2016-11-21 19:31 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)16
江刺兵庫頭重恒のこと

 葛西壱岐守平清重は源頼朝に仕え、奥州奉行として陸奥国へ下向した。陸前国の登米城に住み、五代目の子孫・葛西太郎信詮の次男・江刺次郎信満は、江刺郡の岩谷堂城に住んで宗家に仕えたが、南北朝以降は宗家と別れた。
 応仁の乱(1467)以後は隣郡で戦争が収まるときがなく、宗家の葛西氏は大きく衰えたが、江刺家は周囲を攻略して領地を増やし、天文(1532~1555)の頃、江刺三河守隆行の代になるとその石高は十万石にも達した。隆行の死後は息子・治部少輔隆重が遺領を継ぎ、隣郷を服従させた。

 その息子が江刺兵庫頭重恒である。天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原へ下向し、参陣しなかった者を征伐するとして豊臣秀次に大軍を預けで下向させたが、その討伐軍が二本松まで到着したとの噂を聞いた重恒は大いに驚き、城を捨てて逃走した。その後は閉伊郡の乙茂村に身を潜めたが、家臣の三ケ尻加賀垣逢は主家の没落を歎き、浅野弾正少弼長政が下向した際、主家の再興を嘆願した。長政はこれに同情して南部信直へ相談したので、江刺兵庫重恒は南部家に召し抱えられて二千石を与えられ、新掘城に居住した。禄高の内三百石は三ケ尻に給せられた。

 重恒の長男・彦三郎重俊は、天正十九年(1591)父に先立って亡くなったため、次男の彦四郎重隆が家督を継ぎ、名前を兵庫と改めたが、慶長七年(1602)に亡くなった。
 三代目の江刺長作隆直は岩崎一揆討伐に従軍して戦功があり、安俵のうちの土沢城へ移って、千五百石を領した。元和九年(1624)に京都で亡くなった。
 四代目の江刺勘解由春隆は、初名を市十郎といい。寛永十八年(1642)に亡くなった。弟の江刺助之進隆次は分地して二百石を領した。
 五代目は江刺勘兵衛長房で、初名を兵十郎といった

<江刺一族や家臣で南部家へ召し抱えられた人々>

口内帯刀隆朝     (一族。信直に仕えて五百二十四石。花巻に住む)
口内彦次郎重幹    (帯刀の子。三戸に住み二百石。家名断絶)
人首平右衛門恒輝   (甚太郎の子。浪人となる)
人首平十郎盛恒    (一族。信直に仕えて百石)
人首甚太郎恒冨    (平十郎の子。七十石。家禄没収)
人首平八郎恒茂    (甚太郎の仁安。八戸へ赴く)
栃内勾当慶都     (支族。盲人であった。没落後は遠野の栃内村に潜伏した)
栃内小左衛門重廣   (勾当の子。利直に仕えて百石)
栃内小左衛門重任   (小左衛門の子)
松田検校印都吉高   (江刺の一族・江刺主膳の次男。盲人であった。閉伊那の小友村に身を潜めたあと京都へ出て、一條通りに住んだという。慶安三年{1651}に亡くなった)
松田清左衛門吉勝   (検校の子。重直に仕えて七十石。その後五十石を加増された)
松田清右衛門吉政   (吉勝の子)
松田清左衛門吉智   (吉政の子。百八十石)
三ケ尻加賀恒逢    (江刺の支族で長臣である。忠義の人。浅野長政に訴えて江刺家は信直に仕えることとなった。加賀には三百石が給せられた)
千葉重兵衛恒章    (三ケ尻加賀の子だが、廃嫡された)
三ケ尻弥兵衛吉次   (重兵衛の子。三百石)
三ケ尻弥兵衛吉道   (吉次の子)
高屋四郎左衛門恒延  (江刺の旧臣。源太夫兼網の子孫・高屋左近則政の息子。主家の没落後は遠野広長に仕えたが、その後は利直に仕えて五十石)
高屋三郎左衛門恒宣  (恒延の子。重信に仕えて百石を給したが没収となる。通称は四郎左衛門)
高屋善右衛門恒之   (恒宣の子。通称は四郎左衛門)
高屋伝左衛門恒高   (恒之子。通称は四郎左衛門)
高屋才六則久     (左近則政の弟。利直に仕えて百石)
高屋仁左衛門儀明   (才六の子。通称は六左衛門)
高屋六左衛門吉倚   (仁左衛門の子。通称は長十郎)
高屋八右衛門恒方   (左近則政の三男。浪人。田瀬一揆の際鎮圧軍に化成し、戦功があった)
高屋長五郎吉勝    (八右衛門の子。重信に仕えて五十石。通称は八右衛門)
高屋長左衛門吉当   (長五郎の子)
下河原玄蕃恒忠    (高屋左近則政の弟。柏山伊勢守に仕えたが浪人となる。遠野に住んだが、後に花巻へ来て政直に仕える。黒沢尻村に百石を給された)
下河原利左衛門恒長  (玄蕃の子)
下河原勘右衛門恒光  (利左衛門の子。百五十石)
下河原文次郎恒算   (玄蕃の次男。郡山与力で新田に三十石を給された)
及川武蔵恒明     (下河原玄蕃恒忠の長男。元和元年{1615}利直に仕えて二百石。その後加増されて三百石となるが、致仕{注・碌を返上して浪人となること}した。号を益庵といい、医業をなした)
下川原武右衛門恒元  (武蔵の子。百五十石。通称は弥次右衛門)
下川原武兵衛廣恒   (武右衛門の子。百石。通称は武右衛門)
小田代肥前氏基    (同流。江刺の旧臣。兵庫重恒の家子{注・直臣のこと}。江刺家が知行する領土のうち田瀬村に住み、慶長五年{1600}の田瀬一揆の際には、決死の戦いを見せて一揆救援の伊達勢を敗った)
小田代蔵人恒真    (肥前の子。江刺の臣{盛岡藩士の江刺氏の家来という意味。以下同じ})
小田代兵部恒弘    (蔵人の子。江刺の臣)
小田代備後恒道    (肥前の次男。江刺の臣)
小田代弥兵衛定    (兵部の子。江刺の臣)
小田代久右衛門恒政  (兵部の次男。重信に仕えて二十石。花巻与力)
小田代又右衛門恒次  (久右衛門の子。新田に七十石)
羽黒堂彦市茂道    (江刺支族。主家の没落後は花巻に来て利直に仕えて百石。松斎に従う。花巻に住んだ)
羽黒堂八左衛門正道  (彦市の子。通称は勝右衛門)
松川忠左衛門茂吉   (八左衛門の子)
松川藤四郎恒徳    (八左衛門の次男。新田に百石を給されたが家禄は没収され、家名は断絶した)
鈴木刑部広重     (鈴木三郎重家の子孫。江刺の旧臣。没落後は利直に仕えて二百石。松斎に従い花巻に住んだ。元和二年{}1616)に亡くなった)
鈴木弥五右衛門家元   (刑部の子。家督を継ぐことが出来ず浪人となった)
鈴木弥伝治茂愛    (弥右衛門の子。重直に仕えて四十石)
鈴木次郎右衛門愛次  (弥伝治の子。盛岡に移り五十石を給される)
長坂備中信胤     (千葉家の庶流。長坂城に住み、天文{1532~1555}頃より江刺家に従った。天正十八年(1590)没落し、稗貫郡瀬川村に身を潜める。慶長二年{1597}に亡くなった)
長坂刑部胤方     (備中の子。利直に仕えて百石。松斎に従う)
長坂次郎兵衛胤屋   (刑部の子。実は伊藤小市郎の息子という)
長坂市郎左衛門胤良  (次郎兵衛の子。通称は刑部)
百岡藤左衛門広胤   (備中信胤の次男。江刺の臣)
百岡藤八         (広胤の子。通称は藤左衛門)
太田代宮内清也    (江刺の旧臣・菊池家の末流。太田代村に住み、主家没落後は浪人となる。その後は花巻へ来て、寛永十三年{1637}重直に仕えて百石を給された)
太田代弥平次正也   (宮内の子。五十石)
太田代兵右衛門清邑  (弥平治の子)
太田代兵右衛門吉保  (兵右衛門の子)
鴨澤左馬助恒典    (江刺の旧臣・菊池家の末流。主家没落後は浪人となる。慶長十八年{1614}に花巻に来り仕政直に仕えて十駄を給した。寛永元年{1624}になり家禄没収となる)
鴨繹角兵衛恒充    (左馬助の子。新田に百石。花巻に住む)
鴨澤市太夫恒臺    (角兵衛の子。百五十石。盛岡に移り、角兵衛と名を改める)
鴨澤角兵衛恒作    (恒臺の子。加増分を合わせて二百石を給した。通称は兵右衛門)
鴨澤十兵衛恒篤    (恒充の次男。百五十石。家禄没収となり浪人した)
鴨澤長兵衛恒中    (恒充の三男。百二十五石)
鶯澤杢恒之       (鴨沢家の支族。通称は藤十郎)
菊池半左衛門武長   (江刺の浪人。正保二年{1646}三駄二人扶持で召し抱えられた)
菊池半之丞長則    (半左衛門の子)
菊池金十郎則武    (半左衛門の次男。七駄二人扶持)
猪川式部知宗     (江刺の臣。気仙郡の猪川村に住み、文禄年中{1593~1596}に三戸へ来て利直に仕えて二百石。重直の代になって家禄没収となり、江刺家の家臣となった)
猪川蔵人知清     (式部の子。江刺の家臣)
猪川作兵衛真次    (蔵人の子。江刺の臣)
猪川作之丞展真    (作兵衛の子。重信に仕えて十駄二人扶持)
城彦次郎重能     (江刺の旧臣・城和泉の次男。天正十八年{1590}主家の没落により浪人となる。花巻へ来て隠遁した)
城半右衛門重恒    (彦次郎の子。重直に仕えて百石)
城弥三右衛門義繁   (半右衛門の子。弟へ分地して五十石となる)
城半右衛門義敷    (弥三右衛門の子)
千田茂兵衛元忠    (重信に仕えて二駄二人扶持)

