにしろ)を紹介している内容です。
実吉先生のホームページを拝見した際に、この本が新刊として紹介をされていましたので、どんなものなのかAmazonで調べてみたところ、なかなか面白そうな本だと思いましたので、さすがコンビニ本で値段もそれほど高くありませんでしたから、購入してみました。

分類がコンビニ本ということで、多分質が悪い本なんだろうなと勝手な予測をしていたのですが、届いてみてびっくり、予想外に「本」としてしっかりした作りになっていました。
まずソフトカバーがついています。おまけに中身はオールカラーで、紙質もそれなりに良い。
中身は前述のように世界中に分布している「危険生物」を紹介してあり、ライオンなど猛獣と呼ばれるものからサメなどの肉食魚、毒蛇などの爬虫類、毛虫など昆虫、しまいには動物・冒険小説に登場する架空の動物にまで言及してあるw
まあ架空の動物を紹介するのはいかがなものかとは思いますが、そこは何事にもケレン味の効いた実吉先生のことですから目をつぶりましょう。

そしてその記事が大変面白いのです。
実吉先生独特の実見と知識に裏打ちされた紹介や考察はユーモアとエスプリが効いており、おまけに少々芝居がかった文体もあって読み進めるのが楽しい。
まあ、この文章の書き方が気に入らないという方もおられましょうが、僕はとても好きですね。
ただしページ数が限られている上に写真がちょっとでかすぎるページレイアウトになっているので、文章の量が少ないので全て紹介しきれていない動物もあって、やや消化不良気味かなあとも思います。
挿絵や写真は少しでいいので、やはりファンとしましては実吉先生の洒脱な文章を楽しみたいところですね。
後は先生独特の言い回しですね。
人喰いナマズ「カンディル」の名前を、現地の発音通りに「カンジロー」とか書いてらっしゃるw
カンディル、のほうが日本では通りがいいと思いますので、正直ちょっと戸惑いました。

そういう欠点はあるにはあるのですが、それらを差し引いても、アマゾン上流域で見つかった殺人ヒル「T-レックス」の話題とか、アフリカで百人以上の人間を食い殺した殺人豹は、塩分濃度が高い人間の血の味を覚えたからだろうとか(僕はこれまで猛獣が人を襲うのはただ単に捕まえやすいからじゃないかと思っていたんですが)、今まであまり知らなかった猛獣どものいろいろ興味深い部分を知ることが出来、知的好奇心を十分に刺激してくれました。
こういう雑学的な動物知識が、何らかの形で創作に活かすことができるかもしれませんし、物語のネタが潜んでいるかもしれませんよね。
動物好きの方は、一度この本を手にとって見られるのもよろしいかと思います。

2013-04-14 23:08 | カテゴリ:本の紹介
バーカーの「血の本Ⅳ ゴースト・モーテル」読了。

*非人間の条件
浮浪者の老人が持つ不思議な紐の結び目に纏わる話で、老人を襲撃した4人の不良少年たちが破滅していく過程を描いているのだが、暴行に加担していなかったとはいえ、その様子を見物していた主人公の少年が生き残り、あまつさえ最後は富を手に入れるというあたりはちょっと納得行かない。
暴行された老人も実は邪悪な人物だったというのも理由の一つになっているとは思うが、それにしても仲間を止めない(たとえ仲間に暴力を振るわれるのを恐れたとはいえ)で、ただ老人が痛めつけられるのを見ているというのもそれだけで立派な加担者になっていると思うのだが。
ここはバーカーらしく、彼にもきっちりと血みどろの落とし前をつけさせて欲しかった。
人間の口から相手の呼吸を吸い取って殺す(すなわち肺が潰れる)「トンネルのような口をして」襲い掛かってくる怪物が登場するが、これが日本の「黒坊主」という妖怪に似ている。「屍衣の告白」の一反木綿もそうだが、もしかしたらバーカーは日本の妖怪図鑑を見たことがあるんじゃないかと思ってしまった。

*手
今まで読んだ中では最も「怖さ」を感じた作品。
その恐怖は暗闇とか、得体のいれないものに対してのものではなくて、普段はそれが当たり前のように自由に動かせいている手という自分の体の一部がある日突然反乱を起こしたら…という、ナンセンスではあるものの容易に想像できもする具体的な恐ろしさみたいなもの。
ある日突然、両手が自分に反乱を起こし、眠っている間に独りでに動いて妻を扼殺し、その後右手が肉切り包丁を取り、左手を腕から切り落とす!そして主人公は混乱しつつ、それをただなすすべもなく見ているしかない。この恐ろしさ!
恐怖と同時に感じたのは「痛み」だった。手というのは「触覚」という感覚器でもあるから、多分みなさんもカッターナイフなどで指や手を切った経験がおありかと思うけれども、怪我をすると非常に痛いですよね。そのセンシティブな部分が肉斬り包丁で一撃、二撃、三撃されて切り離される。日本刀のような鋭利な刃物でスパっと切るならともかくも、よく切れるといっても所詮は包丁。当然切り口がぐずぐずになり、骨は砕け散り、血がドバドバ出る。それを想像しただけでもう痛くてたまらない。
YMCAで泊り客たちの手が一斉に動き大混乱になる場面は(ごめんよ、そんな気はないんだが、と口で謝っているんだけど手が勝手に動いて人殺しをする)、凄惨だがどこかユーモラスで、ブラックな笑いを禁じえなかった。
オチもブラックジョークのような感じ。
どこかの島では年に一度、山に住む大量の蟹が産卵のために島中を移動して海を目指すという光景があるそうだが、それよろしく、切り離された手の大群がぞろぞろ暗闇に包まれた道路を移動してくるシーンは、想像しただけでも鳥肌が立つ。
これ、映像化したら相当ショッキングな作品になると思うなぁ。
…と思ったら、1時間ほどの短編だが映像化されいるようだ。
元から短編だから、無理に長編化しようとするとぼろが出るわけで、これまでのバーカー原作の映画ってこの辺りで失敗してきた例が多いのではないかと。でも1時間位の短編ならそれほど手を入れなくても面白いものに仕上がる可能性は高い。
結構この映画も評判がいいようだし、ぜひ見てみたいな。

