2016-10-28 13:59 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)3 
遠野家の次第

 藤原秀郷の九代目の子孫・足利七郎有綱の二男に、下野国の住人で阿曾沼民部丞広綱という人がいた。源頼朝に仕えて軍功があり、武州一帯の地頭職に任ぜられ武蔵国に住んでいた。
 頼朝の奥州征伐に従軍して戦功を挙げ、陸中国の閉伊郡十二郷を加増として与えられた。
 この広綱は二男の阿曾沼次郎朝綱に閉伊郡十二郷を譲渡し、朝綱の次男・阿曾沼又次郎広親が閉伊郡に下り、遠野の護摩堂城に住まいした。
 以来遠野氏を称して、五代目の子孫・阿曾沼下野太郎朝兼は南朝方の北畠顕家に従軍して戦った。その息子・下総守綱朝は足利将軍家へ降参し、その後、応永(1394~1427)の頃に閉伊で一揆が起こったが、これを自力で鎮圧できず、三戸の南部守行に降ってその旗下に入った。
 永享(1429~1441)の頃になって一揆を鎮圧し、七代目の子孫・遠野下野守広影は新たに横田城を居城としてそこへ移った。その息子・遠野刑部少輔広郷は、始め孫次郎と言い、天正三年(1575)三月に亡くなった。

 その息子は孫三郎広長といった。天正七年(1579)織田信長に使者を出して鷹を献じたほか、陸中国和賀郡の領主・和賀氏とは非常に親しい付き合いをしていた。天正十八年(1590)、小田原の陣で豊臣秀吉に参礼し本領を安堵されたが、秀吉は遠野家をそのまま南部家の従属勢力とした。
 南部家は遠野家と和賀家とが親しくしていることを不愉快に感じており、いずれ遠野氏を滅ぼす計画を立てていたため、遠野氏の一族や家臣に目をかけ厚遇した。

 慶長五年(1600)会津で西軍方の上杉氏が兵を挙げると、徳川家康の命令を受けた南部利直は、東軍方の最上義光を加勢するために軍勢を率いて会津へ出陣したが、この軍には孫三郎広長も加わっていた。
 しかしこの隙を突いて、秀吉の小田原の陣へ参礼せず改易された和賀一族が国元で一揆を起こしたため、利直は急遽帰国することになった。孫三郎広長は後に残るように命じられ、戦争が終わって軍が解散されてから帰国した。
 ところが、広長の留守中に一族の鱒沢左馬助広勝と上野右近広則、家臣では平清水駿河師任、駒木豊前広常らが反逆を企てて南部氏に内応を約束し、主君の孫三郎を国境で防戦して領内へ入れなかった。
 広長はひとまず妻の実家である気仙の世田米修理の所へ落ち行き、そこへ寄寓しながら度々兵を起こし逆臣と戦ったが勝つことができなかったため、伊達政宗に加勢を依頼した。
 これによって篠木丹波守、横田主計助、著水丹後、世田米修理、浜田喜六などが出陣し、慶長六年(1601)平田において大合戦となった。
 遠野軍は逆臣・鱒沢広勝を討ち取って気勢を上げたが、そこへ南部家の加勢が到着し敵軍へ加わった。これにより形成が変わり、遠野方は利を失って伊達方の浜田喜六、一族の阿曾沼又次郎秀幹、西風舘孫四郎、家臣の畠中藤七、金沢臼太郎等が討死した。その後は争うことを諦めて政宗の家来となり、その息子は阿曾沼権十郎広房という一族も(これ以下は文章が欠けている)

阿曾沼四郎広縄      (広郷の二男で、和賀一揆に加勢した)
阿曾沼主計広重
阿曾沼民部少輔秀範
阿曾沼民部少輔秀範 
阿曾沼常陸入道了哲    (赤羽城に居住して阿部氏を唱える)
阿曾沼又五郎        (民部の二男)
附馬牛中務入道玄浄    (附馬牛村の火渡城主。慶長五年{1600}鱒沢広勝らの反逆に際しては自城に籠城し抵抗したが、戦いに利あらず城に火をかけて自刃し、主家に殉じた)
附馬牛内蔵助       (利直に仕えて三百石を受け、山口新助と名を改めた。玄浄の子)
山口金右衛門       (内蔵助の子)
西風舘大学廣敏      (西風舘主で忠義の人。逆臣に説諭されたがこれを断る。兵を挙げて立ち向かうも戦に破れ、討死した)
大槌孫八郎広紹      (大槌城主で武勇の人。逆臣と戦うが、戦に敗れて気仙に逃れた。後、利直に仕えて五百石。故あって花巻城において暗殺され、所領は没収となった)
大槌久右衛門広重     (孫八郎の弟。鵜住居村に住んだ。利直に仕えて八十石)
大槌久八郎         (久右衛門の子。浪人)
菊池半太夫
菊池半左衛門武長     (利直に仕える)
細越与三兵衛敏広
細越与三郎敏継      (敏広の子。浪人)
細越長十郎備材      (敏広の二男。利直に仕える)
菊池治部助時成
畠中五郎八         (本姓は菊池という)
畠中藤七
平原備後吉武        (本姓は菊池という)
平原助左衛門吉成     (吉武の子。利直に仕えて三十五石)
菊池与十郎
内城四郎左衛門吉昭    (本姓は菊池という)
内城治兵衛吉輝      (四郎左衛門の子。利直に仕えて五十石)
内城治兵衛吉正      (吉輝の子。十五駄二人扶持)
宮杜主水祐武       (本姓は菊池という。文禄三年{1594}信利に仕えて五百石。のち家禄没収)
鬼柳十郎兵衛祐光     (宮杜主水の子。浪人。鬼柳村に住み、のち五十石)
宇夫方掃部
宇夫方八郎右衛門
宇夫方多兵衛
十二ケ村弾正
十二ケ村帯力益種
平倉長門守盛清
平倉平兵衛
平清水刑部入道禅門    (旧臣。息子の駿河師任が鱒沢広勝に一味して叛逆を企てたので、禅門は子を諭すも聞き入れられず、主家に殉じた)
平清水出雲        (禅門の子。父と同じく忠義の人。浪人)
新谷新右衛門       (出雲の子。浪人)
菊池帯刀         (新右衛門の子)
新谷庄作         (出雲の二男。利直に仕える)
新谷六兵衛        (出雲の三男。利直に仕える)
新谷六右衛門       (六兵衛の子)
熊谷安右衛門       (忠義の人)
小友刑部
小友喜左衛門       (利直に仕える)
松崎監物         (忠義の人)
大沢寺浄玄房
白岩左衛門
興光寺靭負        (忠義の人)
浅沼忠次郎        (利直に仕える)
浅沼藤次郎        (利直に仕える)
金沢臼太郎        (平田の合戦で討死した)
浅沼清左衛門       (利直に仕える)
栃内勾当慶都       (江刺氏の支族。天正十八年{1590}江刺氏没落のときに遠野へ来て身を潜めた。広郷はこれを憐み扶持を与えた)
栃内小左衛門廣重     (慶都の子。利直に仕えて百石)
栃内善兵衛        (和賀一揆に加わった)
栃内善右衛門
高屋左近則政       (かつて江刺氏に仕えた。天正十八{1590}年遠野へ来て、文禄三年{1596}に亡くなった)
高屋四郎左衛門恒延    (左近の子。利直に仕えて五十石)
高屋三弥恒宣       (恒延の子)
高屋才六則之       (左近の弟。利直に仕える)
高屋八右衛門恒方     (才六の弟)
高屋才四郎則房      (八右衛門の弟)
下川原玄蕃恒忠      (柏山氏の旧臣。天正十八年{1590}遠野へ来る。政直に仕える)
下川原利左衛門恒長    (玄蕃の子)
及川民蔵恒明       (玄蕃の子)
月舘右京         (九戸の残党)
新田平作         (九戸の残党)