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2016-11-19 18:52 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)15
秋田城介のこと

 安倍貞任の次男・安東次郎高星は、陸奥国津軽郡の藤崎舘に住んだ。高星の八代目の子孫・安東太郎尭恒は、建長二年(1250)鎌倉五代将軍の九条頼嗣に謁見して本領を安堵され、それから四代目の子孫・安東太郎貞季は南朝方の北畠顕家に従軍して戦った。
 貞季の長男・安東太郎盛季は松前に渡って下国(注・半島のことだろうか)に住し、以後は下国氏を称した。次男の安東次郎庶季は室町三代将軍・足利義満に謁見して、応永元年(1394)出羽に出兵し、豪族の秋田城介顕任を討ち滅ぼして秋田に移住した。その後は秋田城介と称して、三戸の南部守行と比内を争いたびたび合戦し、以後数代に及ぶ確執を作った。

 この九代後の子孫・安東太郎愛季は、たびたび南部信直と戦争した。しかし後に和睦して、信直の姫君を嫡男・忠次郎秀隆の正室とすることにした。愛季は国太郎舜季の息子である。秋田檜山城に住していたが、天正十五年(1587)の春、病気で死んだ。
 家督を継いだ秋田忠次郎季隆は、初名を安東六郎業時といったが、同じ年の秋に亡くなった。子供はなく、正室は三戸へ帰り、以降は檜山御前と言われた。元和六年(1621)七月三日、二戸の福岡城において亡くなった。号は蓮生院といい三戸の長永寺に埋葬した。この人は実は信直の娘ではなく、北主馬秀愛(注・北信愛の次男)の娘であるという。

 秋田家は愛季の弟の安東太郎を家督として、太郎は名前を秋田城介実季と改めた。天正十八年(1590)小田原へ参陣して秀吉に謁見し、旧領五万石安堵された。朝鮮征伐に関しては後方支援へ回され、海は渡らずに済んだ。慶長五年(1600)徳川家康に味方し、最上義光の加勢として出陣したが、小野寺義通が石田三成の味方をして挙兵したためこれを攻撃し、城を攻め取った。同七年(1602)常陸国茨城郡の宍戸城五万石に国替えとなり、大坂の陣では冬夏の両戦に参加した。寛永七年(1631)理由があって伊勢国の朝熊へ蟄居させられたが、この際入道して梁空と名を改めた。そのまま配所で亡くなった。
 実季の息子・秋田河内守俊季は寛永八年(1632)に家督継承を許され、正保二年(1646)奥州田村郡の三春城五万五千石に国替えとなった。その息子は安房守盛季である。

 愛季の二男・安東玄蕃英季は、徳川家康に仕えたあと酒井忠勝に仕官した。三男の秋田修理進季勝は宗家に仕える。実季の二男・秋田隼人季次は家康に仕えて五百石。秋田長門守季信は秀忠に仕えた。四男の秋田三平季安は宗家の家来となった。

<秋田一族や臣下の者で、南部家へ召し抱えられた人々>

秋田忠兵衛季邑   (一族。利直に仕えて五百石)
秋田忠兵衛季形   (季邑の子。二百石。八戸へ赴く{注・四代藩主の重信が家督を継ぐ際に家督騒動が起き、10万石の南部藩は幕府の命令によって8万石の盛岡と2万石の八戸とに分割された。この際、八戸藩の家来として配分されたという意味だろう}が、後に帰参した)
秋田右京助方季   (季形の子。子供がなく家名断絶)
湊修理季政     (一族。利直に仕えて五百石)
湊市郎右衛門季武  (修理の子。三百石。八戸へ赴く)
五丁目兵庫親隆   (本姓は三浦氏。利直に仕えて五百石)
八木橋左馬助茂矩  (旧臣・備中守の子。信直に仕えて四十八石)
八木橋孫左衛門茂吉 (左馬助の子。二百石)
八木橋藤十郎武茂  (孫左衛門の子。利康{注・利直の四男}に殉死した)
佐藤小助陣赤     (慶長四年{1599}松斎に仕えて百石)
佐藤権兵衛陣重   (小助の子。十八石七斗)
佐藤重左衛門陣固  (権兵衛の子)
成田源之丞長吉   (鹿角郡荒川村に住む。浪人)
成田平左衛門長知  (源之丞の子。松斎に仕えて百石)
成田兵庫助元喜   (平左衛門の子。一度録を没収されるが、後に二百石を与えられた)
堀内三右衛門正康  (寛永十三年{1637}に召し抱えられた。五十石。花巻に住む)

2016-11-19 00:50 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)14
本堂伊勢守親通のこと

 和賀郡主・和賀式部大輔忠頼の次男・源次郎忠朝、後に改名して式部大輔は、羽後国仙北郡本堂郷に居住して姓を本堂に改めた。
 その五代目の子孫・本堂左兵衛義長は南朝方の北畠顕家に従軍して戦った。六代目の伊勢守親興の時に室町三代将軍の足利義満へ謁見して本領を安堵された。さらにそれから五代目の子孫・伊勢守親通は、天正十八年(1590)小田原へ参陣して豊臣秀吉に謁見し、旧領七千石安堵された。

 その息子・伊勢守親永は慶長五年(1600)徳川家康に属し、最上義光の加勢として羽前国へ出陣した。横手の領主・小野寺遠江守義通は石田三成に味方し、仙北において兵を起こしたが、出羽の諸大名たちは家康の命令によって小野寺勢をを攻撃した。本堂家もこれに加わり、戦功を挙げた。これによって八千石に加増され、常陸国新治郡志筑へ移った。その息子・内蔵助親加、初名・源七郎は江戸幕府の直参となり、交代旗本に列した。親永の弟・本堂源兵衛親生は家康に仕えて五百石を給せられた。

 親永の二男・本堂源太郎親相は、後に源三郎と名を改めた。小野寺義通に一味して、仙北横手城へ篭城したが、落城して浪人となった。慶長八年(1603)南部利直に仕官して三百石を給せられた。その息子・源左衛門親次は弟に知行所を分地したので、二百石となった。弟の木工兵衛茂晴は分地の百石を領した。その弟・儀右衛門親房は南部重直から百俵を給せられた。

 親永の三男・本堂助兵衛親幸は重直に仕えて百俵を給せられたが、一度禄を離れて辞去し再び帰参して、改めて三百石を給せられた。親永の四男・本堂源十郎親寄は戸沢大和守に仕えたという。

2016-11-16 18:56 | カテゴリ:歴史
「奥南落穂集」の意訳文を載せるようになって以来、ブログの来訪者数が順調に減っておりますwww
まあ自己満足、言ってみればせんずりのためにしていることなので、それは覚悟の上です。
それに、興味のない人にとってはホントにどうでもいい内容なので、読んでもつまらないでしょうから、仕方がないのでしょう。
まあ、人が見ないからと言ってやめようとは思いませんから(先にも書きましたが私の自己満足のためにしていることですので)、ひっそりと今後も続けていきます。
北東北の戦国時代にご興味がある方だけお付き合い願えればと思います。



奥南落穂集(意訳)13
羽州仙北小野寺家のこと

 小野寺家は、相模国の住人で波多野家の分流・小野寺神師の子孫である。代々羽後国の仙北郡横手城を居城とし、小野寺土佐守藤原宗貞は隣郷を攻めて領土を広げ、十二万石を領した。

 その息子・遠江守義通は、初名を孫七郎道綱といった。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原の陣へ参陣し、石田三成の口利きにより豊臣秀次へ謁見して、旧領三万石を安堵された。慶長五年(1600)石田三成と図って挙兵し、徳川家康に味方した隣郡の勢力を攻撃した。これにより秋田実季、六郷政乗、本堂親永、仁賀保勝利、滝澤刑部、内越孫太郎、岩屋左兵衛などが横手へ攻め寄せて合戦となったが、義通は不利を悟って籠城した。しかし西軍が関ケ原で敗北したため開城して、領地は没収となり、浪人となった。

 長男の右京大夫秀詮は文禄二年(1594)に亡くなった。次男の孫七郎網元は父と同じく浪人となり、慶長八年(1603)に亡くなった。三男の源太郎綱吉は浪人したのち、徳川秀忠に召し出されて百五十俵を給された。四男の覚兵衛道貞も浪人したが、兄の源太郎と同様に召し出されて百俵を給された。
 嫡孫の小野寺金兵衛道相は、最初土佐守と名乗っていた。没落後は花巻まで逃れて身を隠していたが、南部利直が召し出して客分とし、施しとして二百五十駄を与えた。明暦年中(1655~1657)に亡くなった。