*ゴースト・モーテル
「血の本」に所収、しかも表題作のくせに、これはホラーではない。
ホラーじゃないならなんなんですかといえば、巡回牧師の夫婦、元夫婦の幽霊、巡回牧師の使用人とモーテルの娘という三組のカップルそれぞれの人間模様と、抑圧からの開放を描いており、ヒューマン・ドラマに近い感覚。幽霊の夫婦が怨霊とか悪霊とか言われるような存在じゃなく、生前のことを水に流して仲直りをするために現世に帰ってきたというあたりもそれを感じさせるし、終わり方もすごく綺麗にまとまっている。
幽霊は肉体をなくしてしまってはいるが、それ以外には生きている時と殆ど変わらない。
特に妻の手によって殺された夫は生前と同じく好色で愚かなままで、死んだことによって色々と考えるところのあった妻の幽霊に比べると何も変わっておらず、セックスのことしか頭にない超ボンクラ幽霊(そういうところが嫌なので、妻は夫を射殺したのだが)。
このやたら人間臭い幽霊の存在が、海外の小説にしては結構珍しくて(いや、知らないだけで他にもあるんだろうとは思うんだけど)非常に面白い。特に牧師の妻と次第に友情めいた感情を育んでいく幽霊妻が素敵。
狂信者じみた巡回牧師と、彼に強い不満を感じながらも暴力を振るわれ隷従せざるを得ないその妻(おかげで精神安定剤が手放せない)。
牧師に内心うんざりしつつも、自分の生活のために仕事をやめられない使用人と、彼の優しさに心惹かれ一夜を共にするモーテルの娘。
そして30年ぶりに事件現場へ戻ってきた元夫婦の幽霊。
三組それぞれの思惑・人間模様(幽霊模様?)が入り乱れ、30年前と現在が渾然一体と化し、牧師を妻が射殺するという劇的なラストにつながっていくのだが、牧師の狂信的な思想や行動、その夫に虐げられ煮詰まっているが、自分に幽霊を見ることができる霊能力があることを自覚してからは自信をつけ、夫から自立していくという妻の過程を丁寧に描いているので、このオチにはカタルシスや一種の清々しさみたいなものがある。
これもテレビドラマかなんかにしたらちょっと面白そうな作品だ。
ところで表紙に描かれてる西洋版あしゅら男爵みたいなのは一体誰を描いたものなんだろう。
この作品に出てくる幽霊の夫婦を描いているものだとしたら、彼らは全然こんな感じじゃないんだが(基本的に生きてる人間と行動も考え方も同じなので)。

*悪魔よ、来たれ!
非常に短い作品。
神様に会いたい一心で自分は悪魔になってしまったというお金持ちの話なんだけど、気づかないだけで自分が悪魔になってしまっていたという皮肉を書きたかったのか、それとも「青い鳥」みたいに気づかないだけで欲しいものはすぐとなりにあったということを言いたかったのか。
考えるところは色いろあるんだが、それにしても短いので情報量は少なく読み解く余裕を感じなかった。
自分の読解力の貧相さを自覚せざるを得ない。

*欲望の時代
いやあ、いろいろな意味において凄まじい内容。
一言で言えば、妙な薬の実験台になってしまったがためにイロキチになってしまった男の話なのだが、それがただの色情狂ではなくまさしく「イロキチ」、それもスーパーが付くほどの凄まじさで、主人公のキチガイっぷりが半端ではない。
一度欲情してしまうと、相手が女だろうが男だろうが、塀の穴(!)であろうが、チ◯コを突っ込まずにはいられない、ところかまわずセンズリは当たり前、終いには興奮が異常に高ぶってセックスの相手の心臓を素手でえぐり出す。しかもそれをニタニタ笑いながらやるので(ナイフで刺されても笑っている)、想像するにつけ凄まじい。
欲望をコントロールすることが出来て初めて「人間」といえるのだということの暗喩だと思うが、そんな小難しいテーマなどは抜きにしても血と暴力とセックスに彩られたホラーを得意とするバーカーの独壇場的作品といえるのではないか。
また、そうした凄惨な描写に目が行きがちになるけれども、長いこと現場にいながら事件の傍観者的な存在になるだけで一度も事件そのものを抑止することが出来ずにいる老警部の悲哀にも注目するべきだと思う。
しかしこの作品を読んで、イギリスには「生のうなぎにクリームソースをかけて食べる」という回春法があるのを知った。本当に効くのかどうかは知らないけど、なんだか面白いですねw



2013-04-11 23:22 | カテゴリ:ファンタジー
まず最初にお断りしておきますが、例によって長いですw
あまり面白いお話でもありませんので、読み飛ばしていただいて結構です。


某所のブラウザゲームで「ロードス島戦記」が登場とか、本日知りました。
今ならβ版につきキャンペーンもやってるようです。
内容は、まあぶっちゃけ目新しものではなく、この手のゲームにありがちなカードゲーム形式のRPGのようですね、無料と言いつつも課金前提みたいな。
おそらく、課金するとすごく強いキャラのカードとかもらえるんでしょうね(無料だとそこそこ強いのしかもらえない、しかもそれすら低確率というのは世の常w)。

僕が中学校の頃だったでしょうか?この偉大な(?)作品が世に出たのは。
当時コンプティークというオタク雑誌のハシリみたいなパソコン雑誌がありました。
多分僕と世代が近い方々の中では、ははあ、あの本だナ…とピンとくる方も多いであろうと思われますが、とにかくその雑誌で「ファンタジーTRPG」という今も燦然と光り輝く魅力を放つ(あくまでも僕の中では、という前提付きなんですが)「大人版ごっこ遊び」の魅力を知りました。
それを教えてくれたのは同誌連載のD&Dリプレイ「ロードス島戦記」だったのですよね。