<遠野の逆臣と徒党を成した人物>

鱒沢左馬助広勝      (広影の弟より三代目の子孫。一族。主家・広長に叛いた張本人である。主君を領地から追出した後、度々合戦するが、その度に南部利直の加勢を得て勝利する。慶長六年{1601}平田の合戦で討死した)
鱒沢忠右衛門広光     (左馬助広勝の息子。利直に仕えて二千石。左馬助から改名した。驕奢放蕩のふるまいがあり、利直がこれを糾明しようとすると恐れをなして出奔した。放たれた追手に追い詰められて自刃し、家名は断絶した)
鱒沢千代松         (忠右衛門の子。上野右近に殺された)
鱒沢修理亮広純      (左馬助長男。夭卒した)
鱒沢造酒允村広      (左馬助の弟。天正末{1592}に亡くなる)
上野右近広則       (遠野一族の丹波守広吉の息子である。広長の家老を務めた。 鱒沢広勝に一味して主家に叛逆する。主君を追い出し、利直に仕えて二千石。遠野城代)
上野九右衛門広高     (右近の養子で実弟。元和七年{1622}に亡くなった)
上野久兵衛広易      (九右衛門の子、寛永三年{1627}京都において亡くなる。 家禄は没収された)
上野角右衛門弘房     (久兵衛の子。御徒として召し出される)
平清水駿河守師任     (平清水刑部入道の子。鱒沢に一味して叛逆し、主君を追出して利直に仕え千石。慶長十九年{1614}江戸勤番を務めた。北十左衛門の一件において責任を問われ家禄は没収、切腹させられた)
駒木豊前広道       (一味。利直に仕えて五百石)
駒木隼人広三       (豊前の子。三百五十石)
駒木六兵衛広安      (豊前の弟)
本宿老之丞家久      (気仙郡の鈴木氏の分流。遠野氏に仕えて本宿村を与えられ、姓を本宿と改めた。慶長六年{1601}に利直へ仕えて八百石。閉伊郡惣司を務めた)
本宿因幡家重       (家久の男。百五十石)
本宿弥次右衛門家治    (因幡の息子。八十石)
本宿半之丞家盈      (因幡の二男)
平倉新兵衛盛任      (一味。気仙で討死した)
平倉刑部          (はじめは新助といった)
平倉新八
末崎式部清茂
末崎清右衛門
大沢与左衛門秀久
板択平蔵
板択金三郎
大原新左衛門

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2016-10-27 01:28 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)2
「岩手郡のこと」

 大昔は居住するものとてなかったこの土地だが、大同年中(860~810)坂上田村麻呂により奥州の蝦夷が征伐されて後、次第に人が住むようになった。
 しかし強きが弱きより強奪略取するという風潮が残って世情は穏やかならず、一条天皇の御代になって朝廷に従わない蝦夷の胡が朝廷に反旗を翻した。これを安東太郎国東が鎮撫し、その息子・太郎頼良は陸奥国司(陸奥権守)となり、領地として隣郡を拝領し、その子・安太夫頼時の代になって奥州半国、出羽二郡に勢力を及ぼした。

(訳者注:安東太郎国東はおそらく俘囚長の安倍忠良、その息子・太郎頼良は安倍頼良のことを指していると思われる。ここでは安太夫頼時が頼良の息子とされているが、正しくは頼良の改名)

 彼は永承年間(1046~1052)に朝廷へ反旗を翻して源頼義の追討を受け、天喜五年(1058)、流れ矢に当たって死亡した。その嫡男・厨川次郎太夫安倍貞任は岩手郡の厨川城に住んでおり、挙兵して大いに討伐軍と戦ったが、康平五年(1062)になって滅亡した。
 その後、朝廷は功績のあった出羽の住人・清原真人武則に六郡を賜った。寛治年中(1087~1094)、清原家が朝廷に反旗を翻したが、源義家がこれを征討し、このとき軍功のあった権太夫藤原清衛に六郡を賜った。その五代目の子孫である伊達次郎泰衛まで岩手を領していたが、文治五年(1189)源頼朝が奥州征伐に乗り出して、泰衛は滅亡した。このとき、頼朝は奥州各地を軍功のあった御家人に分配した。
 
 その中に伊豆の住人で工藤庄司景光の子・工藤小次郎行光というものがいたが、この人が岩手郡の地頭職に任ぜられ、名を中務丞に改めた。その息子・工藤中務太郎長光は建久年中(1190~1198)に岩手郡へ下向して厨川に住み、その子孫は代を重ねて、三代目は工藤中務丞徳光、四代は工藤小次郎繁光、五代は工藤小次郎光敏、六代は工藤主計允種光といった。
 また、初代の行光には弟がいて工藤三郎祐光といったが、彼もまた同じく岩手郡に住み、元弘(1331~1333)の頃から三戸の南部家に臣従して三戸郡坂牛村へ移住し、坂牛氏の祖となった。その分家は九戸郡に移り福田氏の祖なった。
 応仁年中(1467~1468)に工藤家から分流して南部家に仕え、九戸郡葛巻村に住んだものたちがおり、これが葛巻・田頭・穴沢・杉沢氏の祖である。

 元弘の乱(1331)が起こると諸豪族は南朝方の北畠顕家の軍勢へ加わったが、その後は南北の敵味方が日々変化して入り乱れ、互いに領地を収奪しあい、あるいは争いあって、滅びた家が数多あった。国人や郷士はみなそれぞれに一家をなして、郡主の命令に従わなくなった。
 このとき工藤家も衰退し、かろうじて厨川村のみを領するだけであった。そこで工藤氏は厨川と改姓して南部家に臣従した。厨川兵部少輔光林は行光から数えて十三代の子孫で、天文年中(1532~1555)石川高信が岩手郡へ出陣した際に服従し、諸豪族も残らず南部家に従った。光林は旧領の内八百石を安堵され、その息子・厨川豊前は幼名を小次郎といい、父の遺領百石を継ぎ、南部信直に仕えて度々戦功を重ね、慶長元年(1596)に百十一歳の高齢で亡くなった。
 その息子・厨川豊前如光は幼名を仁右衛門といった。南部利直に仕えて二百五十石となり、御使番を務め、元和二年(1616)に亡くなった。家督は二男が継ぎ、名を栗谷川仁右衛門友光といった。訳あって家禄没収となり浪人したが、南部重直の代に旧領のうち新田十五石を与えられた。
 厨川豊前如光は利直から別に召し出されて、煙山村に三百石の領地を与えられ煙山主殿光邦と名を改めた。その息子・煙山主殿光慈は二百石を知行された。二男は煙山七郎兵衛光弼といい、知行のうち五十石を分け与えられた。この人の子孫は今、八戸にいる。