その息子・助之丞道重は家督を継げずに浪人して、名前を孫左衛門に改めた。後に花巻御給人となって二人扶持を与えられた。この家には、北条時宗からの令状、足利義満の安堵書、足利義教の軍勢の催促状、豊臣秀吉からの安堵書、石田三成の書簡などが残されていたものの、文化(1804~1818)の頃に小野寺氏が困窮したため、それらの品を人に預けて幾ばくかの金銭と引き換えにした。ところが、預り人の小森林氏が紛失したと言ったため手元へ戻らず、それきりとなってしまった。それらの品は現在、小野寺氏(注・別系統の小野寺氏ということだろう)を名乗るものが所有しているそうだ。

 義通の弟・小野寺六郎左衛門春昌は、没落後は花巻へ逃走して潜伏し、慶長八年(1603)になって利直に仕え、三百石を給せられた。その息子の源五兵衛春清は、名前を六郎右衛門と改め、重直の代に百石となる。
 同流の者には一関に住んだ者や、小野寺惣右衛門義久と言う浪人がいて、この人は遠野の東禅寺に食客として住み込んでいた。利直に面会して、政直に仕えることとなり、五十石を給されて花巻に住んだ。
 小野寺家の家来たちの多くも南部家に召し抱えられ、彼らのことを「仙北衆」と呼んだ。
  
<小野寺家の臣下たち>
                                                                         
中野造酒允秀政   (小野寺の旧臣・中野主殿高勝の息子。主家没落の後三戸へ来て、利直に仕えて五百石を給せられた)
中野造酒政之    (秀政の息子。通称は右馬助。二百五十石。子孫は家名断絶となる)
中野藤内政達    (秀政の次男。五十石。寛文期{1661~1672}に断絶した)
中野幸助政茂    (秀政の三男。七十石。一度家禄を没収されたが、その後改めて召し抱えとなる)
佐藤勘兵衛徳道   (小野寺の旧臣・佐藤近江守綱信の息子。主家の没落後、花巻へ来て石井伊賀守に仕官した。政直の命令により石鳥谷新宿の取立奉行に任じられた。百五十石)
佐藤甚之丞道房   (勘兵衛の子。家禄没収となるが 慶安期{1648~1651}に新田へ百石を給せられた)
佐藤甚之丞道英   (道房の息子。行信に仕えて二百石)
佐藤甚之丞道治   (道英の子)
佐藤宇右衛門道朝  (道房の次男。重信に仕えて五駄三人扶持)
佐藤勘太夫道賢   (道房の三男。新田に六十五石)
新田目金右衛門道景 (道房の四男。新田に五十石)
藤技宮内道定    (道房の五男。行信に仕えて千石)
新田目作内通秀   (道房の六男。重信に仕えて百石)
佐藤弥次兵衛意勝  (宇右衛門の長男。別に召し出されて五駄二人扶持)
佐藤長右衛門次勝  (同流である対馬次義の息子。重直に仕えて五十七石)
佐藤長右衛門次茂  (次勝の子。 家禄没収となるが、改めて新田に五十石を給せられた)
佐藤友右衛門次吉  (次茂の子)
小田嶋藤五郎政隆  (三戸へ来て信直に仕え、九戸一揆鎮圧に功があり百石を給せられる)
小田嶋弥五兵衛政方 (藤五郎の子。家禄没収となった後、改めて十二石を給せられる)
小田嶋藤五郎豊政  ‘弥五兵衛の子孫。三戸御給人)
松橋伝之丞宗親   (小野寺の旧臣・小羽仁弾正宗重の息子。主家の没落後花巻に来て、松斎に仕えて八十五石。後に政直から加増され百石となる)
松橋与三郎宗友   (傳之丞の子)
松橋又助宗昌    (与三郎の子)
松橋左兵衛正三   (又助の子)
大石喜右衛門良方  (小野寺の旧臣・大石四郎左衛門良忠の息子。慶長五年{1600}に三戸へ来て利直に仕えて五十石。子がなかったので家名断絶となる)
大石九助良勝    (喜右衛門の弟。利直に仕えて二十駄。家名断絶)
大石仁兵衛方基   (喜右衛門の弟。十七駄三人扶持。家名断絶)
大石金右衛門良道  (仁兵衛の次男。行信に仕えて五駄二人扶持)
白岩石見秀時    (小野寺の旧臣・白岩備後秀朝の息子。慶長五年三戸に来て、利直に仕えて五十石)
白岩嘉兵衛秀貴   (石見の子。四駄二人扶持)
白岩嘉兵衛敏秀   (秀貴の子。家督が継げず浪人となる)
白岩嘉兵衛秀房   (敏秀の子。御徒)
山口伊予秀政    (小野寺の旧臣・山口新六重邦の息子。慶長六年{1601}利直に仕えて二十駄十人扶持を給したが家禄没収となる。その後八戸弥六郎{注・南部家筆頭家老}に仕えたが、禄を辞して浪人した)
山口新之丞政種   (伊予の子。浪人)
山口善右衛門政義  (新之丞の子。毛馬内氏に仕える)
山口半九郎義正   (伊予の弟。八十石。出家して家禄没収となる)
石川圓兵衛正連   (仙北の士。号は圓斎。松斎に仕えて五十石)
石川圓兵衛正次   (圓兵衛の子。通称は兵九郎。三駄二人扶持)
石川理右衛門正貞  (正次の子)
亀田十兵衛元重   (仙北の士。信直に仕えて三十石)

<元・戸沢家の家臣で南部家へ仕えた人々>

角舘右京盛元     (信直に仕えて三十石)
角舘六右衛門盛重  (右京の子。家禄没収の上、追放された)
角館六兵衛盛清   (六右衛門の子。六駄二人扶持) 
宮野与左衛門朝明  (政直に仕えて五十石。花巻に住む)
宮野与左衛門朝次  (朝明の子。通称・十次郎)
宮野与左衛門朝堅  (朝次の子)
生内和泉信真     (文禄年中{1592~1596}に福岡へ来て、利直に仕えて百石)
生内与五右衛門吉遠  (和泉の子。家禄没収となるも、新田に二十五石を給せられる)
生内与右五衛門吉春  (吉遠の子。足高をあわせて百石。家禄没収となる)


2016-11-16 00:09 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)12
雫石戸沢家住居のこと

 記録によれば、光孝天皇より平氏の平兵部大輔兼盛が陸奥国岩手郡滴石庄を賜るとあり、その頃からそこへ住んだものであろうか。また、源頼朝が兼盛の十一代目の子孫・飛騨守衛盛に滴石庄を与えたともあるが、これは頼朝から所領を安堵されたということなのであろうか。
 いずれ、兼盛の子孫はその後代々雫石の戸沢舘に住んで戸沢氏を称し、戸沢飛騨守氏盛は元弘の乱(1333)で南朝方の北畠顕家に従軍した。

 応仁の乱(1467)後諸国は争乱したが、戸沢氏も羽後国へ兵を出し、山本郡の北浦城を乗っ取って雫石からここへ移住した。衡盛の十八代目の子孫は戸沢飛弾守道盛といった。
 その息子は治郎大輔盛安といい、天正十八年(1590)小田原へ参陣して秀吉に謁見し、四万四千三百石を安堵されたが、その後すぐに亡くなった。

 実弟が家督を継ぎ、平九郎光盛と名乗った。十九年(1591)同郡の角舘城へ移る。文禄元年(1592)朝鮮出兵に伴って肥前名護屋へ出陣したが、播磨国の塩屋において急死した。
 盛安の弟が家督を継いで、右京亮政盛と名乗った。初名は太郎五郎という。常陸松岡城に移り(注・豊臣政権による領知の配置替え)四万石を給される。関ケ原や大坂の陣では後方部隊に配置された。元和八年(1623)羽前国最上郡新庄城六万石に移り(注・江戸幕府による領知の配置換え)、新田の八千二百石を加増された。

 雫石には一族が残りそのまま住居していたが、志和の斯波家によって領地のほとんどを掠め取られてしまった。戸沢村には手塚左京進という一族の者がいたが、天正十四年(1586)南部信直によって滅ぼされ、雫石戸沢家の血筋は絶えた。
 戸沢支族に長山惣右衛門という者がいた。その子・忠左衛門房金は土川家の名跡を継ぎ、一家を興した。

(注・家臣団の名簿は記されていない)


2016-11-15 15:44 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)11
浄法寺家の次第

 畠山庄司次郎重忠の三男は出家して僧侶になり、大夫房阿闍梨重慶と名乗って陸奥国二戸郡浄法寺に住んだが、父の重忠は讒訴により謀反を疑われ、攻めらて討死した。
 重慶と二人の兄はともに憤り、兵を起こすべく計画を練ったがこれが露見してしまい、鎌倉幕府は長沼五郎宗政を討手に任じて奥州へ遣わした。これにより重慶は誅殺されたが、幼かった息子は討手を逃れて民間に身を隠し、、後に浄法寺太郎重基と名乗って浄法寺とその近村を支配し、やがて一家をなすようになった。