それが爆発的に人気が出てきて、ラノベというものになり(尤も、ライトノベルなるジャンル分けは当時まだなかったような気がしますけれど)、TRPGのオリジナル・ルールになり、テレビゲームになり、アニメになり…とどんどんメディア・ミックス化されていき、それから約30年余りが過ぎ去った今では、日本のファンタジー界が誇る金字塔へと成長を遂げました。

ここだけの話、今読むとあんまり面白くないんですけどね(^^;)。
あの頃の水野先生の文は、大変失礼ながらあまり上手じゃないし…いや、今もかな?w
それがどうしてここまで受けたのかといえば、少年向けのカルチャー誌に連載されていたということもありますが、その頃の日本は今ほど「中世ヨーロッパ系ファンタジー」が一般に認知されていなかったという背景が原因しているでしょう。
もちろん昔から古典中の古典である「指輪物語」「ナルニア国」「コナン」などの海外作品小説ファンの間に知られている所ではありましたが、そういった海外作品は設定や物語が非常に深くて、何度も再読するうちににじみ出てくる味がある反面、何分にも文体が硬くて(これには翻訳者の方の感性も影響している)とっつきにくい上、文章を読んでもビジュアル的なイメージがイマイチ想像しづらいという欠点があって、読み始めるのに二の足を踏む人も多かった。
ですがロードスは、海外のファンタジーを研究している人達の集団「グループSNE」が作り上げたものであるから、海外のファンタジーが持つ面白さを日本人が理解しやすいように日本風アレンジを加えて作っているから、物語も文章もわかり易かったし、加えて何しろカルチャー系雑誌の連載作品だった経緯もあるから小説に挿絵がふんだんに付けられていたので、ファンタジーに憧れを抱いていた当時の僕らのような若い世代に受け入れられたのだと思います。
だから未だに「エルフ」に魅せられる人が多いわけですな(ディードリットというキャラクターはそれほど完成されていたのではないかと思うんです。ビジュアル的にだけどね)。

閑話休題、ロードスが一大作品になってゆくそんな過程を、自らが無駄に歳を取る過程で逐一見続けてきたものとしては、ロードスが手軽にパソコン上で遊べるブラウザゲームで登場とか、何やら感慨無量な心持ちを覚えずにはいられない…ような気もしないでもありませんw

そんな、ロードスの古いファンである僕ですから、このブラウザゲームがどんなものだかちょっと気になったわけです。
それでどんなものなのかねえ、面白そうだったらちょっと遊んでみようかしら…と覗いてみたのですが、トップ絵ページのイラストを目にした途端、何やらがっかりしちゃったのです。
ゲームの内容はともかくも、絵が「コレじゃない」感じがしてならないのです。
申し述べておきますが、その絵が下手だとか言うんではないんです。
線も、色使いも綺麗です。動きにケレン味がないかしら、とは若干思わないでもないですが、それでもさすがに上手です。いや、もっと上手い人って世の中にいるけども…松竹梅で言ったら間違い無く竹の上でしょうね。
でもね、なんか見てるのが辛いんです。
なぜなのかなあ、と自分でも考えてみたのですが、思うにデザインが昔から変化してない点に最も大きな原因があるような気がします。

当時イラストを担当していた出渕裕さんと結城信輝さん、あの方たちがデザインして描いていたものから、あらかた30年になるわけですが、このゲームに描かれている絵にはその時点から全く進化してる風がみられないような気がするんです。
それでは、あのデザインがそれほど完成されたものなのか、と考えると…うーん、正直言って別にそうでもないと思うんですよねえ。
なんたって根本的なデザインが出渕さんだから…。あの方が描くファンタジーの世界ってみんな似たり寄ったりだし…だからパーンが小道具なんかも含めてまんま「ダンバイン」のショウ・ザマになってるんだよなあ。
まあそれでもそれが当時は受け入れられたわけですけど、その古いデザインが今時の線の細い、淡白な色使いの、キレイ系な…言ってみれば「萌え系」準拠の(これには語弊があるかもしれませんが)絵描きさんの手によって描かれている。
これが違和感の原因のような気がする。

今、この時代に古典的作品であるロードスを引っ張りだしてゲームにするのなら、せめてビジュアルだけでも今時のものにしてみたらいいのではないでしょうか。
カルチャー雑誌の連載作品から一度「小説」(挿絵がやたら多かったとは言えども)という形になった作品なのですから、何も昔のデザインにしがみつく必要はないと思うんですよ。
小説に登場するキャラクターのイメージなんてものは人それぞれなのですから、例えばマッチョ系のシュワルツェネッガーみたいなパーンがいたっていいのだし、ケルト系の衣装に身を包んだ肉感的なディードリットがいたっていいのです。
だから一度今までの古い時代のデザインをリセットするなり大幅なアレンジを聴かせるということを前提にした上で、今のクリエイターの感性を「これでやれ」と縛るんじゃなく、徹底的に自由にやらせればいいじゃないですか。
その辺りを下手くそながら絵を描くものとしては、今回目にしたイラストが何とも痛々しいものにかんじちゃうんです。
キャラの顔とか、今時の絵柄なのに結城信輝が描いた絵と同じなわけですよ(^^;)。きっと描いている人も「似せなきゃ、似せなきゃ」って必死に思っていたんでしょうね。
こう言って分かってもらえるか不安なんですが、自由がないのですね、あの絵には。

何度も言いますけれど、古典的作品を形にするからといって、何も昔のデザインを踏襲する必要はないと思うんです。
昔のデザインを打破して、ファンがあっと驚く新たなロードスを表現したらいいではないですか。
もちろんそこには、主に僕らのような世代の古いファンからの批判や、そんなことをしたらロードスの魅力が失われるだろとか、そういう意見も噴出してくるとは思うのですが、しかしそうやらないと、今ロードスというファンタジーを新しいゲームの形として世の中に出していく意味が無いのではないでしょうか?
それは出来ない、なぜならロードスのネームバリューを利用するからには、あくまでも昔にちなんだデザインを堅守する必要があるのだ!…というのであれば(それはそれで間違ってないような気もするが…)、だったら今の絵柄のクリエイター…多分若い、ギャラの少ない人達を安易に起用するんのではなく、千金を積んでも出渕~結城ラインの古いアニメーターたちに、昔ながらの濃ゆい絵を描いてもらうべきではないでしょうか?