<工藤一族と岩手の諸豪族>

厨川兵部光忠    (通称・一衛。兵部少輔光林の二男。利直に仕えて上関村に百石。後に領地替えとなり田頭村に三百石)
厨川作兵衛光伝   (光忠の子。領地没収)
栗谷川小次郎義茂  (光伝の子。七駄二人扶持。三戸に住む)
厨川兵衛光基    (光忠の二男。浪人)
栗谷川作兵衛満清  (光基の子。六駄二人扶持)
栗谷川五兵衛光房  (光矩の子。五十石) 
栗谷川五郎助光矩  (光忠の三男。浪人)
栗谷川右衛門光中  (光明の子。喧嘩騒ぎを起こし家禄没収)
栗谷川吉次光明    (光忠の四男。百石)
栗谷川兵右衛門光高 (光忠の五男。浪人)
上関右衛門光成    (一族。信直に仕える。百五十石)
上関源兵衛康光    (源右衛門の子。家禄没収)
上関右衛門正金    (源兵衛の子。家禄没収)
福士淡路守政秀    (甲斐源氏・板垣兼信の子孫。南部氏の甲州時代以来の家来で、岩手衆を従える。不来方城に住して信直に仕えた)
福士伊勢秀治     (淡路の子。百五十石。後に鵜飼村へ移住)
鵜飼宮内秀純     (福士秀治の子。君命により姓を鵜飼氏に改めた)
鵜飼治部右衛門秀路  (宮内の子)
福士右衛門
福士因幡
福士彦三郎
一方井刑部入道禅門  (安倍貞任の末裔で安東太郎盛季の子孫。出羽国秋田より岩手郡へ移住、代々一方井村に住した。石川高信に仕えた。娘は南部信直の母である)
一方井孫次郎安元   (禅門の子。信直に仕えて七百石)
一方井刑部少輔安信  (安元の子。丹後ともいう。利直に仕えた)
一方井孫次郎安行   (安信の子。大阪の陣へ従軍するが、元和三年{1618}に亡くなった)
一方井刑部安武     (安信の四男。九助安次が家督を相続した)
一方井九助安忠     (安武の子。百五十石となる)
一方井甚兵衛安定   (安元の二男。五十石。花巻に移住した)
米内丹後守政成    (一方井禅門の弟・米内左近宗政の息子。米内村に住んで信直に仕えた)
米内右近正吉     (丹後の子というが、実は一方井氏の二男。四百石を領し民部と称した)
米内右近正邦     (正吉の子。通称・孫二郎。二百石)
米内孫右衛門政忠  (正邦の子。実は松岡蔵人の四男)
米内出雲政連     (正吉の二男。通称・孫兵衛。利直に仕えて百石)
米内出雲政弘     (政連の子。通称・孫八)
米内孫左衛門正親   (政連の二男。七十七石)
米内丹後政恒     (政成の二男。孫十郎。利直に仕えて四百石)
米内孫七正堅     (政恒の子。家禄没収)
米内逸角
米内孫惣光政     (政連の三男。四駄二人扶持)
米内孫四郎政唯    (政連の四男。十三駄二人扶持)
米内孫之丞政春    (政連の五男。四駄二人扶持)
日戸内膳秀恒      (河村四郎秀清の末裔。宗家は志和郡の大萱生氏である。岩手郡日戸に住んだ。信直に仕えて千六百石。野辺地城代を勤め、寛永元年{1624}に亡くなった)
日戸内膳秀武     (秀恒の子。通称・五兵衛。千三百石。野辺地城代)
日戸内膳直秀     (秀武の子。通称・五兵衛)
日戸助三郎秀盛    (直秀の子。承応三年{1655}貝田沢で亡くなった。通称・五兵衛)
日戸仁兵衛秀春    (秀武の二男。御馬方。五駄)
日戸勘十郎秀親    (秀武の三男。百五十石)
日戸三十郎秀和    (秀武の四男。三十駄)
渋民利兵衛秀勝    (日戸の分家。信直に仕えて最初は助市といった)
渋民理兵衛秀吉    (秀勝の子。通称・助市)
渋民六郎兵衛政国    (秀吉の子)
河村小三郎直秀    (河村四郎秀清の末裔。 日戸・大萱生と同流である。岩手郡玉山村に住んで信直に仕え三百七十石)
玉山大和秀甫     (小三郎の子)
玉山兵庫秀久     (大和の子。通称・六兵衛。寛永四年{1628}に亡くなった)
玉山六兵衛秀之    (兵庫の子。二百石)
玉山監物秀隆     (小三郎の二男。浪人)
玉山弥右衛門秀邑   (監物の子。十駄二人扶持)
玉山庄之助秀安    (大和の二男。五駄五人扶持)
川口左近秀長     (玉山の分家。川口村に住む。信直に仕えて四百石)
川口与十郎秀影     (左近の子。通称・源之丞)
川口与十郎秀寛     (与十郎の子。八戸家の家臣)
川口主水秀信     (左近の弟。信直に仕えて百五十石)
川口主税秀定     (主水の子)
川口治部        (左近の二男。三十八石)
下田弥三郎秀祐     (日戸や玉山とは同流。下田村に住む。二百石)
下田内記秀邑     (弥三郎の子。家禄を没収され浪人した)
下田清之丞秀勝     (内記の子。四駄三人扶持)
沼宮内治部春秀     (下田と同じ流れ。沼宮内に住む)
沼宮内治部春久     (治部の子)
沼宮内治部久幸     (春久の子。子無きをもって断絶した)
沼宮内采女久秀     (春秀の二男。浪人)
沼宮内武左衛門秀昌   (采女の子。新田五十石)
沼宮内伊兵衛秀喬   (武左衛門の子。百石)
上田越前貞倚      (坂上田村麻呂の子孫。 代々岩手郡上田村に住む。応永{1394~1427}の頃より南部家に臣従し、天正年中{1573~1593}信直に仕えて三百石を安堵された)
上田弥兵衛貞方    (越前の子。家禄を没収された後十駄二人扶持を受け、花巻に住んだ)
上田弥七郎貞治    (弥兵衛の子)
上田九郎助清貞    (弥七郎の子。通称・弥兵衛)
上田采女貞就      (上田に住んだ)
上田伝之丞貞之     (采女の子)
上田太兵衛貞友    (伝之丞の子。家禄を没収された後、四駄二人扶持を受け、花巻に住んだ)
上田兵部忠武     (本姓は藤原氏。いつの頃からか上田村に住み、はじめは彦三郎といった。慶長二年{1597}利直に仕えて二百石。寛永年中{1625}に亡くなった)
上田兵部忠重     (兵部の子。通称・庄右衛門。家禄没収の後、二人扶持を受ける)
上田永宅福章     (忠重の養子。実は荒木田定次の三男。兵部忠重の娘が御老女{注:老婆という意味ではなく、奥向きの役職名}を務めたことにより、重信{四代藩主}の代に百石となる)
萄池勘解由武照   (肥前国の菊池氏の支族。いつの頃よりか岩手郡沼宮内に居住した。、天正年中{1573~1593}に信直に仕え、江苅内村に二十二石を受けた)
菊池久助武次    (勘解由の子)
菊池久助武定    (久助の子)
菊池某
矢幅又右衛門定政   (岩手郡下田村の郷士。矢幅甚右衛門政好の子。利直に仕えて百石。家禄没収の後政直に再出仕し、五十石。花巻に住んだ)
矢幅八右衛門愛政   (又右衛門の子。 百石)
矢幅八右衛門政武   (八右衛門の子。通称・治助。百六十石)
矢幅八兵衛政義    (愛政の次男。五駄二人扶持)
田口善五郎高藤    (岩手郡雫石に住み、利直公に仕える。田口子に百五十石。慶長十八年{1613}に亡くなった)
田口長松藤峯    (善五郎の子。家禄没収)
田口庄左衛門清藤   (庄左衛門の二男。十駄二人扶持)
田口弥左衛門藤好
鵙逸左衛門次郎    (岩手郡鵙逸村の住人。石川高信に従って岩手や志和の合戦で功績を挙げ、二百石。信直に仕える)
鵙逸弥五郎      (左衛門次郎の子。百石)
鵙逸弥五右衛門    (弥五郎の子。七十石)
鵙逸弥左衛門
帷子豊前吉平    (譜代の家臣・佐藤彦五郎真次の弟で新助綱直という人は、建武{1334~1336}の頃より主家の命令により岩手郡に住んだ。桔平はその十二代目の子孫で信直に仕え、帷子村を給わった)
帷次郎五郎吉真   (吉平の子。二百石)
帷多左衛門吉松   (吉真の子。三百石)
帷子惣右衛門吉明    (吉真の二男)
鎌田和泉
鎌田六右衛門政珍
舘市但馬
河原掃部
太田将監
南舘右京
元信弥六
浅岸弥五郎
橋場下総
阿部新右衛門
御明神右京
用沢甚右衛門

2016-10-25 02:22 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集 「志和家のこと」
(前注・人名の「詮」はアキと読む)

 足利泰氏の長男・足利尾張守家氏の四代目の子孫は、斯波尾張守高経といった。
 その高経の弟で斯波伊予守家兼という人は、足利宗家の征夷大将軍・足利尊氏に仕えて奥州探題となり、陸前国大崎城を居城とし、大崎左京大夫と名を改めた。

 奥羽両国の政治や諸事を代々預かったが、五代目の子孫・大崎左京大夫持兼の次男に左衛門佐教兼という人がおり、この人が明応元年(1492)に陸中国志和郡の地頭職に任じられ、教兼の長男・左兵衛尉詮高が志和郡へ下向した。
 詮高は志和郡の高清水城に居住し、その息子・治部少輔経詮は通称を孫三郎といい、志和郡内をよく統治した。

 その息子の民部少輔詮真という人は、通称を孫三郎といい、天文十四年(1546)になって領土拡充を図り、岩手郡へと出兵したが、岩手郡の諸豪族は三戸の南部氏より援兵を得て応戦し、斯波軍は形勢不利となって撤退した。
 元亀二年(1571)、南部家の家臣・石川左衛門高信が岩手郡の諸豪族を味方につけて志和郡まで攻め入り斯波軍と会戦したが、斯波方は惨敗を喫した。これよって斯波家の武威は大いに衰えた。

 詮真の後を受けて息子・孫三郎詮基が家督を継いだが、わがまま勝手で政治を顧みず、放蕩の限りを尽くした。
 この詮基の姉の婿に、高田弥五郎康実という者がいた。高田弥五郎は南部氏の武将・九戸政実の実弟で、天文十四年の合戦における南部家との講和条件のひとつとして、詮真は弥五郎の身元を引き受けることになり、娘を与えて斯波一門に加えることを余儀なくされた。
 詮基はかねてより弥五郎と不和であり、彼を殺そうと図ったため、弥五郎は領地の高田から脱出して南部氏に投降し、岩手郡の中野館に居住して中野修理康実と名を改めた。
 修理は石川高信の内命を受け、密かに斯波の臣下と会見を重ねた。斯波の重臣たちの中には簗田中務詮泰・岩清水右京義教など、修理に加担して主家を欺く謀議に加わるものがおり、その数は次第に増えていったが、詮基はこれに気が付かず日々を驕奢放逸に過ごして人望を失った。
 細川長門・稲藤大炊・岩清水肥後義長などがこれを諌めたがまったく取り合おうとしなかったので、諸臣は詮基の命令をきかなくなった。
 この時を計って中野修理は、今こそ志和を手に入れるべきですと主君・南部信直に進言したため、天正十六年(1588)、信直は軍を率いて三戸から出陣した。岩手郡の諸豪族はこぞって信直のもとへ馳せ参じ、その魁となって高清水城を包囲した。南部方の本陣は陣ヶ岡に設営された。
 斯波方は多数の家臣が南部家に投降したため防戦の術もなくなり、孫三郎詮基も夜陰に乗じて逃走したので残兵は散り散りになって、抗戦して主家に殉じたのはわずか二、三人に過ぎなかった。
 それより詮基は大ヶ生玄蕃秀重の館に潜み、慶長五年(1600)になって南部利直に仕えて五百石を与えられ、名前を詮直と改めた。
 慶長十九年(1614)には大坂の陣へ従軍したが、かつての旧臣の下に立つことを恥じて家禄を返上し、そのまま京都に上って浪人となった。その息子の孫三郎は公卿の二條家に仕官し、斯波式部少輔詮種と名乗り、諸大夫の列に加わったそうだ。