 浄法寺家は三戸の南部守行に応永(1394~1427)の頃より従って軍功を挙げた。信直の代には五千石の大禄をを領して、浄法寺修理重安は九戸一揆鎮圧で功績があった。後に修理は名を帯刀と改めた。
 その息子・修理重好は利直に仕えて二千石を与えられた。和賀の岩崎一揆征伐に加わったが、慶長八年(1603)理由あって家禄没収となり、寛永四年(1627)に亡くなった。
 その息子・浄法寺内蔵丞は浪人し、名前を松岡八左衛門好忠と改めた。好忠は叔父の藤右衛門正吉の嘆願により召し抱えられ、和賀郡藤根村に二百石を与えられた。これは明暦二年(1656)のことである。

 帯刀重安の次男・松岡藤右衛門正吉は、最初は覚助と名乗っていた。兄の重好が家禄没収処分とされた際に浪人し、逃亡して秋田へ落ち延びたが、その後帰参した。利直に仕えて二百石を給せられた。和賀郡藤根村に新田を開くことを藩へ願出て、宗家である甥の八左衛門好忠に二百石、弟の市兵衛忠賀へ百五十石を配分してもらい、三代藩主・重直の御用人や御加判役などを勤めて禄高を加増され、合わせて三百石となった。また鹿角郡や二戸郡にも新田開発を願い出て、一族や臣下筋の者へ配分した。寛文五年(1666)八十五歳で亡くなった。
 その息子の藤右衛門美成は、初名を覚右衛門といった。

<一族ならびに臣下の者たち>

松岡尾張        (浄法寺松岡に住んだ庶流とあるが、いつ頃分流したのかは不明。信直に仕えて三百石。利直の代になって岩崎一揆鎮圧へ従兵するが、家禄没収となった)
松岡助四郎      (尾張の子。喧嘩によって死亡)
松岡惣左衛門     (尾張の次男。浪人)
松岡七右衛門     (惣左衛門の子。松斎に仕えて五十石)
松岡民部政興     (浄法寺の支族。分流年度は不明。長男の越前は五十石を給せられたが、重直の代に没収となる)
松岡内蔵助政成    (民部の子。政直に仕えて五十石)
松岡武兵衛政体    (内蔵助の子。通称は蔵人)
松岡万三郎政供    (内蔵助の次男。新田に六十石)
太田源四郎忠族    (畠山重忠の弟・長野六郎重宗の子孫。十六代目の大串新六郎重範の代に浄法寺に移住し、信直に仕えた。鹿角郡の柴内で討死)
太田源四郎忠能    (忠族の子。利直に仕えて百七十石)
太田源兵衛忠則    (忠能の子。家禄没収) 
太田源太夫忠継    (忠則の次男。重信に仕えて百石)
駒ヶ嶺内膳保忠    (内膳の子)
駒ヶ嶺四郎太夫忠武
駒ヶ嶺治郎忠則    (四郎太夫の子。七十石)
吉田右近忠近     (駒ヶ嶺忠武の三男。利直に仕えて二百石)
吉田作七忠行     (右近の子。家禄没収)
田山八兵衛忠旦    (同流。五十石)
西舘将監忠珍     (浄法寺の分流。六十八石)
西舘四郎右衛門忠茂  (将監の子。七駄二人扶持)
田山八太夫重防    (八兵衛の子。家禄没収)
五日市兵庫忠教    (同流。二百石)
五日市左近忠岩    (兵庫の子。五十石)
有居忠兵衛
大森十太夫忠善    (同流)
大森弥兵衛忠今    (十大夫の子)
大森庄五郎忠安    (忠今の子。新田に百石)
畠山左馬助
畠山孫七忠保
中川原小兵衛忠有   (孫七の子。三十五石)
畠山善蔵正和     (同流。七戸に住んだ)
駒ヶ嶺喜成正国    (正和の子。七戸に住んだ)
駒ヶ嶺善蔵正勝    (正国の子)
畠山甚兵衛光元    (同流。七戸に住んだ)
畠山治右衛門光成
浦田久六光正      (治右衛門の子。七戸に住んだ)
杉村六左衛門光寛   (浄法寺杉村に住んだ。斎藤吉之丞の息子。重直の代になって鷹匠として召し抱えられ五駄二人扶持)
杉村六郎右衛門光福  (六左衛門の子)
杉村六左衛門光昌   (六郎右衛門の子)
杉村次郎右衛門吉矩  (光寛の次男。五十石)
野続甚五郎久業    (浄法寺の旧臣。主家が家禄没収となったのち浪人したが、重直に召し出されて三駄二人扶持となる)
野続喜膳久徳     (甚五郎の子。家禄没収)
野続慶卜一久     (喜膳の子。五人扶持)
野続源内一光     (一久の子。四駄二人扶持)
松岡藤右衛門正吉   
駒ヶ嶺兵右衛門正家  (福岡与力。五十七石)
駒ヶ嶺兵左衛門義利  (正家の息子。花輪御給人)
駒ヶ嶺武兵衛好忠   (正家の次男。七駄二人扶持)
大森七右衛門盛常    (福岡与力。九十石)
大森五郎右衛門盛定  (七右衛門の子。御給人)
大森甚右衛門盛秀   (五郎右衛門の子)
大森助十郎盛重     (毛馬内与力。六十二石)
大森利兵衛盛光    (助十郎の子)
大森助之丞忠時     (福岡与力。三十石)
佐藤助左衛門正良    (福岡与力。八十石)
佐藤庄左衛門良正   (助左衛門の子)
佐藤庄左衛門近良   (良正の子。御給人)
佐藤庄兵衛政常    (正良の次男。福岡御給人。十五石)
佐藤専右衛門正道   (近良の二男。御給人。五十石)
佐藤庄之助正房    (正長の三男。浪人)
安ケ平喜右衛門義重   (福岡与力。七十石)
安ケ平喜右衛門義範
安ケ平善右衛門義配  (義範の子)
関与平治定政     (福岡与力。九十石)
関与八郎定久     (定政の子)
関七之助定?     (定久の子。{注・?=日冠に高})

2016-11-14 17:37 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)10
鹿角郡の次第

 文治五年(1189)源頼朝の奥州征伐の際の記録に、藤原泰衛の従兵に鹿角近作と言う者の名があって大木戸において討死したとあるのだが、一体どのような人物であったのかは不明である。 
 奥州征伐の軍功により、源頼朝は甲斐源氏の武田一族に連なる浅利与一義遠を鹿角郡の地頭職へ任じた。その息子・浅利六郎知義の代になって任地へ下向し、鹿角に住むようになった。その三代目は浅利太郎義邦といった。

 応永(1394~1397)の頃になると、国人や郷士などがみな一家をなすようになって、浅利家は大いに衰亡し、秋田城介鹿季を頼るようになった。国人たちは南部守行に服従して浅利家と戦い、浅利家はこの戦いに敗れて秋田に逃れ、そのまま秋田家の家来となった。それから秋田と南部は、鹿角と隣接地の出羽国比内地方を争うようになり、しばしば衝突した。

 南部家の一門衆である一戸家の分流・太郎左衛門正久は鹿角郡の長牛村に住み、姓を長牛(読み・ナゴシ)に改めた。その息子を長牛弥次右衛門政義という。
 永禄八年(1565)秋田城介友季が軍を率いて襲来し、鹿角衆にも内応する者が出たため、政義は息子の縫殿助友義とともに防戦した。しかし戦いに利なく、次男の与九郎政武は討死してしまい、政義父子は三戸へ逃亡した。
 これによって桜庭安房守光康が鹿角へ向かうこととなったので、秋田勢は進退極まってしまった。光康が鹿角を平定した後、秋田城介愛季の代に至って両家の間に和睦が交わされ、愛季の息子の忠次郎季隆の妻に南部信直の娘を迎える婚姻が成立した。ところが、天正十五年(1587)秋田父子は相次いで亡くなった。愛季の次男・安東太郎実季が家督を継ぎ、鹿角は平和になった。

 慶長六年(1601)大光寺左衛門正親が花輪城代に任じられて鹿角に入った。同十二年(1607)北十左衛門直吉が鹿角奉行に任命されて鹿角入りするが、この時になってはじめて銅(金)山が発見されて、その後花輪城代は中野吉兵衛元康が命じられた。
 同郡の毛馬内には大湯五兵衛昌光、また毛馬内靱負秀範とその息子・毛馬内権之助政次がおり、南部重直の時代に大湯城代は赤尾又兵衛が任じられた。その後は大湯が北九兵衛、毛馬内は桜庭(注・以下は文章が欠けている)