こういうゲームっていうのはまず絵ありきなんですよ。
お話とかは所詮ブラウザのゲームだしカードバトルのゲームなんだからそれほど重要じゃない。
その一番重要な目で見えるという部分に、こだわりやお金を注ぎ込まなくてどうするんですか?

このゲームの対象は、デザインなんかをほとんど変えてないところを見ると、昔のロードスファン(多分僕ら世代)を狙っているんだろうな…とは思うんですが、今の世の中「上手い絵」も、上質のファンタジーも共に氾濫しているような状況の中で、こういうアピールの仕方をユーザーに向けてした所で、これに魅了される人は少ないんじゃなかろうかと僕は思うのです。
ロードス島戦記という、曲がりなりにも一時代を築いた古典的ファンタジーを、世に溢れかえっているファンタジー作品・ゲームの一つとして埋もれさせてしまうことになりはしないでしょうか。
そうさせないためにも、また今の10~20代の若い人たちにロードスの魅力を魅せつけて、彼らの中にロードスの新しいファンを獲得するためにも、今時の若い感性を持って作り上げた新しい「ロードス島戦記」をアッピールしていくべきなんじゃないのかと思えてならないのですが…。

…などと、昔の古臭い絵柄から脱却できないへこたれ絵描きとしては思うのですが(^^;)。



2013-04-10 23:08 | カテゴリ:雑記その他
どうも少し間が開いてしまいました(^^;)。
暇さえあればバーカーの小説を読んでいるものですから、あまりPC覗かなくなってしまって。

北国もかなり暖かくなってきて入るのですが、ここ最近はまた気温がかなり冷え込みまして、体調がすぐれません。
昼間の気温はかなり暖かいのですが、朝方はまだストーブを付けないと寒くて凍える始末。
明日などは朝方の気温が氷点下に逆戻り、しかも夕方からは雪という予報です…まさか4月も10日を過ぎて雪の予報が出るとはさすがにびっくりです。
ここ数年は暖かい年が続いていましたからね…。
暑さ寒さも彼岸までとか言うけど、嘘なんですねえ、やっぱり。

こういう不安定な気候に加えて埃っぽく空気が乾燥していることも多いので、喉とか、持病の一つである後鼻漏とかが辛いのです。
なので今の季節はのど飴が手放せないのですが、今日大型ドラッグストアで購入してきた「龍角散のど飴」が結構い感じです。
効き目も普通のおやつみたいなのど飴と比べると心なしかいいような気がします。
お勧めです。

WindowsXPのサービスが残り1年で終了するようですね。
まあそれは仕方ないとは思うんですけど、今使用しているフォトショップ等のソフトが、Windows VistaとかWindows7には対応していない古いやつなんですよ。
今メインで使用しているデスクトップPCを新しいWindowsに乗り換えるのはやぶさかではないのですが、それにともなってPhotoshopとかもバージョンアップしないといけなのがあまりにも辛すぎる。
Photoshopってダウンロードのバージョンアップ版でもめちゃくちゃ高いんですよね…。
うーん、1年でどれだけお金貯められるかな(^^;)。
がんばろう…。

2013-04-07 00:21 | カテゴリ:本の紹介
「血の本Ⅲ セルロイドの息子」読了いたしました。
この巻が今まで読んだバーカーの血の本の中では一番面白かったです。
そんな訳で一口感想をば。

*セルロイドの息子
チンピラの癌細胞が自我を持ってしまうという、まさしく奇想天外な発想の作品。
大変陳腐かつナンセンスなプロットなのだが、それがきちんと物語として成立し、曲がりなりにも読める、そしてホラーとして楽しめるものになっているあたりがさすが。
一度バーカーの頭のなかを覗いてみたいものだと本気で思う。
映画に魅了された癌細胞がタイトルの「セルロイドの息子」とされる存在になるわけだが、その意味するところは「セルロイド=映画のフィルム、息子=虜になった人」ということ。このセンス、すげえよなぁ。バーカーの爪の垢を煎じて飲みたい。
バーカーは自分で映画も撮るが、ヘル・レイザーなどのホラー作品だけにとどまらず、「ロード・オブ・イリュージョン」「ゴッド・アンド・モンスター」のような文芸作品も撮って成功している。
それだけに映画に深い理解と薀蓄、そして愛着を持っているはずなので、この作品の中に彼のそうした映画への憧憬や思い入れを感じ取ることは容易だ。
癌細胞は映画の虜となっているだけに、ジョン・ウェイン、マリリン・モンローやグレタ・ガルボなど往年の大スターに化けて大活躍(?)。人間の脳みそに入り込んで内側から視力・・・すなわち目玉を貪り食う。
やがて主人公バーディを追い詰め、その前でおぞましい本性を表すが、自らの巨体を生かしたバーディの攻撃に敗れ去る。あれ?意外と弱いんですね。ちょっと拍子抜けか。
ラストも、陰鬱でやりきれないものが多いバーカーの他作品と違って、アクション映画のラストのように綺麗に、そしてかっこ良くまとまっており、さわやかな読後感を覚えた。