<志和諸臣>
(前注・信直=南部信直、利直=南部利直、政直=南部政直。利直の次男、松斉=北信愛。南部家の家老)

雫石和泉久詮   (一族 後に松斎に仕えて三十石)
雫石弥右衛門久資 (久詮の子 五十石)
雫石東膳吉久   (久詮の弟 政直に仕えて九十石)
猪去蔵人久道  (一族 松斎に仕えて五十石)
猪去蔵人基久   (久道の子)
岩清水肥後守義長 (忠義の人で討死した)
細川長門守    (忠義の人で討死した 家老)
稲藤大炊助    (忠義の人で討死した 家老)
工藤雅楽允茂道  (天正十六年に討死)
工藤茂右衛門茂正 (茂道の子 利直に仕えて二十駄)
貝志田主馬允 
永井八郎延明   (天正十六年に討死)
永井理右衛門通延 (延明の子 政直に仕えて五十石)
貝志田与三
大迫右近
大迫又三郎
大迫又左衛門
十日市将監光久
伝法寺右衛門
徳田掃部
煙山七郎     (主君に従い没落した)
日沼隼人
見前監物
松原半十郎
堀切兵庫助
藤沢花五郎
白沢百助
室岡源兵衛
細越五左衛門
鵜飼主膳正
鵜飼又十郎
鱒澤刑部丞
太田主殿助秀広
太田民部秀氏   (秀広の子 政直に仕えて三十石)
太田長三郎政巴  (元は和賀家の浪人)
豊間根内記秀國
曹木田十郎兵衛
川村中務
川村覚右衛門秀徳 (松斉に仕えて百五十石)
川村作内秀満   (政直に仕えて四駄二人扶持)
川村喜助
矢羽々又左衛門正紹
矢羽々内膳正英
矢羽々内膳正資  (利直に仕えて五十石)
日戸典膳秀勝
日戸藤六
中村作兵衛秀峰
大川与左衛門基則
大川勘之丞基房  (利直に仕えて十駄)

<志和主家に叛いて中野修理康実に加担した人々>

大萱生玄蕃秀重 (河村四郎秀清は源頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、文治年中{1185~1189}に志和郡を腸って以後代々地頭職を務めた。 明応{1492~1501}頃より家が衰えはじめ、斯波家に臣従し重臣となった。秀重は秀清の十六代目の子孫。中野修理の謀略には加担せず、天正十六年の斯波家滅亡の時になって中野の勧めにより降参した。旧領六百五十石を安堵された)

大萱生長左衛門秀春 (秀重の子)
川村右近秀久   (秀重の二男)
江柄兵部少輔
川村豊前秀久   (信直に仕えて百石)
江柄九郎兵衛次昌 (秀久の子)
江柄斉宮助
手代森大夫秀親  (主家に叛いて信直に仕え五百石)
手代森内膳
中村作右衛門
栃内左近秀綱   (三百石 主家に叛いて信直に仕えた)
杤内源右衛門秀晴 (左近の子)
栃内宮内
簗田中務詮泰   (主家に叛いて信直に仕える 家老となり千石)
簗田大学勝泰   (中務の子)
星川左馬助
岩清水右京義教  (千石)
岩清水蔵人義因  (右京の子)
清水善七郎
乙部治部義説   (千石 主家に叛いて信直に仕えた)
乙部長蔵義廉   (治部の子)
乙部兵庫助
大釜薩摩政幸   (主家に叛いて信直に仕えた 五百石)
大釜彦右衛門政綱 (薩摩の子)
大釜惣八郎良重  (同じく二男)
多田孫右衛門忠綱 (主家に叛いて信直に仕える 四百石)
達曽部弥兵衛清綱 (多田忠綱の子)
氏家弥右衛門義方 (六十石)
長岡八右衛門詮尹 (主家に叛いて信直に仕える 千石)
長岡内蔵助央武  (八右衛門の子)
玉井庄兵衛
宮手彦右衛門英清 (主家に叛いて信直に仕える 三百石)
宮手彦三郎清貫  (彦右衛門の子)
飯岡弥六郎祐貫  (七十石)
中島内膳安将   (主家に叛いて信直に仕える 三百石)
中島源内安晴   (内膳の子)
中島備前入道
小屋敷権之助義長 (主家に叛いて信直に仕える 二百石)
小屋敷修理長和  (権之助の子)
大巻隼人
山王海太郎    (主家に叛いて信直に仕える)

2016-10-25 01:38 | カテゴリ:歴史
「奥南落穂集(おうなんおちぼしゅう)」という書物があります。
一般的にはあまり触れられることのない北東北の戦国時代について書かれた本です。
いわゆる軍記物ではなく資料本に近い性格で、主に南部家を中心としてその周囲に割拠した諸豪族について簡潔にまとめられています。
成立は江戸時代中期ではないかといわれているようですが、正確なことはわかっていないようです。

最近この本を読む機会があり、大変興味深かったので、備忘録という意味も込め、自分なりの現代語訳にしてみました。
次回からそれを、気が向いたときに掲載していきたいと思います。
「信長の野望」なんかのシミュレーションゲームでも不当に低く評価されている感がある東北の諸氏。
確かに彼らには、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康のような華々しさはありませんが、戦国という限りなく殺伐としていた乱世を必死にあがいて生きた人間たちです。
ゲームの能力値や結果論だけで「あいつは凡将だ」「愚かな人物だ」などと誰に決められるでしょうか。
これが彼らを些かなりとも見直す材料になれば幸甚です。

意訳は原本にできるだけ忠実にしてみようと思いましたが、言い回しの難しい箇所や意味が通らない部分もあるので、そういう部分はわかりやすさを優先してあります。
したがってあまり原本には忠実ではなくなりました(^^;)。
また、掲載する順序は原本通りではなく僕個人の好みによって順番を変えてあります。
その点はご容赦ください。

まず次回から、僕個人にも非常に縁が深い場所である紫波郡の豪族「斯波氏」についての記事から始めたいと思います。
ご興味のある方は、よろしければお目をお通しください。

2016-10-24 00:47 | カテゴリ:雑記その他
俳優の平幹二朗さんが昨日、お亡くなりになられました。
享年82歳であったそうです。

Yahooニュース 俳優・平幹二朗さん死去

中学生のおり五社英雄監督の「三匹の侍」を観て以来のファンでした。
平さん演じるニヒルな浪人・桔梗鋭之助はとにかくかっこよかった。
思えば、僕がチャンバラや時代劇に興味を持ったのはこのビデオを借りてみたのがきっかけであったのかもしれません。
その後も様々なジャンルの芝居に進出され、俳優会の大御所として活躍しておられるのを見て、一ファンとして嬉しく思っておりましたが、お年がお年とは言え、まさかこのような亡くなり方をされるとは…。
夢にも思わぬことでしたので、非常にショックです。
ご子息の平岳大さんやご家族の方々もどんなにか驚かれ、悲しまれたことでしょうか。
とても残念です。

今はただ、名優・平幹二朗さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
合掌。


2016-10-23 22:17 | カテゴリ:雑記その他
唐突なのですが、犬を飼うことになりました。
以前から犬が欲しいと再三言っていた犬好きの父親が、昨日突然にして犬を購入契約してきたのです。
その犬を今日、引き取りに行ってまいりました。

これまでにも犬は私が幼少のみぎりから三度ほど飼った経験があったのですが、みな悲惨な死に様を遂げたため(一匹目は腹部の悪性腫瘍、二匹目は猫いらずを食べて中毒死、三度目は肛門に出来たガンで死亡)、正直言って個人的にはもう飼いたくありませんでした。
なんというのでありましょうか、自分以外の生き物の命に責任を負いたくなかったのです。
私もすでに40を過ぎ、両親はあらかた70歳です。
そんな状態のまま犬を飼ったところで、もしかしたら犬が両親より長生きをするかもしれないですし、当たり前の話ですが、犬だって生き物なのですから、ご飯も食べるし大小便もたれる。
子犬のうちは小さくていいのでしょうけれども、成長していくに従って身体も大きくなり、性格も変わってくるでしょう。
そうなったら面倒は老人二人に変わって私が見なくてはいけない。
ましてや、両親が早く死んでしまったら私が犬の最期を看取らねばならないわけです。
それをこなしていく自信はありませんでした。
ですから私は最後まで犬を買うのに反対したのですが、父はそれを承知の上で売買契約を結んできたわけです。
話しても反対されるのだから、勝手に連れてきてしまえとかいう感覚が透けて見えるので、ぶっちゃけたいへん不愉快でありましたが、まあ約束をしてお金まで払ってきてしまったのであれば仕方がない。
私も「命を預かる」覚悟を決めました。

犬種はアイヌ犬と柴犬の雑種。
性別は雌で生後2ヶ月半だそうです。

写真はiPhoneで撮った物を直接アップしております。
今までのようにPhotoshopが使えなくなってしまったため、画像編集はしておりません。
したがってサイズ等かなり見づらくなっておりますが、ひとつご容赦ください。