<鹿角衆>

花輪伯耆守親行   (花輪の住人。安保氏の流れを汲み、本姓は在原とも丹治ともいわれる。代々南部家に従って南部晴政に仕えた)
圓子帯刀延親     (花輪親行の子。利直に仕えて三百石)
圓子伯耆定親     (帯刀の子。通称は惣五郎。二百石)
圓子九右衛門儀親   (定親の子。三百石を没収され、七駄二人扶持になる)
花輪次郎種親     (一族)
圓子右馬允光種    (次郎の子。九戸一揆に加担)
圓子金五郎種則    (右馬允の子。百石)
大湯五兵衛昌光    (鹿角郡大湯の住人。本姓は奈良氏。代々南部家に従い、信直に仕えて二千石)
大湯五兵衛昌忠    (昌光の子。通称は彦六)
大湯門之助昌邦    (昌忠の子。正保中{1645~1648}に早世し、家名は断絶した)
大湯彦三郎昌村    (昌吉の子。津軽家に仕える)
大湯四郎左衛門昌次  (昌光の次男。九戸一揆に加担し戦死)
大湯次郎右衛門昌吉  (昌次の子。利直に仕えるも出奔し、津軽へ逃走した)
大湯彦右衛門昌致   (昌次の二男。津軽家に仕えた)
小技指左馬助宗元   (鹿角郡小枝指村の住人。安保氏の流れを汲み本姓を丹治という。代々南部家に従い、小枝指村を領した。晴政に仕えて五百石)
小技指小次郎知宗   (左馬助の子)
小技指又左衛門茂宗  (小次郎の子)
小技指小右衛門宗勝
柴内弥次郎武貞    (鹿角郡の柴内村の郷士。安保氏の流れを汲み本姓は在原。南部家に従い、柴内村を領した。利直公に仕えて岩手郡川又村に移り、百石を支給された)
柴内弥三郎武興    (弥次郎の子。家禄没収)
柴内兵庫親久     (弥次郎の二男。浪人)
柴内又八郎親方    (兵庫の子。政直に仕えて三十石、のち家禄没収)
柴内又七郎親洪    (又八郎の子。御徒)
柴内理左衛門景弥   (又七郎の子。二百石)
柴内平五郎昌武    (兵庫の次男。六駄二人扶持)
柴内与五衛門久就   (鹿角郡の柴内村の郷士。成田氏の流れを汲み本姓は藤原。代々南部家に従い、利直に仕えて故郷に百石を領する)
柴内左次郎久慶    (与五右衛門の子。家禄没収)
柴内作右衛門久充   (与五右衛門の二男。新田に百石)
柴内与五右衛門久親  (作右衛門の子。足高を合せて二百石)
長内弥兵衛昌茂    (鹿角郡の長内村の郷士。成田氏の流れを汲み本姓は藤原。南部家に従い、信直に仕えて二百石。後に家禄没収)
長内弥左衛門昌教   (弥兵衛の子。九戸一揆に加担し、浪人)
長内傅右衛門     (弥兵衛の二男。九戸一揆に加担)
長内庄兵衛      (弥兵衛三男。九戸一揆に加担)
長内弥左衛門昌興   (弥左衛門の子。五駄二人扶持)
長内治兵衛興昌    (昌興の子。重信{注・四代藩主}に仕えて百石)
長内某
大里修理親基     (鹿角郡の大里村の住人。安保氏の流れを汲み、本姓は丹治。代々南部家に従ったが、九戸一気に加担してその頭目の一人となる。落城に際して降参し、三迫において誅殺された)
大里備前親易     (修理の子。浪人。秋田に逃亡)
大里左衛門五郎親房  (備前の子。浪人)
大里助右衛門親棟   (左衛門五郎の子。浪人)
大里主膳武上     (左衛門五郎の二男。政直に仕えて五十石)
大里庄左衛門廣共   (主膳の子。十駄二人扶持)
大里重右衛門廣定   (主膳の二男。御徒)
成田彦右衛門      (信直に仕えて三十五石)
湯瀬宮内         (信直に仕えて百石)
笹木宗右衛門
風張藤七         (利直に仕えて五十石)
折壁主殿
唐牛兵蔵 
原村三十郎

2016-11-12 01:32 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)9
閉伊郡の次第

 大昔から閉伊郡を治めていた閉伊一族の閉伊右衛門太郎武国とその弟・兵衛尉則国は藤原秀衡の家臣で、中田城を居城としていた。
 文治五年(1189)閉伊氏は藤原泰衡に従軍して、源頼朝の奥州討伐軍と戦ったが戦に利あらず、武国の息子・閉伊次郎武芳と、その弟の五郎武保は中田城で討死を遂げた。その子孫はどうなってしまったのか不明である。

 源鎮西八郎為朝の四男に嶋冠者為頼という人がいた。母は藤沢庄司三郎忠重の娘である。
 為朝が流刑にされた伊豆大島で成長し、鎌倉へ来て源頼朝に謁見して、その命令によって佐々木四郎高綱の養子となり、佐々木十郎行光と名を改めた。奥州征伐の後、閉伊郡の半分を地頭職として与えられ、建久元年(1190)に下向して名を閉伊と改め、田鎖城に住んだ。
 その息子の閉伊出羽介家朝の二男・三郎行朝は子孫の者がたいへん多かった。元弘元年(1331)に元弘の乱が勃発すると、一族の中に北畠顕家へ従軍する者が大勢いた。

 応永から永享(1394~1441)の頃になると、閉伊宗家の威信は大きく衰えて、三戸の南部守行が閉伊郡へ攻め入った際には、一族の多くが宗家を離れ、南部家へ味方した。それ以降は一族の支流の者が一家をなして、宗家の命令をまったく聞かなくなった。やがて宗家も没落して、領主から国人(注・土着の豪族。この場合は地侍程度の意味かと思われる)の列にまで零落した。

 天正十八年(1990)豊臣秀吉に参礼しなかった輩は征伐されるとの噂を聞いて、田鎖城主・田鎖遠江守光好の息子・十郎左衛門光重が三戸へ赴いて、南部信直に仕官した。二戸郡に百五十石の禄を与えられ、永く臣下として仕えた。
 その息子・十郎左衛門光吉は和賀郡立花村の番所へ勤務していたが、賊徒のために殺害され、家禄を没収されてしまった。その息子・田鎖庄三郎光金は三人扶持を支給された。
 光好の二男・薩摩重頼は浪人し、閉伊に住んだ。この人には一族や分家が多いそうだ。