*髑髏王
バーカーに自分で映画を撮ることを決意させたという伝説的駄作「ロウヘッド・レックス」の原作。
プロットはホラー映画などでお馴染みの使い古されたもので、目新しさはなにもない。蘇った怪物・髑髏王のビジュアルはTRPGに登場するオーガー(人喰い鬼)とほぼ同じで、外見的インパクトも希薄。
しかしだったらつまらないかといえばそうではなく、バーカーの悪趣味、お下劣全開の凄まじくパワフルでブラックな作品になっており、読ませる。
髑髏王を使った子供殺し(髑髏王は子供が好物で頭から丸かじり)、教会冒涜(教会でセンズリをかく髑髏王)、スカトロジー(人間に滝のように小便をかける髑髏王、それを歓喜のあまり掬って飲む男)など、もうやりたい放題。
特に髑髏王やその手下が教会をめちゃくちゃにし、書物や壊した備品等を焚き火にくべる場面ではなにやらドロドロしたものを感じてしまった。別の作品でバーカーは教会の告解室の中で女とセックスするイロキチ司教とかを出しているし、もしかしたら教会が嫌いなのかもしれない。
やりたい放題、無敵の怪物に見える髑髏王だが、破壊の欲求に酔いしれるあまり、自分で放った火にまかれて大やけどを負うなど、バカ丸出し。
しかも図体はでかいくせに結構弱くて、警官隊の拳銃の一斉射撃で怪我を追って退却したり、ラストは反撃に転じた村人たちによってたかって惨殺される。おまけに「世界はおれのものだ!」とか高らかに宣言するくせに、生理中の女性やま◯こが怖い…間抜けもいいところだw
彼が封印された数百年前の世界であるなら髑髏王は恐怖の対象になり得たかもしれないが、文明が発達して人々の心も変化した現代では、髑髏王の存在にそれ程の恐怖はなく、あまりにも馬鹿すぎる彼の思考も合わせてただ奇異なだけで、本質は陳腐で滑稽なだけなのだ。
その点においては髑髏王は悲しみのモンスターといえるかもしれない。ラスト髑髏王が敗北を認め、「前は封印されたが今度はおれは死ぬのだ、数百年も苦しまずにすむのだ」と思う場面、その直後主人公の手にした石で脳天を砕かれるシーンになんとなくそれが見えた気がする。
尤も前述のような悪逆の限りを尽くした髑髏王なので、同情する気にはなれないが。

*好色稼業・屍衣の告白
水木しげるもびっくりの、西洋版一反木綿を主人公にした作品。
バーカーは一体どこからこの着想を得たんだろうか。「ゲゲゲの鬼太郎」を読んだことがあるんじゃないかと思わずにはいられない。
この作品でまず面白いなと思ったは、イギリス人が持つ「ポルノ」に対する考え方。
主人公の会計士はポルノ本(裏本)の密売業者に利用され、殺されることになるのだけれど、彼がそれまでいいやつだと思っていた連中が裏本の密売に関わっていたことを知るシーンが尋常ではない取り乱しよう。混乱し、憤慨し、激怒のあまり相手を殴る。
エロ本というものが普通に、それこそコンビニなどでも平気で売られている日本の環境なんかからすれば、過剰反応としか思えないんだが、これもお国柄ということか。多分イギリスも日本と同じでポルノ解禁国ではないのだろう。
だいたい血糊が多いホラー映画も検閲が入って上映禁止になってしまうお国柄だから、お上の頭の硬さというものは容易に想像できる。
そんな状況だから、悪党のマグワイアは裏本を売って一財産設けることが出来たわけだし、主人公のグラスもそのビジネスに利用されていたことを知って激高するわけだが、それにしても「たかがエロ本」である。
正体がバレた時、マグワイアは「たかがエロ本だろ」みたいなことを言うのだが、グラスの怒りは収まらず、マグワイアに殴りかかる。
これはグラスが敬虔なクリスチャンだったということにもよると思うが、イギリス人のポルノなど「反キリスト的な悪徳」じみたものに対しての嫌悪感を如実に表しているようで、興味深い。
そんな堅苦しい国でバーカーのような血と暴力とセックスに満ちたホラーを書く作家が誕生するのだから、世の中面白い。
殺人シーンは、一反木綿と化したグラスがマグワイアの腹の中により合わせた腕を差し込み、内臓を抜き取るシーン。本当にそんなことができるもんだか知らないが、イメージ的には問題なしだ。B級ホラーによくありがちな殺人法なのだがそれを地で行っているわけだ。
主人公グラスの家庭を破壊し、あまつさえ命まで奪った悪漢のマグワイアにもちゃんとした家庭があり、愛する娘がいるという部分や、その娘の目の前で、主人公により家庭が崩壊してしまうという部分が皮肉だ。

*生贄
バーカーがイギリス伝統の「海洋ホラー」に挑んだであろう作品。
うーん、これは正直いまいちピンとこなかった。
流れ着いた戦死者などの遺体を埋める、島自体が巨大な墓標という小島の設定は雰囲気も出ていて良かったが(アイルランドやスコットランドのあたりは本当に小島だらけだし)、肝心の死者の幽霊たちがたまらなく陳腐なのだ。なんて言うか死者の怨念と言うよりもゾンビみたいな感じで、即物的だ。じわじわと迫り来る冷たい恐怖というものはほとんど感じられない。
幽霊たちは石を投げて人間の頭を割ったり、ボートをひっくり返して海の底に引きずり込んだりと大暴れはするが、前述のように怖さといったものは殆ど感じられなかった。 これは主人公の女性の一人称で物語が進んでいくからかもしれないが。
怪奇やホラーで一人称は合わない気がする。なぜなら主人公の述懐になるから、どうせ助かるだろうという見込みが立ってしまうし、それに反して主人公が死んでしまうと、なんで死んだのに話してるんだよ、オメエも幽霊かこのやろう、って感じで陳腐になってしまうからだ。やはりホラーや怪奇作品には、乾いた視点の三人称が似合う。
そしてとにかく、主人公を含めた登場人物たちが身勝手・アホすぎて感情移入できないw 特に酔いに任せて意味もなく羊を殺すジョナサンにはそのなよなよした性格含めて辟易で、彼が死んだときは喝采を送りたくなった。バーカーもその辺り狙って書いているのかもしれないが。
巻き添えを食って殺された墓守の老人だけが気の毒。