004.jpg
犬のくせに二重まぶたの上にまつげが白いのです。
最初に飼った犬が黒柴の雌でしたが、色が黒かったのでまつげだのまぶただのはまったく目立たず気にしてもおりませんでしたが、白い犬だと意外に目立つものなのですね。
犬にも二重とかあったのかと思って、なんだか意外な気がいたしました。

父の話では、ごくおとなしい性格のようだとのことでしたが、連れ帰ってみると非常に活発な性格で、あちこちを破壊したり暴れまわって手がつけられません。
暴れまわったあとは寝てしまいましたが、コテンと横になっただけで寝ております。
普通は丸まるものではないかと思いましたが、こういう犬も居るのですね。
005.jpg

ただ、おとなしいとはいえないものの、無口な犬とは言えるようで、ほとんど鳴きません。
勿論たまには鳴きますが、ギャンギャンとうるさくはしないのです。
その点は良いのかもしれません。
また、人間に抱かれるのが割りと好きなようで、抱っこしても暴れるなどして嫌がりません。
おとなしく抱かれています。
ちなみに犬を抱いているのは私の老母であります。
006.jpg

名前は最初「さくら」と着けることにしておりましたが、老父が異議を唱えだしまして、取りやめになりました。
なんでも、「三文字だと呼びにくいから」だそうです(^^;)。
その結果、「タマ」という猫のような名前に落ち着きましたw
なんでタマなんだと言えば、むかし新潟県にいたという「忠犬タマ公」にあやかろうというのが理由であります。
008.jpg

果たして名前通りの忠犬に育つのか、それとも単なる馬鹿犬に育つのかは、我々飼い主のしつけひとつにかかってきます。
両親はおそらくめちゃめちゃに可愛がって甘やかすことと思いますので、せめて私は多少厳しくしつけを施し、名犬とはいえないまでも、普通の犬くらいには育てたいものです。
何しろ多分10年以上の付き合いになると思いますので、厳しくはしつつも褒めるところは褒め、可愛がるときは可愛がり、互いに良い信頼関係が築けるようにしたいものです。

今後はこのタマのこともブログにアップして行きたく思いますので、皆様よろしくお願い申し上げます。




2016-10-19 16:05 | カテゴリ:歴史
横川良介の「内史略」という書物に、会津藩士にまつわるちょっと面白い逸話があるので、ご紹介しよう。

文化五年(1808)の1月、幕府より蝦夷地警護を命じられた会津藩は厚岸、択捉、国後の防備に就くべく国元を発ち、陸路任地へと向かった。
その間奥州道を北上し南部領盛岡城下へ入った際、会津兵は三段の構えを布き騎馬のものはなく、部隊長始め全ての隊士は徒士行(かちゆき。歩兵のこと)であった。
部隊長は裁付袴に陣羽織、陣笠に真紅の総角(あげまき。房飾りのこと)を背に垂らし、その前後左右を陣羽織に陣笠、陣太刀姿の部下が取り巻き、鞘を払った槍を銘々に引っさげて隊列を組んだ。
鐘や法螺、陣太鼓などの軍楽隊が後列に控え、三段の総勢千人余り、威風堂々の勇姿であった。
宿に着くと合図の太鼓を打ち鳴らし、法螺貝を吹いた。
このように隊伍は極めて立派であったが、会津の蝦夷地派遣部隊は奥蝦夷の気候にやられて、その大半が死に至ったそうだ。

その道中、彼らが仙台領水沢や金ケ崎の宿へ至った際、そこの商人たちは
「ここから向こうの方は実に辺鄙なところだし、なんでも不自由な上に高値で、旅行中に使いたいものでもなかなか手に入らない。この辺で買っておいでになったほうが良いでしょう」
と口々に言って彼らを騙した。
そんなことは夢にも思わぬ会津兵たちは、それはもっともなことだと、草履、草鞋、鬢付け油、本結(もとゆい。チョンマゲを縛る紙製の紐)、煙草の類に至るまで買い込み、荷駄につけて盛岡藩領花巻宿まで先に送った。
一隊が花巻に入るとその繁華なことに驚き、町人に
「ここが盛岡か?」
と尋ねた。
町人が
「ここは花巻です。盛岡の御城下はここから8~9里も先です」
と答えると、彼らは口々に笑って
「盛岡城下が左様に大きい訳がない。そなたらはなぜ我々を騙そうとするのか」
と言って信じなかったが、その後実際に盛岡城下へ到着してみると繁華且つ街の規模が広大なことに仰天し、しかも万物不自由なく流通して何を買うにも事欠かず、その値段も水沢、金ケ崎より全て下値であったため、初めて欺かれたことを知り、立腹しながら伊達人の狡さを宿の主人へ話して聞かせたそうだ。

また会津は海がない藩なので、川魚以外に生の魚というものがなかった。
海の魚は他領より持ち込まれる干物程度のものだったので、それに代わるタンパク源としてイナゴ、ガムシ(川虫)、川海老などを捕らえ、炒り煮(佃煮)にして食事のおかずとしていた。
このイナゴなどを捕らえるのは子供の役目とされ、城下では一升で12文ほどの値段で普通に売られていたらしい。
ちなみにこの炒り煮の作り方には上中下の三制があり、上は上等の醤油と氷砂糖を用い、中は醤油と白砂糖、下は醤油を使わず黒砂糖のみを用いて作ったらしい。
会津は同じ武士であっても身分制度が厳しい(羽織の紐や刀の下げ緒の色で身分が区別できるようにしていたそうだ)ことで有名だったので、もしかしたら上製の炒り煮は殿様や上士しか食べられなかったかもしれない。
さて会津藩士たちが盛岡で休息を取った際、そのうちの数人が六日町から石町(現在の清水町から南大通近辺)にかけての旅館へ宿泊した。
旅館の前には魚屋があり、会津藩士たちは旅館の二階からその店先にいろいろな魚が並んでいるのを物珍しげに眺めていたが、やがて旅館の亭主を呼んで、
「あの店先に並んでいる赤い魚はなんという魚で、どうやって食べるのだ?そして値段はいかほどするのだ?」
と尋ねた。
亭主は答えて
「あれは赤魚(あかうお)という魚でこの頃たくさん捕れます。味噌汁や醤油汁、焼き物など勝手自在に食べることが出来ます。値段は大きさによって甲乙ありますが、大体百文も出せば2、3匹は買うことができるでしょう」
それを聞いて会津藩士たちは喜び、
「それは安い。ではこれで買ってきて料理してくれ」
と500文ばかりを出し、12、3匹も買い求めさせ、
「これを味噌汁で丸煮にしてくれ」
と頼んだ。
亭主は仰天して(赤魚はメヌケとも言い、深海棲の相当に大きな魚で、普通は切り身にして食べる)、この魚をまるごと煮るには大鍋に入れて煮なければならないので云々と答えると、それでは料理した鍋のままここへ持ってきてくれればよいと言われたため、仕方なくそのようにすると、会津藩士たちはそのまま鍋を囲み、手盛りにしてたちまち食い尽くしてしまったそうだ。
北海道で会津藩士たちが次々に死んでいったのは、北海道の厳しい気候や環境もあったであろうが、普段食べ慣れないものを美味しいからと言って万事このような調子で食べ続けたことが少なからず体調に影響を与え、病気のもとになったのだろう、と横川良介は書いている。

会津藩士と言えば林権助や萱野権兵衛、別選隊の佐川官兵衛などの豪傑や、彼らが活躍した戊辰戦争の凄惨な戦闘というイメージが先立って、無骨一辺倒なイメージがあったのだが(偏見かもしれないが)、ここに描かれたそこらの田舎武士とあまり変わらぬ振る舞いに微笑ましさや、なんとはなしの親近感みたいなものを感じてしまった。
言うまでもなくこれは当たり前のことなのだろうが、やはり彼らも武士である前に普通の「人間」だったのだ。
ちなみに盛岡には類まれな槍の達人で、秋田戦争で名を轟かせた青木俊介という会津出身の武士がいたのだが、その人のことについては日を改めて書きたいと思う。



2016-10-16 23:55 | カテゴリ:雑記その他
本日は朝から秋晴れの大変爽やかな陽気になりました。
それに誘われ、先日コスモスの花が見事という噂を仕入れた「志波城古代公園」に行ってみました。
ここは盛岡市内のほぼ西南の外れに位置する公園施設で、大昔、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷討伐のために築いた前線基地のような場所です。
それを近年になって公園施設として整備したものです。

志波城古代公園(盛岡市HP内)

噂通り休耕田を利用して植えられた一面に咲き誇るコスモスの花が非常に見事で、畑の向こうに志波城の築地塀と岩手山が遠望できるのも素晴らしかったです。
興奮しつつ写真を何枚か撮影し意気揚々と帰宅したのですが、帰宅後に撮影した写真をデジカメからPCへ取り込み、サイズ調整などの加工を行おうとしたところ、なんと以前より調子の悪かったPhotoshopがまったく役に立たなくなっています。
以前よりあった問題動作が更にひどくなっており、更には写真をWEBように加工しようとすると止まってしまう。
これではとても使い物にならぬので、思い切ってアンインストールすることとしました。
使えないソフトを入れていても意味がありませんからね…。
そこで代わりのソフトはどうしようかと考えたのですが、旧PC時代に使いづらくて匙を投げてしまったフリーソフトだけれども高性能な「GIMP」を入れてみることに。
今インストール作業が終わったところです。
これから使い方を書いた各サイトを巡って歩き、少し勉強してみるつもりです。