<閉伊十郎行光の支族ならびに閉伊衆>

田鎖次郎左衛門光周   (遠江守光好の子。利直に仕えて六十石)
田鎖善九郎義重      (光周の息子)
田鎖次郎右衛門光明   (光周の三男。松平伯耆守綱清に仕えた)
田鎖次郎兵衛光清    (光周の二男。利直に仕えて二百石)
田鎖助太夫政勝     (光清の息子。寛文元年{1661}に自殺した)
田鎖三郎兵衛高勝    (光晴の二男。越前忠昌に仕えたが、後に帰参した)
田鎖庄右衛門吉網    (光好の二男の子孫。利直に仕えて五十石)
田鎖庄助吉晴      (庄右衛門の子)
田鎖庄右衛門吉清    (庄助の子)
田鎖右京光賢      (光好の弟。信直に仕えて百石)
田鎖仁兵衛光親     (右京の子。五十石)
田鎖五郎光剛      (仁兵衛の子。三上才兵衛と決闘して死亡)
佐々木内蔵助義就    (一族。信直に仕えて五十石)
田鎖武右衛門綱茂    (庄三郎の子。新田五十石を与えられる)
田鎖庄三郎義次     (佐々木内蔵助の子。家禄を没収される)
佐々木新四郎      (内蔵助の弟。利直に仕えて百石)
田鎖六兵衛       (新四郎の子。家禄没収となる)
田鎖長次郎光尚     (一族。信直に仕えて五十石)
田鎖長九郎光世     (長次郎の子。勘定方を務め二駄二人扶持)
田中長兵衛高安     (光世の子。鳥見役{注・朝廷や幕府に献上する野鳥の管理や環境保全を行う盛岡藩独特の役職}を務め五駄二人扶持)   
田鎖修理        (一族。信直に仕える)
田鎖甚右衛門      (修理の二男。浪人)
田鎖清右衛門      (修理三男・利直に仕える)
田鎖右近        (修理の子。利直に仕える)
田鎖茂右衛門正陣    (右近の子。五十石)
蟇目茂右衛門正忠    (正陣の子。二百五十石)
田鎖伝右衛門勝吉    (右近の三男。七駄二人扶持)
田鎖勘五郎政興     (伝右衛門の子)
中村金左衛門信則    (田鎖清左衛門の子。二百石)
高浜弥右衛門光継    (信直に仕えて三百石。一揆に加わり家禄没収)
高浜三五郎廣安     (弥右衛門の子。新田に九十石)
高浜弥太夫信廣     (三五郎の子)
和井内三平光積     (一族。信直に仕えて六百石。通称は覚右衛門)
和井内覚左衛門光吉   (三平の子。家禄五十石を没収となった)
和井内覚太夫光安    (三平の二男。六駄二人扶持)
赤前中務忠光      (一族。信直に仕えて二百石)
赤前四郎右衛門義似   (中務の子)
赤前四郎右衛門吉保   (四郎右衛門の子)
大沢与右衛門秀久    (一族。遠野毛に仕えていたが、後に利直へ仕えて二百石)
大沢勘解由久親     (与右衛門の子。五十石)
大沢甚右衛門義業    (久親の子。百石)
大川彦兵衛清茂     (一族。信直に仕えて百五十石)
大川彦兵衛光清     (清茂の子。五十石)
大川彦十郎清峯     (光清の子)
片岸用之助安俊     (一族。信直に仕えて百五十石)
片岸用之助安春     (安俊の子。一度録を辞したが、後に五駄二人扶持で再び召し抱えられた)
片岸庄右衛門安秋    (安春の子)
重茂与十郎義武     (一族。信直に仕えて八十石)
重茂与三左衛門茂国   (与十郎の子。百石)
重茂権十郎義房     (与三左衝門の子。不慮の死を遂げた)
重茂掃部光長      (一族。利直に仕えて五十石。後に家禄没収)
重茂又五郎光季     (掃部の子。浪人)
重茂次郎作綱清
茂市右近光実      (一族。信直に仕えて二百石)
茂市三太夫実福     (右近の子。百三十石)
茂市右近光金      (三太夫の子。君命により桜庭家の養子に入る)
苅屋左衛門       (一族。利直に仕えて二百石)
苅屋越中        (左衛門の子)
苅屋弥一郎親正     (越中の子。家禄没収)
花輪安房為政      (一族。浪人)
花輪内膳正朝      (為政の子。利直に仕える)
花輪八兵衛正矩     (内膳の息子。百石)
花輪十郎親朝      (内膳の二男。通称は七右衛門)
花輪七右衛門政方    (十郎の子。百石)
花輪金蔵政氏      (七右衛門の子。名を七右衛門と改める)
苅屋五兵衛為勝     (内膳の三男。百石)
苅屋長五郎為房     (内膳の四男。浪人)
苅屋源吾為正      (五兵衛の子)
箱石備中義如      (花輪安房の五男。浪人)
箱石嘉右衛門義番    (備中の子。三駄三人扶持)
箱石清左衛門義致    (備中の三男。同心)
田代安芸光陽      (一族。信直に仕えて四百石)
田代治兵衛光恒     (安芸の子。百石)
田代治兵衛光貞     (光恒の子。重直の代に二百石の家禄を没収された)
田代判左衛門致光    (安芸の二男。百八石)
田代甚五右衛門純光   (判左衛門の子)
田代首令為光      (甚五右衛門の子。正徳二年{1712}不慮の死を遂げ、家名は断絶した)
山崎大内蔵親定     (一揆を起こしたが、後に信直へ召し抱えられて百石)
山崎善右衛門親吉    (大内蔵の子)
山崎小五郎親房     (善右衛門の子)
江刈内小左衛門久賀   (一族。浪人。後に新田十七石で召し抱えられた)
江刈内政右衛門久冨   (小左衛門の子)
江刈内左門林久     (政右衛門の子)
小山田越前吉範     (一族。志和と稗貫の両家に仕えた)
小山田越前吉前     (吉範の子。仕利直に仕えて十駄二人扶持)
小山田久左衛門吉行   (吉前の子)
近内長左衛門為如    (一族。信直に仕えて七十右)
近内長右衛門為矩    (長左衛門の子)
近内長之丞光抄長    (右衛門の子。自殺したので家禄が没収された)
荒川平次郎正則     (一族。利直に仕える)
荒川平右衛門盛光    (平次郎の子)
荒川喜藏重則      (平右衛門の子)
釜石新十郎       (一族)
釜石新助        (新十郎の子。利直に仕えて百石)
釜石庄九郎       (新助の子。浪人)
長沢九郎兵衛綱則    (支族。後年召し出された)
長沢七兵衛綱教     (九郎兵衛の子)
長沢三内綱忠      (七兵衛の子)
長沢善太夫吉督     (花輪の分家)
長沢弥五郎安光     (箱石の分家)
長沢八右衛門保幹    (田鎖の分家)
船越伊豫守長行     (小笠原長清の七代目の子孫。閉伊都船越村に住む。船越弥太郎安政の息子)
船越助五郎安国     (長行の子。信直に仕えて九百六十石)
船越弥兵衛安秀     (助五郎の子。三百石)
船越弥兵衛安昌     (安秀の子)
小本土佐守正長     (三浦義明の支族。 閉伊郡小本村へ数代に渡って住み、信直に仕えて百五十石)
小本土佐正衡      (正長の子)
小本助十郎正親     (正衡の子)
小本助兵衛正吉     (正長の二男。百石)
阿部勘助親長     (豊間根村の住人。利直に仕えて五十石)
箱石助左衛門慶備    (勘助の子。百石)
箱石半兵衛長親     (助左衛門の子)
千徳伊予守行重     (南部一門の一戸家の子孫。一戸氏を称し、閉伊衆を服従させる監視役として千徳城に住んだ)
一戸東膳助行実     (行重の息子。刑部左衛門と称した。天正三年に亡くなったが、後継者がなかった)
汗石安芸守長重     (行重の三男。津軽に移住して討死した)
津軽石九郎勝冨     (一戸義富の三男。千徳一族と争い、戦死する)
江繋伯耆正光      (行重の息子。信直に仕えて三百石)
江繋喜左衛門正義    (伯耆の三男。家督を継いで百三十石を与えられた)
八木沢与四郎光興    (伯耆の嫡男。本家とは別に百七十石を与えられ、左馬と名を改める)
八木沢久三郎正興    (伯者の二男。江繋喜左衛門と名乗った。九戸政実の叛乱に加担した)
八木沢金九郎正景    (久三郎の子。五駄二人扶持)
2016-11-11 06:27 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)8
和賀家の次第

 右大将源頼朝の長男・千鶴丸という人は、伊東次郎祐親の娘と頼朝が密通して生まれた子であったため、噂が平家の耳に入ることを恐れた祐親によって由比ヶ浜で殺されたことになっている。しかし実は、密かに纐纈(読み・コウケツ)源六盛房に身柄を預けられて養育されていた。
 頼朝が天下一統を果たした際、盛房はその事実を頼朝へ言上した。北条政子の嫉妬を恐れた頼朝は奥州和賀郡の地頭職を与え、式部大輔忠頼と名を改めさせた。
 忠頼は建久二年(1191)に奥州へ下向し、二子城に住んだ。妻は刈田平左衛門尉時盛の娘である。源六盛房も忠頼に随行し姓を八重樫に改めて、重臣として代々仕えた。刈田氏の子孫は小田嶋と平澤の両家に別れた。

 忠頼の息子は中務大輔忠実といった。次男は羽後国本堂郷に移り、本堂式部大輔忠朝と名乗り、代々本堂郷を領知した。
 三代目の中務大輔忠兼には男子がなく子供は娘が一人いるだけだった。そこで多田三郎義季の三男を婿養子に決め、四代目を継がせた。五代目は和賀御所多田三郎宗忠、六代目は多田太郎宗義、七代目は多田三郎義維という。和賀多田三郎義達は、南朝の北畠顕家に従軍し、戦功を挙げた。
 八代目は多田佐渡守義周、九代目は多田大和守義弼、十代目は多田大和守義篤、十一代目は多田中務大輔義翁、十二代目は多田薩摩守義弥、十三代目は多田右衛門尉義春といった。
 十四代目の多田薩摩守義興は、最初は式部少輔義明と名乗った。天正八年(1580)に亡くなった。
 十五代目の多田薩摩守義興は大和守光教の実弟で、宗家へ養子に入ったものである。天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原征伐のため関東へ下向した際、これまで参礼の無かった輩を征伐すると称し、豊臣秀次に大軍を与えて奥州へ下向させた。その軍が早くも福島あたりにまで到着したと聞いて義興は大いに驚き、本城を打ち捨てて逃亡し、出羽国の仙北郡田沢に身を潜めたが、その年の十月に病死した。妻子や諸臣は各地へ散り散りとなった。
 十六代目の多田又次郎義忠も父と同じく逃走したが、やがて旧臣を二子城に集めて挙兵し、薩摩守と名を改めて、近郷を荒らし回った。そこで同十九年(1591)浅野長政と蒲生氏郷が奥州へ下向し、二子城を包囲した。義忠は防戦するすべもなく、城に火をかけて自殺した。

 その息子・又次郎義実は滅亡の際に城を落ち延びた後、行方不明となった。
 次男の又四郎義武(注・一般には「和賀忠親」の名で知られている)は城を脱出した後仙台へ逃走し、伊達政宗に身を寄せてひそかに加勢を頼み、一揆の首領となって主馬助と名を改めた。
 斯波氏や稗貫氏などの残党を仲間に加えて花巻城を襲撃し、田瀬や土沢、あるいは寺林のあたりでたびたび一揆を起こした。
 慶長五年(1600)に上方で乱が起こり、最上義光の加勢のために南部利直が最上へ向けて出陣すると、主馬助はそれを好機として挙兵し、岩崎の古城に立て籠もって毎日のように近隣を荒らしたので、利直は最上を早々に引上げて岩崎へ出陣した。
 ところが、雪が深くとても合戦をするどころではなかったためいったん兵を収め、翌六年(1601)の春に出馬したところ、今度は和賀川が増水して川を渡れなかった。困惑していると、降将の江釣子周防吉久が先陣を切って川を渡り城へ攻め寄せたので、奮い立った諸軍も競いあって攻撃を開始し、たちまち激戦となった。
 この戦いで寄手の中にも乙部長左衛門吉形、今渕半九郎政慶、岩清水蔵人義国などの戦死者が出たほか、城方には岩崎弥右衛門義彦、同将監、小田島周防守、小原蔵人、筒井又十郎など、加えて伊達政宗が援軍として派遣した鈴木将監、仁井田内膳の諸士、斯波氏の浪人・山王海太郎などが相次いで討死し、城を保ち難くなった一揆勢は城へ火をかけ、散々の体で逃走した。
 主馬助義武も落ち延びて、仙台領の松山に身を潜めた。この事件を徳川家康が聞きつけて伊達政宗の心底を疑ったため、焦った政宗は松山において主馬助を殺害し、その首を家康に献じた。  
 主馬助義武の息子・太郎はまだ幼児であったので庶民の間に身を隠し、成長したのち政宗に仕え、和賀主水義趣と名乗って現在は仙台藩中にいるそうだ。