*魂の抜け殻
怪奇小説の定番といってもいいであろう「ドッペルゲンガーもの」の一遍。
読み終わって激しい切なさに襲われた作品だ。
老いゆき衰えゆく美貌と自らの稼業に焦りを感じる男娼ギャビン、そんな彼になりきろうと努力し、またギャビンを奇妙に慕う人形、そして人形を蘇らせたことに強い自責の念を抱く考古学者レナルズ。三者三様に悩みを抱き、苦しむ姿はたまらない哀愁と切なさに満ちている。
普通のドッペルゲンガーものといえば、自分の知らないところで「もうひとりの自分」が好き放題をして、最終的に両者とも破滅するというパターンが多かったと思うのだが、これはいささか趣をことにしている。ドッペルゲンガーと本人が何度も会話し、悩みや時間を共有するというあたりも珍しいのではないか。
古代ローマの武将で旗持ちのフラディヌスが物語に無言のまま大きく関わっているところも秀逸。
ラストで、まさしく魂の抜け殻になってしまったギャビンと、ギャビンと立場を逆にした人形は一体どうなるのだろう。
ギャビンは自殺するようなことが示唆されているが、人形の方はギャビンになりきって男娼として生きていくのか、それとも彼は彼なりに人間の世界で他の生き方を模索していくのか。
しかし偽物は所詮偽物であり、彼はどうあがいても本物のギャビンになることはないのだ。 そしてギャビンは自分の顔を、姿を失ったまま自動車の流れの中で死んでいく。 
それを思うと何やら寂しいような切ない気分に襲われる。


2013-04-05 17:53 | カテゴリ:本の紹介
「血の本Ⅱ ジャクリーン・エスwith 腐肉の晩餐」読了しましたので、また一口感想を書きます。

*腐肉の晩餐
最初はマッド・サイエンティスト(と言うよりもマッド・ドクターか?)ものかなと思ったら、当のキチガイ自身もトラウマを持っていて、それを解消する手段を模索する中で症例を集めるため、他人をいたぶっていたという事情が面白い。
ただしキチガイ先生・クェイドが楽しみながら実験を行なっているのは明白で、
「恐怖にまさる愉しみはない。それが他人の身にふりかかったものである限り。」
作中に登場するこの言葉が全てを表現している気がする。
実験の内容は外因的なものではないのでドバッと血が出るなどの痛いイメージのシーンはないのだが、それだけに陰湿で、相手のトラウマをえぐるとにかく酷いやり方。部屋に閉じ込められた菜食主義者の女性が飢えのあまり腐った肉にかぶりついたり、難聴経験をトラウマにする青年が耳栓をはめられた上で真っ暗な竪穴に吊るされた檻の中に閉じ込められたりなど、かなり悪趣味。この辺がなんともバーカーらしいですね。
それだけに、実験者クェイドが被験者の逆襲によって殺される(しかも彼のトラウマが現実となる形で)オチには奇妙なカタルシスを感じさせる。
この作品は「ドレッド」というタイトルで映画化されているのだけれども(これも相当感じ悪い映画です)、個人的にはそれの方よりこちらの原作が好き。

*地獄の競技会
生者と悪魔がこの世の覇権をかけてマラソンをする…というとてつもなく陳腐なプロットを、大まじめに、そしてちゃんと読めるものにしてあるあたり、バーカーの才能を感じる。
よく考えれば、これって「うる星やつら」の第1話とほぼ同じプロットなんですな。向こうの相手はトラジマビキニの可愛い子ちゃん宇宙人で、競技の形式も鬼ごっこだけど。
ただそこはバーカーだから物語がラブコメになるんではなく、血まみれで思いっきり悪趣味な方向に仕上げている。
比較的地味な作品だと思うんだが、マラソンの中継ヘリが出ていたり、アナウンサーと解説員のやり取り、ロンドンの地理(コースの説明)についてのちょっとした説明が出てきたり、「らしさ」は十分に感じられる(この辺りはきちんと取材してしっかり研究していないと雰囲気が出ないと思う。こういう細かい部分って大事ですよね)。
主人公の黒人選手が悪魔に頭を丸かぶりにされるシーンとか、コキュートスに通じる冷気の噴出する穴などのイメージも良かった。

*ジャクリーン・エス
この作品は解説なんかを読むと、「スプラッター風味の純愛文学」とか書かれているんだけども、そうなのか?
まあ「愛」っていうものの捉え方にもよると思うけれども、僕個人に限った話かもしれないが、僕は「愛」と聞くと、最初に「無償の愛」を連想する。釈迦やキリストが説いているところの「愛」だ。
そして「純愛」なんて聞いちゃうと、今度はプラトニックなイメージのものをまず連想する。なんて言うんだろうなあ、セックスは肉体の触れ合いにほかならないわけなんだけども、純愛はセックスを伴わない、深い心のふれあいというか、魂の同調というか…清濁併せのむの心で、相手を深く許容し合い、思いやるような。
…却ってわけがわからなくなってきてるみたいで申し訳ないんだが(^^;)、とにかくそういうイメージを「純愛」と言う言葉からは連想するわけです。
でも向こうの「LOVE」はかなり生臭い。西洋にも心のふれあいを尊重するというものは確実にあるんだろうと思うけど(もともとプラトニックラブの語源はギリシャの哲学者・プラトンの思想からでしたよね)、向こうの人が考えるであろう「LOVE」には肉体のふれあいが必ず含まれている。だから「純愛」とか言ったってプラトニックなものではないんですな。多くの場合、愛にはセックスが伴われるんですよね。
まあそれがいいか悪いかの問題ではないし、間違ってもいないと思うし、おれはセックスが嫌いだとか言ってるんじゃないけれども。
考え方の違いであって、正解とか間違いとかはない問題。
だから、英国人のバーカーが描いたジャクリーンと彼女を愛する男ヴァッシーとの「純愛」はおもいっきりセックス前提になるわけで、それは別にしかたのないことではあるんだけども、まああくまでも個人的には、という話なんだか、二人の関係から「純愛」というものを感じ取ることは出来なかったです。
ジャクリーンが、「力の使い方を覚えるため」経済界の権力者と接触したりするあたりは結構リアルな感じ。もちろん権力とジャクリーンが持っている人体破壊の超能力は全く質が異なるものだからあまり参考にはならないわけだけれども、「非情になれるすべを身につけた」とかメンタルな部分で参考にしているのが面白い。
ジャクリーンの念動力によって人間が八つ裂きにされたり身体が変形したりする殺戮シーンはなかなか読み応えがある。