果たしてうまく使えるようになるか…。
今のところはわかりませんが、これを不自由なく使いこなせるように頑張りたいと思います。


2016-10-15 00:13 | カテゴリ:ゲーム
前回に引き続き、試しに遊んでみたゲームのお話をちょこっとだけ。

*編隊少女(PCブラウザ)
正体不明の攻撃機に、少女パイロットたちを指揮してレシプロ機で立ち向かうという、ヒコーキ好きにはたまらない空中戦ゲームなのですが、これほどイライラさせられたゲームは個人的にここ最近例を見ません。
個性的なキャラクターに可愛らしいそのデザイン、ローポリゴンながら頑張っている飛行機の造形、パイロットと親密度を上げるギャルゲーパートは有名声優のフルボイス。
ある種の人々には大いに受けそうな要素が満載なのですが、遊んでいてとにかくイライラする。
その原因は、絶望的なほど悪い操作性とレスポンス。
ゲームをスタートすれば延々とロードが続き、数分間は当たり前。
それが終わってようやくゲームが始まったのかと思えば、ボタン類の反応が鈍く、ポインタをボタンに合わせてクリックくらいではまったく反応しない。
マウスの左クリック連打でようやく反応、しかも数秒のブランクを置いてです。
ゲームのメインコンテンツであるはずの戦闘に出ようとすると再びロードが始まり、これがまた長い。
いい加減やる気を無くしたところでようやく戦闘開始なんですが、この戦闘中も音楽やセリフと飛行機の動きがやたらとずれ、おかしなタイミングではいるカットインやら何やらも手伝って興を削ぐこと甚だしい。
万事がこの調子なので、非常に腹立たしくなります。
遊んでいてストレスが募るため、自分は何を目的にゲームをしているのかさっぱりわからなくなってきます。
もしやこれは僕のPCだけなのかと思ってちょっと調べたら、同じような意見を書いている人は結構いましたので、どうやらこういう仕様のゲームのようですね(^^;)。
このあたりを改善するだけでかなり遊べるゲームになると思うのですが、その思いが却って苛立ちを助長しますw
β版テストに参加し、詳しい感想なんかも送ってゲームづくりにはそれなりに貢献したつもりでおりますが、速攻で遊ぶのをやめました。
もしかしたら、今は問題点も改善されたのかもわかりませんが、もしまだであるのならメーカーさんはこのあたりをどうにかしたほうが良いと思います。

*御城プロジェクトRe(PCブラウザ)
以前プレイしていた「御城プロジェクト」の再生版です。
決してつまらないゲームではないと思うのですが、ゲーム内容がまったく違ったものになってしまったため、以前のほうが好きだった自分にとっては、いろいろな意味で非常に微妙なゲームになってしまいました。
困った部分も結構あり、やたら通信が切れてゲームが続けられなくなったり、やはりボタン類のレスポンスが悪くイラッと来てしまいます、
しかしそれ以上の不満点は、城娘の進化がなくなってしまい、以前は同一だったキャラクターが進化前と進化後でまったく別のキャラクターになってしまったことが悲しい。
例えば以前は不来方城を育てて進化させると盛岡城に成長したのですが、今は不来方状と盛岡城はまったく別のキャラクターになってしまっているのです。
一応、城娘には「改造」を施してパワーアップさせることはできるのですけど、それってなんか違うんだよなぁと思ってしまうんです。
あくまでも個人のつまらない思い入れなのかもしれませんが、育てて強い城娘にしよう!という楽しみは確実に奪われました。
この辺は賛否あるかと思いますが、自分としてはあまり好きじゃないですね。
それと、以前は「築城」かイベントの特典でしか手に入れられなかった城娘達がガチャで手に入れられるようになったこと、しかもやたら種類が増えてしまったのでコンプリートしようと思えばガチャ回しは必須、加えてレア城娘の出現率がたいへん渋いなど、なんか「じゃんじゃん課金しろ!」というソフトハウス側の意図があからさまに見え透いていて、どうにも(^^;)。
勿論悪い部分ばかりではなく、ゲームとして以前より面白いところもたくさんあるのですけど、自分としては前述のような部分の違和感がどうにも拭えません。
それと、会話や贈り物などによって城娘の好感度を上げるイベントが出来たのですが、くろうして親密になっても別におノロケの一つも出るわけじゃなし(いや、ユニットとしての能力値は上がるんですが…)、ちょっと肩透かしかなあ、と。
一乗谷城とイチャイチャしたいんだよおれは!w
まあ、千狐が以前よりももっと可愛くなったので全て許してやろう!(←駄目じゃん)。


2016-10-13 23:56 | カテゴリ:ゲーム
先日iPhoneがOSをios10にアップデートしろしろとしつこく言うので、仕方なく従ってみたしたのですが、あまりにも操作感が違ってしまいいささか困惑しております。
噂にあったような文鎮化するという症状は流石に改善されているようですが、これまでのiosを使い慣れてしまっているため、戸惑うことばかり。
つい昔の操作をしてしまって、おかしなことになったりします。
明らかに改悪だと思えるような部分も無きにしもあらずで、アップルも何を考えているのやらと思ってしまいました。
しかも、iosに未対応のゲームも多いようで、今まですんなりとプレイできていた「ケリ姫スイーツ」がまったく動かなくなり(タイトル画面の「NOW LOADING」から全く動かなくなった)、アンインストールを余儀なくされてしまいました。
いや、もしかしたら私のスマホがおかしいとか、ただ運が悪かっただけかもしれませんけど、まあ、なんつうか…長く遊んできたゲームだったのでやっぱり悔しいですね(^^;)。

さて話は変わり、今日は書くこともないので、最近暇を見て遊んでみたゲームのお話などを、ちょっとだけしようと思います。
殆どが、無料で遊べるスマホやPCのブラウザゲームのお話になります。
中にはもうやめてしまったものや、まだ続けているものもあります。
当然ですが、感想は個人の意見ですので、悪しからずご了承ください(よって、多分参考にはならないと思います)。

*シノビナイトメア(スマホ)
以前もここでああだこうだと勝手な感想を書きましたが、僕と同じ感想を持ったユーザーは多かったらしく、前回ブログに書いてからすぐに「大幅なシステムの見直しをする」というプロデューサーのアナウンスが入りました。
おそらくはスタッフも悪い反響があまりにも大きかったので驚いたのだとみえますが、それを即座に「改善します」とする辺りと、プロデューサー名義できちんと謝罪と報告を行う辺りには誠実さを感じました。
で、その結果としては、現段階ではそれほど目立った改善は行われていません。
ただ、10~11月にかけて行われる予定(本当は9月にやるはずだった)の大型アップデートでこれまでの問題点を解消し、大幅なシステム改善を行うとのこと、それを期待しています。
アナウンスで予告された改善内容を見ると、ユーザー体力制やくノ一育成システムを導入するなど、そこらによくあるゲームと同じシステム様式を導入することが決まっているようです。
それがこのちょっと変わったゲームの世界観や個性を殺しかねないという不安もあるにはありますが、、遊びやすさという点を鑑みればそれもむべなるかなというところでしょうか。
いずれ、遊びやすくすれば決してつまらないゲームではないと思うので、頑張って欲しいところです。

*ファントムオブキル(スマホ)
シノビナイトメアと同じゲームメーカーが作っているシミュレーションRPGです。
北欧神話を下敷きにしているらしいダークファンタジー風の独自の世界観と、陰鬱で重い物語性、どこか儚げなキャラクターデザイン(ついでに音楽もなんだかメロウな感じです)が特徴です。
その手のお話がお好きな方は、おそらく楽しめるのではないでしょうか。
ゲーム自体はよくも悪くも普通のシミュレーションRPGなのですが、多少戦闘画面の操作感が悪いのでプレイしていてイラッとする、進化素材とユニット置き場が同じなのですぐに枠が一杯になる、ユニットには武器熟練度が導入されているため、ユニットのレア度やレベルが高くても強力な武器をいきなり装備させられない、レアな武器でも簡単に壊れてしまい、その上修理に失敗すると消失してしまうなど、痒いところに手が届かないもどかしさを感じます。
苦労して手に入れた星6つのレア武器があっさりと消失したときは、本当にやる気がなくなりました(^^;)。
そのあたりの問題点の一部は今月に行われるというアップデートによって改善される予定だそうですが…さてどうなりますか。
ちなみに「まどか☆マギカ」とのコラボ企画が目当で始めたのですが、この企画が案外ちゃんとしたものだったので驚きました。
パズルゲームの「家電少女」などのように無理やり合わせたという感じはそれほどなく、まどかやほむらなどのキャラもちゃんと生きており、シナリオはそれなりに練られたものでした。
そのあたりには好感が持てました。