<和賀一族>

本堂伊勢守親永   (初代二男の子孫。羽州の本堂領主。秀吉より八千石を安堵された。すでに一家をなしていたため、和賀の一揆には加担しなかった)
和賀豊前入道月斎  (黒岩城主。和賀殿の次男で盲人である。その子孫は仙台藩に仕えた)
煤孫下野守治義   (八代目の義周の二男・上野介義秀の六代目の子孫。煤孫館主。初名は助三郎。度々一揆を起こす)
煤孫修理助義甫   (下野の子。松斉に仕えて五十石)
煤孫助三郎隆義   (下野の二男。一揆の頭目の一人)
太田民部少輔義勝  (煤孫の分家。沢内村の太田に住んだ。信直に仕えて八百石)
太田縫殿助久義   (義勝の子。利直に仕えて五百石)
太田小十郎義房   (義勝の二男。父から三百石を分地される)
猿橋五助義弘    (義勝の三男。庶民となったが、三代藩主の時代に召し出された)
岩崎弥右衛門義房  (十二代目の中務少輔義翁の四男・岩崎八郎義縄の三代目の子孫。岩崎一揆の頭目の一人で、慶長六年{1601}落ち延びる途中で討死した)
岩崎弥十郎義高   (義彦の息子。伊達政宗に仕えて七百石)
岩崎弥左衛門義昌  (義彦の二男。通称は六郎。利直に仕えて百石)
岩崎将監        (落城の際に討死した)
岩崎弥八義邦     (義彦の三男)
岩崎兵庫助
岩崎藤四郎
鬼柳伊賀守義邑   (十二代目の中務大輔義翁の五男・鬼柳伊賀守義幹の三代目の子孫。鬼柳舘主)
鬼柳三郎兵衛義敦  (義邑の息子)
鬼柳蔵人義元     (義邑の二男。利直に仕えて百五十石)   
鬼柳弥吉義景     (義邑の三男。利直に仕えて十五石)
鬼柳源四郎
毒沢民部少輔頼一  (十三代目の薩摩守義弥の長男・太郎義一の息子。毒沢舘主)
毒澤伊賀守一忠   (頼一の息子)
毒沢金作一邦    (頼一の二男)

<和賀臣下>

小田島雅楽助親光  (刈田平左衛門時盛の子孫で、和賀家第一の重臣であった。平沢村に住む)
平澤右馬助親久   (親光の息子。政直に仕えて五十石)
平澤隠岐親成    (親光の弟。浪人)
小田嶋小次郎勝親  (親光の弟。浪人。飯豊村に住む)
小田嶋右京親寛   (隠岐の息子。浪人)
小田嶋治郎親治   (小次郎の子。浪人。矢沢村に住む)
小田嶋主殿助親好  
小田嶋周防守
小田嶋内記新邦   (親好の息子)
八重樫美濃守房重  (纐纈源六盛房の子孫。初代以来、代々の重臣である。義興の家老)
八重樫掃部助    (義与の家老)
八重樫丹後守     (一揆の頭目の一人)
小原玄蕃峯行    (旧臣)
小原宮内安尹    (峯行の子。主馬助義武とともに逃走し、松山で殉死した)
小原蔵人        (落城のおり討死)
小原五郎左衛門峯興  (峯行の三男。政直に仕える)
高橋民部少輔吉資  (姓を江釣子氏に改めた)
江釣子周防吉久   (民部の子。政直に仕えて百石)
江釣子助五郎     (松斎に仕えて百石)
江釣子彦右衛門吉遠  (周防の子)
藤根五郎坊吉隆
藤根右近吉重    (五郎坊の子。利直に仕えて百五十石)
立花五郎左衛門勝登
立花主膳勝重    (五郎左衛門の子。信直に仕えて六石)
晴山蔵人慶知
晴山茂兵衛慶素   (蔵人の子)
晴山隼人慶如    (茂兵衛の子。利直に仕えて百石)
鈴木内匠助茂良   (気仙の人。利直に仕えて二百石)
鈴木杢助茂照
長沼兵部景長    (利直に仕えて二百石)
長沼五郎左衛門景貞  (兵部の子)
長沼平十郎貞刻   (兵部の二男)
藤沢左衛門五郎忠清     (利直公に仕えて百五十石)
藤沢左衛門五郎為忠   (忠清の子)
藤沢左内秀為    (忠清の二男)
轟木紀伊入道月斎
轟木兵庫助光尹   (月斎の子)
轟木長左衛門敦久  (月斎の二男。稗貫氏に仕えた後、利直に仕えて七百石)
轟木作兵衛      (長左衛門の子)
轟木源八郎      (光尹の子)
安俵玄蕃       (稗貫の士)
安俵五郎左衛門
成田藤内
成田藤九郎      (一揆の頭目の一人で討死した)
筒井内膳正 
筒井縫殿助      (一揆の頭目の一人)
筒井又十郎      (岩崎で討死)
筒井喜助        (主馬助とともに逃走し、殉死)
岩田堂隠岐守     (稗貫の士)
岩田堂七右衛門   (隠岐の子。利直に仕えて七百石)
岩田堂源左衛門
斎藤九郎右衛門    (一揆の頭目の一人)
斎藤十蔵         (主馬助とともに逃走し、殉死)
佐藤孫市
梅沢伊豆守       (更木村に住む)
梅沢金作
更木主水正
只木下野守
只木五郎左衛門
只木五郎兵衛
昆土佐守             (立花村に住む)
都鳥兵部丞 
都鳥藤内
小鳥崎修理
欠上治部少輔利元       (近江の人)
渕柳五郎左衛門
相去清三郎
千刈田刑部允
千刈田半太夫
願念隠岐守
願念讃岐守
仙人別当浄念坊
妙楽院
川原田伊勢守
川原田主計頭
川原田左衛門尉
蒲田宗現

<稗貫氏の浪人>

根子周防守高純
根子備中守高充
根子孫三郎
根子内蔵助俊吉
根子弾正忠
根子越後守高重
根子忠三郎高成          (慶長五年{1600}花巻城で討死した)
桜 雅楽助
矢澤掃部助
矢沢弥太郎
八重畑美濃守
八重畑刑部入道休信
八重畑又左衛門
八重畑又三郎

<志和の浪人>

多田孫八郎綱俊
多田弥兵衛忠綱
山王海太郎            (岩崎城で討死)
小山田内膳宗隆
小山田孫八
大迫又左衛門
大迫又三郎            (岩崎城で討死)
大迫右近             (たびたび一揆を起こし、人首村に逃走してそこで死んだ)

<遠野の浪人>

阿曾沼四郎広縄
駒木内膳
平倉刑部
宇夫方八郎右衛門
白岩左衛門
畠山五郎八
金沢与五郎
細越与二郎
栃内善兵衛

<伊達政宗から遣わされた援軍>

白石右衛門尉宗玄
鈴木将濫重信           (岩崎で討死)
猪狩伯耆守
仁井田内膳            (岩崎で討死)
母躰周防守
上郡山主水            (政宗の加勢として田瀬一揆に加わる)
藤田右兵衛尉           (政宗の加勢として安俵一揆に加わる)
月舘右京
堀野弥三郎
 
2016-11-10 17:55 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)7
九戸左近将監政実叛逆のこと

 南部家の始祖・三郎光行の五男は九戸五郎行連といい、九戸郡の久慈城を与えられて代々ここに住んでいたが、十二代目の子孫・修理大夫信実入道円心は二戸郡の宮野城へ居を移して、その息子・右京亮信仲は永禄八年(1564)に亡くなった。
 家督は息子の修理が継ぎ、一万石の大禄を得て、名前を左近将監政実と改めた。母は八戸但馬守信長の娘で、妻は四戸甚三郎義時の娘であった。南部晴政に仕えたが、一門衆に名を連ねる大家であるため、その威勢は家中に並ぶものがなかった。

 晴政が亡くなり、そのあとを継いだ晴継もまた早世すると、晴継に子供がなかったため一門の内より後継者を選ぶこととなった。家中には政実が後継者として家督を継ぐだろうと考えるものが多かったが、北尾張信愛が田子九郎を推挙して強引に家督と定め、 永禄八年(1564)八月、九郎は改名して二十六代南部大膳大夫信直と称した。この人の父親は石川左衛門尉高信で、母は一方井刑部の娘である。妻は晴政の姫君であった。

 政実は宗家を継げなかったことがはなはだ面白くなく信直を激しく嫉妬し、手下を集めて叛逆の準備を進めたが、天正元年(1573)になってそれが露見した。すぐさま信直は出兵して政実と合戦し、政実はこれに敗北して降和を願い出たため、しばらくの間領内は平和であった。
 しかし、同十五、六年(1588、1589)ごろに再び手下を集め、領内諸所で一揆を企てはじめた。北では津軽為信、西では秋田実季などがこの一揆に内応してそれぞれ兵を挙げた。三戸城では諸方へ兵を派遣して対応したが、隙を窺っていた九戸一味がこれを好機として各地で乱暴狼藉のふるまいに及んだ。七戸彦三郎家国、久慈備前直治、一戸彦次郎実冨、櫛引河内清長、大湯四郎左衛門昌次、大里修理親基、圓子右馬允光種などが各地で仇をなし、天正十七年より宮野城へ籠城して、南部方との合戦が止む日はないという有様だった。