*父たちの皮膚
これは凄い。何が凄いって、「異種姦モノ」を大まじめに描いた作品だからだw
そっち系でエロ同人とかやっている人は絶対にこの作品を読むべき。そしてその異種姦が決して「レイプ」になっていない点にも注目だ。
「ジャクリーン・エス」でも思ったが、バーカーはゲイであるのに(いや、ゲイであるからなのかもしれないが)女性に対して理解があると思う。「女は生命の源」「男は悪」ということがはっきり書かれているし(同じ趣旨のことは他の作品でも描かれている)、もしかしたらバーカーは一種のフェミニストなのかもしれない。
作中に登場する奇怪な姿をした「悪魔」たちが、その醜悪な外見に反して非常に穏やかで心優しい種族として描かれ、それに対抗する田舎町の住人たちは正反対の性格に描かれているあたりが面白い。
この作品に登場する人間たちのほとんどは、傲慢で独善的で好戦的で、そして暴力的な野蛮人だ。それが「西部的なアメリカ人」の典型的な性格なのだろうとは思うが(無論実際にはそうでなく、あくまでも西部劇的なデフォルメということだろう)、いずれろくでもない連中であることは間違いがない。
人間たちの中には偶然から彼らと行動を共にせざるを得ない東部人もいるのだが、彼もまた結局は野蛮な西部人の中に溶け込んでしまう。そんな人間たちと、姿こそ醜いながらも心優しい悪魔たち。果たしてどちらが本当に人間らしい存在だといえるのだろうか。

*新・モルグ街の殺人
バーカーが尊敬しているというエドガー・アラン・ポーの同名小説の時代を現代に置き換えた作品で、いわばポーへのオマージュ。
ご丁寧にも探偵役や犯人まで同じ(探偵は子孫ということになっている)。
これまでに読んだバーカーの作品の中でも異例とも言えるほど静かな、そして穏やかな雰囲気を持つ作品だと思う。
僕はポーの作品を読んだことがないのだが、もしかしたらポーの作品がそういうイメージのもので、バーカーはそこも踏襲したのかもしれない。
両者の作品を比較することはできないが、ポーの作品を読んでいれば思わずニヤリとするようなシーンはいくつもあるのではないだろうか。
親しい友人同士の中にある微妙な距離とか秘められた憎悪みたいなものが、猿の存在を通してフィリップから噴出してくる部分がなんとなくリアル。やはり親友と言えども「親しき仲にも礼儀あり」なんだよな。それを忘れてはいけないと改めて感じた(^^;)。
そして人間になることも出来ず、また猿に戻ることも出来ない猿の存在、そして全てに絶望して川に身を投げる年老いた主人公の死に様があまりにも悲しく、しんみりした読後感を覚えた。


2013-04-04 23:01 | カテゴリ:ブログ
ごめんなさい、色々書かないといけないこともあるのですけれど、何故かすごく眠いので今日は早めに布団に入ります。
皆さんおやすみなさい。

2013-04-02 16:19 | カテゴリ:本の紹介
早朝4時に3回も連続して起こった地震によって目が覚めてしまい、それ以降あまり良く眠られませんでした。
間を置かずにドロ~っとした感じの揺れが3回も連続するなんて、かなり気持ちが悪いですね。
また大きな地震がこなければいいですが…。
そこで、眠れないなら起きてしまえと思い、昨日届いたバーカー小説群の「血の本Ⅰ ミッドナイト・ミートトレイン」を読むことにしました。

今回手に入れた小説の中で、かつてこの1冊だけは購入していたのですが、数年前の引越しに際して手放したのかなくしたのかしたらしく、自分の本棚に収まっていません。
よって読むのはかなり久しぶりになりますが、時間を置いて読んでもバーカーのイマジネーションと表現力の豊かさには感心するばかりです(面白い、面白くない」は別にして)。
そこで、レビューというほどではありませんが、一口感想を書きたいと思います。


*ミッドナイト・ミートトレイン
くたびれた会計士カウフマンと老屠殺者マホガニーのニューヨークという街に対する感情がほぼ正反対になっているのが、後に対決する二人を象徴している。
後継者を見つけて引退したいと思っていたマホガニーの後継者に、結果としてカウフマンが選ばれたというのも皮肉。
二人の電車内の戦いはあっさり決着がつくのでいささか拍子抜けだが、カウフマンがマホガニーの目を逃れて車両を移動するシーンはそれなりにサスペンスフル。
毛を剃られ、血抜きされた死体がぶら下がる電車内のイメージも不気味でいい。
ただしオチがラヴクラフト御大のクトゥルフ神話系になってしまうのは正直「?」がつく。
アメリカ政府がなぜ未だに父祖たちに唯々諾々と従っているのかその辺りの理由付けがないのもいささか不満が残る。
いくら彼らが「アメリカの創造者」としても、「畏怖に打たれた」「崇拝している」などという理由で国家が保護に動くとか言うのは理由にならないと思う。

*下級悪魔とジャック
掟に縛られて泣き言を言い、愚痴や悪態をこぼしつつ悪戦苦闘する下級悪魔の姿、そしてそんな下級悪魔に発破をかけ叱責する魔王の姿には、人間社会に通じる悲哀を感じる。
読者が最初に感情移入するのは主人公ジャックではなく間違いなくこの悪魔のほうだろう。
ジャックは一見凡庸な人物に見えるが、ラスト辺りでかなりの策略家であったことが明かされる。しかし彼は基本的に家庭を愛するマイホームパパで平和な人柄であり、ラストのやり取りも経て読者の感情は悪魔からジャックの方により強く移入されることになる。
その辺りがかなり上手に思った。
爆発する猫やオーブンから飛び出して暴れまわるクリスマスの七面鳥などブラックな笑いも織り入れた、上質のコメディに仕上がっていると思う。
この作品集の中では一番のおすすめ。