*ゴシックは魔法乙女(スマホ)
なんと、シューティングゲームにギャルゲー要素を足したものです。
スマホのゲームに縦スクロールの、それも結構しっかりした造りのシューティングがあろうとは思っていませんでしたので、Twitterで知人から勧められたときにはちょっと驚きました。
シューティングゲームとしての出来は悪くなく、シューティングは苦手だという人にも、キチガイじみた弾の嵐こそがシューティングなんだというマニアの人にも満足できるような難易度が用意されているほか、難易度によって物語展開の変化もないので(クリア報酬が違うだけ)、誰でも気軽に遊べます。
ギャルゲーパートは主人公を補佐する魔法乙女たちとの間で展開されます。
彼女らには親密度が設定されていて、親密度を高めると、結果的に主人公の能力がアップしていきます。
この魔法乙女たちはなかなかデザインなども可愛いのですが、問題は声でして(^^;)、声優の演技が正直素人レベルなのですよね。
いくらスマホのゲームだとは言え、とても聞くに耐えないという声のキャラもいます…アマチュアの声優を起用しているのか、それとも素人が演技しているのか。
とにかく魔法乙女たちのセリフが多いゲームでもありますから、このあたりにもお金を使っていただきたかったですね。
それにシューティングとして若干の問題がない訳でもなく、まあスマホなので仕方がないと言えばそうなのですけど、どうしても自機を指で操作することになるため、敵の姿や弾が指に隠れて見えなくなったり、いつの間にか指がスマホの画面から外れてしまって動きが止まるなどするのですね。
このあたりはプレイヤーの遊び方次第ですのでどうでもいいことかもしれませんが。

ちょっと予想より長くなってしまいましたので、続きは次回に回したいと思います。
ああ、こんなにゲームばっかりやってるのか、ゲーム廃人かよ!というツッコミはなしの方向でお願いしますw
ちゃんと仕事もやってますんで、ご心配なく(^^;)。

2016-10-12 13:00 | カテゴリ:ちょい旅
先月の末のことですが、塞ぎ込んでいても仕方がないので少しばかり気分転換に、ドライブへ行くことを計画しました。
すると老母が先日ローカルニュースで見かけたというバラ園へ行ってみたいので連れて行けといい出し、それではひとつ行ってみるかと出かけてきました。
場所は盛岡の南に位置する紫波郡紫波町(私にも縁が深い)の、「サンテミリオンローズガーデン」というところです。
私はそれまでまったくその存在を知らなかったのですが、地図を調べようとサイトを覗いてみたところ、東北でも最大規模を誇るバラ園とのことで、宿泊施設も併設されており、ちょっと小洒落た雰囲気の場所なようでした。

サンテミリオンローズガーデンHP

そこで、花もまあ嫌いではないので行ってみることにしました。
しかし実際に運転して行ってみますと、まあ本当に山の中でして(^^;)、周りは山と田んぼだらけ。
しかも一面の平らな田んぼというならまだわかりやすいのですが、何しろ山間部の傾斜地やちょっとした平地に作られている隆起に富んだ場所なので、ちょっと見たくらいではどこをどう行ったらいいのか、さっぱりわからない。
カーナビをセットしていたにも関わらず、たどり着くまでには結構苦労しました。

さてようやくたどり着いたバラ園ですが、あららなんとしたことか、入口の受付に人がいません(^^;)。
ちょっと小洒落た感じのレストラン風の建物がそばにあり、そこからジューッと何かを焼く音と良い香りが漂ってくるので、多分人はそこにいるのでしょうが、入場券売所には人がいないわけです。
仕方がないのでレストランまで行って、入り口でベルを鳴らすとようやく係員が登場。
入場券を求めるとお待ち下さいと言って大急ぎで受付まで戻っていってお釣りを持ってきました(^^;)。
多分一人か二人くらいで経営しているのでしょうね…。
人手が足りなくて大変なのでしょうが、金庫を置いた受付が無人だとか不用心すぎないかなぁ…w
などと思いつつ愈々見学であります。

バラ園は入り口が高台になっており、そこから順に下へ下っていくような形で作られております。


残念ながら花の盛りは過ぎており、多くのバラが枯れかけておりました。
数日前にテレビで見たのだと老母は言いましたが、その数日でバラの花っていうのはダメになるものなんですね。
バラは虫や病気に弱いらしいので、仕方がないのかもしれませんが…。

園内はだいたいこういう感じでありました。
P1000181.jpg

天気が曇りだったので全くパッとしませんね(^^;)。
P1000180.jpg
ちなみに写真に写したのはここだけでしたが、敷地はかなり広いです。
ただ、先にも書いたように高低差があるため階段(しかも土を固めて作った手作りの…)が多く、足の悪い人にはちょっときついかもしれません(スロープも用意してはありますが)。

そんな盛りを過ぎてしまった中でしたが、それでも(比較的)きれいに花を咲かせているバラもありました。
こんなのとか…。
P1000170.jpg

こんなのとか…。
P1000168.jpg

こんなのです。
P1000177.jpg

同じバラでもいろいろな品種があるものなんですね。
青いバラを咲かそうと研究を続けている人がいると以前聞いたことがありましたが、それくらい品種改良が盛んなようです。
同じ色でも微妙に色合いが違っており、観察するとなかなか面白い。

このバラ園を経営されている方はバラを咲かせる名人だそうで、イギリスの品評会だったかで殿堂入りしたというバラがこれだそうです。
P1000183.jpg

黄色っていうか象牙色のバラです。
柔らかい色合いがとても美しく感じました。
その前に、写真がヘボですみませんw
P1000184.jpg

バラの魅力は、このたっぷりした花びらの重なりですよね。
彫刻や絵画のモチーフにもよく取り入れられていますが、なんとなく納得できます。
形は好きなものの、匂いはそれほど好きじゃないのですけどね(^^;)。
P1000185.jpg

時期は過ぎてしまったようで、園内の人出も花も結構寒々しい感じでしたが(^^;)、それでも美しい花が見られて満足でした。
今度は満開の時期に合わせて訪れてみたいです。
…道順も覚えたしな!w



2016-10-07 22:56 | カテゴリ:雑記その他
度々このブログにも登場している、近所にある薬局前のサトちゃんが10月ということでハロウィンバージョンになっていました。

iPhoneで撮影したのですがどうも写真を撮るのが下手くそで、どこか見切れてしまいますね…。
撮影をするなら、もっと慎重に撮った方がいいのかなぁ。


2016-10-06 11:56 | カテゴリ:歴史
先日までの暑さもどこへやら、朝晩は布団をかぶらなければ寒くて寝られないくらいの気候になってきた盛岡です。
秋が日毎に深まりゆくのを身をもって感じるわけでありますが、秋の夜長はやはり読書…ということで、Amazonにて数冊の文庫本を購入。
Amazonの便利なところは、地元の書店で売られていないような書籍でも、場所の遠近を問わずに注文購入できる部分だと思います。
地元の実店舗を完全否定するわけではありませんが、欲しい本が気軽に手に入るというこの「ネット書店」という環境はもっと賞賛されても良い部分ではないでしょうか。
実店舗で欲しい本を注文購入すると、どういうわけか1ヶ月位時間がかかりますし、それなりに手間もかかります。
色々な場所で識者が指摘するように、多々問題もあろうかと思いますけれども、少なくとも幼い頃から欲しい本が地元の店舗になく悔しい思いをしてきた自分のような人間にとっては、ネット通販というシステムは大変ありがたいものです。

ちと話が横に逸れましたが、購入した本は三毛別羆事件を描いた「慟哭の谷」「羆嵐」、現代マタギと言えるハンターが著した羆猟の記録「羆撃ち」、そして「私残記 大村治五平に拠るエトロフ島事件」の4冊(私残記のみ絶版につき古本購入)。
何故かすべて北海道関連の本なのですが、別にこれという意図があって購入したわけでもなく、読みたいものを集めてみたら北海道づくしになってしまった、ということです。
これらを少しずつ読み進めていますが、なかでももっとも興味深いのが「私残記」です。

私残記とは一体なにかというに、江戸時代も後期に差し掛かった頃の南部盛岡藩士・大村治五平(おおむら じごへい)という人が書き著した本です。
その江戸時代も終わりに近づきますと、諸外国の船が日本へ近づいてくるようになりました。
中でももっとも顕著であったのは帝政ロシアで、北海道へ南下して略奪を働いたり、通商条約締結を幕府へ迫って騒ぎになるなど(プチャーチンでしたかゴローニンでしたか)、この時期の日露関係は一触即発の状態になっておりました。
これに頭を痛めた幕府は、この時点で直轄領としていた北海道の警備を、同じ寒冷地である東北諸藩へ押し付ける妙策(?)を打ち上げ、警護の人数とお金を拠出するように東北諸藩へ命じます。
気候変動に依る凶作続きで米が採れず財政が逼迫していた(当時はお米をお金に換えていた)諸藩にとっては大迷惑な話でありますが、幕命には背けません。
我が盛岡藩も10万両の大金を無利子で借用することを条件にその命令に従うこととし、藩士たちを北海道へ派遣しました。
大村治五平も、そんな北海道警護に回された藩士の一人です。

治五平は盛岡藩の砲術師範で、銃砲火薬の専門家。現代で言えば砲兵部隊の隊長兼教官と言ったところです。
加えて剣術と居合術の免許皆伝を若くして得た一級の武人であり、更には達筆で絵画にも秀でる文人でもありました。
いわばスーパーマンみたいな武士なわけですが、31歳の折大病を患って隠居し、その後は病気の治療と趣味に生きてきたという人です。
北海道へ派遣された際には58歳になっていました。現代で言えば58歳なんてまだ若いうちですが、当時の感覚としてはもういい歳の老人です。そんな人がいきなりほとんど開拓の手が入っていない荒野の北海道へ行けとか言われ、精神的にも肉体的にも相当堪えたことは想像に難くありません。
いずれ、この人は函館から海路を用いて択捉島へ渡り、そこに新しくできたシャナという街を警護することになったのです。
ちなみに、この時警護の隊長を担当していた数名の幕臣たちの中に後に有名になる間宮林蔵がおり、また択捉と北海道や本州を物資や手紙の運搬などで結んだのが司馬遼太郎の小説で有名な高田屋嘉兵衛です。
治五平はそこで多くの仲間達(盛岡藩士以外でも同じくして派遣されてきた津軽藩士たちや、下働きをなどをする装丁と言われる人たちも含めます)と生活を続けますが、ある日ロシア人たちが船で攻めてきて、戦闘になります。
これがいわゆる「択捉戦争」です。
勿論、当時最新式の武器で武装したロシア人に日本の武士が敵うはずもなく、日本勢は敗走して山へ逃げ込むのですが、その中で唯一人治五平はロシア人に立ち向かい、捕虜になってしまいます。
その後治五平は開放されますが、江戸表へ送られて幕府より厳しい尋問を受け、その後は盛岡へ移送されて「生きて虜囚の辱めを受けた」として藩からの追求を受けました。
その後は蟄居処分となり幽門の内に悶々として61歳で亡くなった…というのが大方のプロフィールなのですが、この「私残記」はその蟄居中に、治五平が書き残した書物なのです。

私残記は門外不出とされ、子孫の間にこっそり受け継がれてきたといいますが、盛岡の人で直木賞作家の森荘已池という人が(宮沢賢治のマブダチで詩人としても有名)奇縁でこの本を大村家の人間から託され、識者の協力を得て現代語訳し、解説を付けて一冊の本としてまとめました。
それが今回購入した中公文庫の「私残記 大村治五平に拠るエトロフ島事件」という本です。
この本が、すこぶる面白いのです。
エトロフ島事件についての大まかな説明は先のとおりですが、何しろ治五平は事件の当事者であり、実際に捕虜としてロシア船に乗せられた人ですから、記述自体は簡素にまとまっているものの、文章の中には非常なリアリズムがあふれています。
内容はエトロフ島の地図に始まり、当地の情景、どのような産物が採れる、事件の前後における自分や周囲の人間の動向などを記されています。中には、ロシア人の当時の風俗や飲食物などを描いた絵(治五平が描いたものです)もあります。
それらは歴史好きにとっては実に興味深く、当時の生きた人間の姿が垣間見えるため面白いものなのですが、そうした興味とはいささか別の部分で感じるのは、この著述そのものに「なぜ自分がこんな目に遭わねばならなかったのか」という治五平の思いが込められている事実です。
決して、真実を書いて後世に残し伝えようという崇高な使命感ではないのです。
明らかに愚痴であり、無念の思いであり、また怨念にも似たどろどろした感情です。
それは「私残記」というタイトルにも表れているようにも思われます。
自分たちの指揮を執った幕臣たちの横暴と彼らがいかに無能であったか(間宮林蔵を含める)、同じ盛岡藩士でも讒言によって治五平を陥れた奸佞の輩がいたこと、抜け荷という不正に手を染めて恥じることを知らない装丁、限りなく粗暴で残虐なロシア人たち。
そしてそんな人間に従い、その挙句捕虜となり、虚偽の報告や讒言によって卑怯者へ貶められてしまった悔しさ、おめおめと虜囚の身になった自分自身への怒り。
自分では「どうしようもなかったことだ」と半ば諦観を込めて語っている割には、60に近い老武術家のそうしたマイナスの感情の一切がこの本に込められているのを感じ、読後ちょっとやりきれない気持ちになりました。

しかし、治五平がこの怨念に満ちた上下二巻の書物を残しておいてくれたおかげで、現在にいたるまでの日露修好史が完全に補完されたとも言います。
編著者の森荘已池によれば、エトロフ島の歴史については幕府側の記録が曖昧なものしか残されておらず、頼りにするべきはロシア側の資料のみでしたがそれもイマイチ信用性に欠けるため、当時の外務省から日露修好史の編纂を依頼された歴史学者の人は大いに困ったそうですが、この私残記の発表により、パズルのピースが嵌まるように歴史の記録が繋がったとのことで、大いに喜ばれたそうです。
それが事実とすれば、治五平が残した書物によって埋もれかけていた日本の歴史発掘へ大きな貢献がなされたことになるわけで、あの世の治五平も苦笑しつつも喜んだのではないでしょうか。

この本は、予期せぬ大事件に巻き込まれてしまったその当時の人間の心情や択捉島の歴史を知る歴史書としても、極限状態で見せる人間の滑稽で哀れな姿を読み取る人間観察の本としても面白いですし、おそらく第一級の歴史資料となり得るものと思います。
それが幕府の役人ではなく、一介の田舎武士の老人によって書かれたという部分も何やら皮肉めいたものを感じずにはいられません。「史書に史実なし」ともよく言われますが、ある意味それを地で行く本だとも思います。
現在絶版となっていますが、このまま埋もれさせるには絶対にもったいない本です(昭和47年発行ですからね…)。
日露関係が何かと話題に上る昨今だからこそ、再出版されることを切に祈ります。
ちなみにAmazonでは古本を安く購入できますし、図書館へ行けば置いてあるところもあろうかと思われます。
歴史好きの皆さんや北海道の方は是非お手にとって読まれてみてください。







2016-10-06 09:12 | カテゴリ:ご挨拶・告知
皆さんこんにちは。
管理人です。
また更新サボってしまってすみません。
一応、生きております。
せっかく頂いたコメントにも返信できずにおりまして恐縮です。

先日、具合が悪くこれはいよいよ…と思いました、という話をここで記事にしましたけれども、先月末に病院で大きな検査を受けました。
すると、思いもよらず心臓の疾患が発見されたのです。
心臓には二又に別れた電線のような器官があり、これが微弱な電流を流すことによって心臓を拍動させているということなのでありますが、私の場合はこの電線の右側に疾患があるようだとのこと。
これはおそらく先天的なもの…まあ生まれつきというやつで、それが先月の激しい疲労や歯痛などの悪条件が重なり(勿論一番の原因は年齢から来る肉体の衰えと長年の不摂生でありましょう)発症したのではないか、ということでした。
今まで心臓の検査は何度かやりましたけれども、全くそのようなことを言われたことがありませんでしたから、それを聞いて非常に驚いたわけです。
驚くなと言われてもこれが驚かずにはいられましょうか。
しかし、なんとなく思い当たる節がなかったわけでもないのです。
時折訪れる妙な背中の痛み、喉を締められるような圧迫感、そんなものを時々感じることがあったのですが、それは全て心臓からくるものだったようです。
更に正確な診断と治療の方針は、今月の終わりに行われる予定の別の大きな検査を受けねばわからないそうです。
まあ、生まれつきのものですと言われてしまえば仕方がないですし、根本的な治療は外科手術とかそういう手段以外では無理でありましょうから、死ぬまで付き合っていかねばならぬ疾患ということになるでしょう。
そういうことは頭では分かっているのですけれど、やはりハイそうですかとすんなり受け入れるには人間としての修行が足りぬのです。
このところは鬱々として何事も楽しめず、ブログやTwitterも放置していた次第であります。

しかし、色々と考え悩んだところで病気(つか、生まれつきと言うなら病気とは言えないのでしょうねこれは…)がよくなるわけではありませんので、自分のペースを維持しつつネットにも復帰しようかと思います。
このブログも、本当は閉めようかとも考えたのですけれども、せっかく何年も続けて参ったわけでありますからここで閉めてしまってはもったいないですし、取り留めのない文を書くというのは自分にとっても多少のストレス発散となりますので、継続していくことに決めました。
ただ以前は毎日更新だとか意気込んできましたが、これからは書くことが取り立てて思いつかない場合は、書かないでいく方針とするに致します。
斯様なわけで、更新が遅れる場合も多々ありましょうけれども、皆様には悪しからずご了承いただければと思います。
時々、あいつは今生きてるのかなーと生存確認ついでに覗いていただければ、管理人としてはそれで満足です。

皆様に置かれましても、健康にはくれぐれもご留意くださいませm(_ _)m