*豚の血のブルース
一種の幽霊譚に分類されるかと思うが、内容はかなり陰湿で不快な作品。
この作品集の中では最も正統的なホラー(に近い)とも言え、ホラー小説と言うよりは「怪奇小説」に分類されるもののような気もする。
尤もバーカーだから血まみれでグロテスクなシーンはてんこ盛り。
排他的な風潮を持つ非行少年更生施設の閉塞感溢れる雰囲気、少年たちの間に広がる奇妙な信仰、生贄にされる少年、人間を貪り食う豚など不快なシチュエーションの連続で、ラストも全く救いようがない。
読み終わったあとに、途轍もない心地の悪さを感じる作品。
この辺りも含めて、バーカーは話の作り方が上手いと感じた。
個人的には、普段普通に食卓に上がる「肉」であるはずの豚が、人間を食べる方に回っているあたりがショッキングかつ不愉快だった。
下手に人喰いモンスターを出されるより、こちらのほうがよほどホラーに感じた。

*セックスと死と星あかり
これも幽霊を扱った作品だが、舞台は劇場。
バーカーはもともと劇団で脚本を書いていたというから、劇場の裏方事情などを書くのはお手のものだろうし、本人も楽しんで書いているような印象を受けた。
この作品のテーマは明らかに「生と死の境は曖昧」ということだろう。
物語後半、舞台に上がった死美人コンスタンティアが、生者の俳優と手を重ねるシーンがそれを象徴していると思う。
セックスに狂う大根女優ダイアンと、舞台に上がるため墓場から蘇ったコンスタンティア。どちらの女がほんとうに「豊かな人生を生きている」といえるのか。
死人劇団が「死者に娯楽を与えるため」旅に出るというラストにも不思議な爽やかさを感じた。
ビジュアル・イメージ的には、大挙して劇場に押しかけ観劇する死者の群れと、彼らが役者へ送る拍手喝采が面白い。

*丘に、町が
バーカーの「幻視者」としての能力が最大限に発揮されている作品だと思う。
隣り合った2つの町の住民が集まり、それぞれの身体をロープでつなぎ合わせ、巨大な巨人を形作る。そしてその巨人同士が拳を振るって戦うなどと、誰が考えられるだろうか。
もうこのイメージを想像するだけでも度肝を抜かれるし、バーカーの想像力や発想力の豊かさに舌を巻かざるをえない。
しかしこの作品はその巨人を描く作品ではなく、その巨人を形作っているはずの何万人の「個人」たちの意識がひとつにまとまりすぎて、あらぬ方向へと向かう「全体主義(?)」の恐ろしさとその迷走の指摘にあると思う。
物語の冒頭で、ジャッドにダラダラと共産主義について説明を受けたミックがうんざりするシーンがあるが、そのあたり、そして巨人の片方が事故によって崩壊し、巨人を形作っていた人々が無残な死を遂げるあたりがそれを象徴している。
そして主人公であるミックも、最後にはその「全体主義」に飲み込まれてしまう(と言うか、自ら身を投じるのだが)。
個人の意識が大勢のひとつの意思のもとに圧殺されていくことの恐ろしさを巨人の迷走を通して表現している、実に稀有なほどファンタジックで、そしてある意味怖い作品と思う。



2013-04-01 17:46 | カテゴリ:ブログ


先日からここで名前のちょくちょく出てくるようになったイギリスの怪奇小説家クライブ・バーカー。
彼の代表作である短篇集「血の本」全6冊+映画ヘル・レイザーの原作本「魔導師(へルバウンド・ハートと改題)」の合計7冊を手に入れました。

集英社文庫で1986年頃から刊行された小説シリーズなのですが、さすがに30年も昔の本ですので今現在は絶版となっており、今ではよほど大きな書店でもお目にかかるのは難しい状況です。

僕はこの本の発売当時、1巻目の「ミッドナイト・ミートトレイン」を購入して読んだのですが、それ以降の作品は本屋で立ち読みするにとどめ(なにしろその頃はまだ中学生だったから、あまり面白い本だとは思えなかったので…)、購入してはいなかったのですよね。
それから何十年か経って、ホラーというか、怪奇小説の味わいが理解できるようになってきたのちに、「ミッドナイト・ミートトレイン」を改めて読み返し、バーカーが紡ぐ物語の独創性や、比較的簡素ながらも具体的で迫力のある表現などに素晴らしい魅力を感じてしまい、ぜひ残りも読みたいと思うようになったのです。

しかし近所の古本屋へ行っても見つからず、その頃はインターネットなんて手元になかったので探しようもなく、近所に古本市が開催されれば行ってみる程度でしたので、当然見つかるわけもありません。
やがてパソコン環境が整って自分でもネットをやるようになった後、早速ネットで探してみました。
すると物自体は結構簡単に見つかりました。
Amazonで普通に中古品が出まわっておりましたw
インターネットっていうのは本当に凄いものだと感動した覚えがありますが、ただし、これがまた1冊千円近くもするという割高品(^^;)で、なんとも切ない心持ちになりましたw
いくらなんでも、発売当初600円前後の本が、経年で安くなるどころか値段が上がり、しかもそれを6冊揃えるとなると6千円前後になってしまいますからね。
とても手が出ませんでした。

それから数年経った先日、ヘル・レイザーの事もあって改めてネット検索をかけたところ、全くの偶然にも北海道の古書店が1冊300円前後で出しているのを発見、即座に購入手続きに入りました。
それが先ほど届きまして、読みたいと感じてから足掛け十数年で、ようやくコンプリートすることが出来たわけです。

僕の親しい知人でやはり古本で様々なジャンルの本を集めておられる方がおられ(一度この方のお宅にお邪魔した時、あまりの本の多さに度肝を抜かれた記憶があります)、その方から度々言われるのは

「本との出会いも人間との出会いと同じで、縁ですよ」

ということです。
いやまさしく今回がそのとおりで、思いがけなくこの手に揃えることができた7冊の本、そしてそれを販売していたネット古書店にはなにか運命めいた感慨を持たずにはいられません。

その出会いを大事にして、少しずつ味わいながら大事に読んでいきたいと思います。