 天正十八年(1590)、信直は小田原に参陣して豊臣秀吉に謁見したが、その際前田利家と浅野長政を通じて領内の逆徒征伐の援軍を願い出ると、秀吉はこれを大いに許した。
 信直が帰国すると、やがて浅野弾正少弼長政が下向してきて九戸城を包囲した。三戸勢は死力をつくす奮戦をみせ、防戦不可能と判断した九戸方は降参を願い出た。長政は安寧を急ぐあまりにこれを許可し、その後は信直との細かい協議を終えてから京都へ帰っていった。
 しかし九戸党はまたも集結して、十九年(1591)に再び籠城した。信直がこれを秀吉へ訴えると秀吉は激怒して、奥州の逆徒を征伐するとして豊臣秀次に大軍を与え下向させた。討伐軍は陸前国栗原郡の三迫に本陣を置き、先鋒に浅野弾正少弼長政、堀尾帯刀吉晴、蒲生飛弾守氏郷、これに徳川家康の家臣から井伊兵部少輔直政などが加わった。そのほか秀吉の命令によって、隣国より秋田城介実季、小野寺遠江守義道、本堂伊勢守親道、仁賀保兵庫頭勝利、小国大膳亮之影、津軽右京亮為信などが出陣して、姉帯城をはじめとする九戸方の支城を次々に攻め落としたため、九戸の本城・宮野城は裸城となってしまった。
 城は大軍によって厳重に包囲され、城内では死傷者が大量に出て、とても防ぎきれぬと悟った政実は降参を申し出たが、それは一揆の頭目七人以外は女子供や雑兵の命を助け、罪を赦免してくれるならという条件付きであった。
 七人の申し入れに対してそのようにするだろうという回答が得られたため、政実をはじめとした頭目の七人は降伏し、討伐軍の本陣・三迫に連行されていったが、秀次は度々叛逆を企てた不届き者は生かしておけぬとして、栗原郡三迫石越村・大島町において九戸政実を誅殺し、その他の七戸家国、久慈直治、櫛引清長、大湯昌次、大里親基、一戸実富、圓子光種も同じく死刑に処した。
 この処刑場所を土地の人々は岩ケ崎九戸壇と言い習わした。政実の碑名をしたためたのは虎山全嘯とされ、その碑もここに残っている。
 政実の一人息子は落城の際にまだ幼少であったため、四戸入道全閑が懐に隠して落ち延び、江刺郡の正法寺に匿った。成長して堀野三右衛門政信と名乗り江戸に住んだが、胆力がある上頭脳明晰の人物だったため徳川秀忠に召し抱えられ、禄高三千石を与えられたという。

 <政実の一族>

九戸彦九郎実親   (政実の弟で室は南部晴政の娘。初名を彦七政任といった。兄に一味して籠城したが徹底抗戦を主張して、降参する兄を諌めた。戦後ひとり城中に残って戦い、武勇の死を遂げた)
九戸隠岐連尹    (信実の二男・左衛門信尹の息子。落城後は浪人となる。後年、中野修理を訪ねたおり口論となって修理を殺したが、その場において修理の息子・正康に討ち取られた)
九戸杢兵衛尹実   (連尹の弟。 落城後は浪人となる。諸所の一揆でその頭目となり 大崎一揆に加わって蒲生氏郷軍と合戦し、討死した)
中野修理康実    (政実の弟。志和の斯波氏の婿となり、高田弥五郎を称した。後に南部家へ仕えて岩手郡に住し中野と改名。九戸党に入らず信直に仕え、三千五百石)
姉帯与次郎兼政   (一族の刑部兼直の息子。 姉帯城主で千五百石。若年のため二人の叔父が後見した。叔父たちの諫言を用いずに九戸に味方し、宮野城に籠城する。天正十八年討死した)
姉帯大学兼興    (兼政の叔父。九戸の逆心に対して不同意であり、従わなかった。甥・兼政を諫止するも聞き入れられず、兼政は篭城してしまった。兼興は不本意ながらも自ら城へ篭り、武勇の死を遂げた)
姉帯五郎兼信    (兼興の弟。兄と同じく討死した)
小軽米左衛門久俊入道一熈斉  (政実をたびたび諫めたが用いられなかった。のち信直に仕えて三十石)  
江刺家斎藤太久正
小軽米左衛門直連  (久俊の子)
江刺家八郎

<政実の一味ならびに臣下の者たち>

七戸彦三郎家国   (七戸城主・七百石。 頭目の一人で、三迫で誅殺された)
七戸大輔慶高    (彦三郎の弟で浪人)
七戸宮内慶次    (大輔の子。利直に仕える)
七戸伊勢守慶道   (天正十九{1591}年討死した)
七戸左衛門慶通   (伊勢の子で浪人)
七戸縫殿助直次   (伊勢の二男で浪人)
七戸三郎太郎正国  (通称は彦三郎。諸所で一揆を起こした)
七戸将監
七戸与十郎
久慈備前守直治   (久慈城主。 頭目の一人で、三迫で誅殺された)
久慈中務少輔政則  (備前の子。討死した)
久慈主水正政祐   (備前の二男。討死した)
久慈出羽守治光   (備前の弟。落城後は津軽へ逃亡したが、後に帰参する)
久慈九郎治吉    (出羽の子とされるが実は政実の弟。兄を裏切り、信直に仕えた)
久慈孫六治興
久慈修理入道浄衣
久慈修理重房    (浄衣の子)
久慈野助親政    (信直に仕える)
坂本雅楽助仲満   
坂本新立
坂本式部
一戸彦次郎実冨   (頭目の一人で、三迫で誅殺された)
一戸図書助光方   (彦次郎の弟。討死)
一戸信濃守政包   (兵部の弟。兄と甥を殺して出奔し、姓を平舘氏と改めた)
櫛引河内守清長   (櫛引城主。頭目の一人で三迫で誅殺された)
櫛引出雲守興繁   (河内の子。捕虜となり、処刑)
櫛引左馬助清政   (河内の子。討死)
櫛引将監光清    (河内の弟。浪人)
櫛引弥五郎興堅   (出雲守の子。浪人)
櫛引十兵衛清寛   (河内の二男。秋田に逃走)
大湯四郎左衛門昌次 (五兵衛昌忠の弟。頭目の一人で、三迫で誅殺)
大湯次郎左衛門昌吉 (四郎左衛門の子。津軽に逃走)
大湯彦右衛門昌致  (四郎左衛門の二男。津軽に逃走)
大里修理親基    (鹿角に住んだ。頭目の一人で、三迫において誅殺)
大里備前親易    (修理の子。出羽に逃走)
大里左衛門五郎親房 (備前の子。浪人)
圓子右馬允光種   (九戸に住んだ。頭目の一人で、三迫において誅殺)
圓子金十郎邦種   (右馬允の子。浪人)
圓子右馬助種貞   (金十郎の子。浪人)
高橋播磨守     (姉帯城において討死した)
月舘左京亮
月舘右京
岩館彦兵衛     (姉帯城において討死した)
南舘玄蕃
南館甚吉
毘沙門別当西法院  (姉帯城において討死した)
天魔舘源左衛門
天魔舘覚右衛門
根曾利弥五右衛門  (根曽利城において討死した)
古舘小十郎
新舘兵部允
大浦主殿助勝建
大澤帯刀
大森左馬助
大野彦太郎
大野彦六郎
大野弥五郎
中野造酒允正行
中野弾正
中野軍曹
中村七左衛門
中村嘉藤治
中里清左衛門
小鳥谷摂津守
小神弥七郎
小泉又四郎
小田民部允
小林弥左衛門
小間杉小左衛門
小笠原与一郎
上斗米民部
上斗米七郎
上野右衛門佐
上野十郎左衛門
上野民部助
横浜左衛門佐慶則   (横浜に住んだ。七戸の部下。降参して信直に仕える)
野田覚蔵親正     (落城後は浪人したが、赦免されて信直に仕える)
野田権左衛門
野辺地久膳三慶    (横浜の分流。天正十八年二月に亡くなった)
野田靱負親清     (落城後は浪人。赦免されて信直に仕える)
野田庄左衛門
四戸伊豫入道全閑   (政実の息子・亀千代を懐に隠して落ち延び、江刺へ逃亡した)
野田久兵衛      (姉帯城で討死)
野田市之助
四戸中務宗光     (金田一の弟。讒言を受けて城を出、秋田へ逃亡)
平館下総正寿     (一戸信濃の子)
平館兵庫政敏     (一戸信濃の二男)
江繋喜左衛門正興   (閉伊城へ入城し、名を久三郎と改める。信直に仕えた)
平館久左衛門嘉豊   (一戸信濃の三男)
蛇口弥助光種
種市中務丞光徳    (九戸党を裏切って信直に仕えた。六百石)
種市孫左衛門光広   (中務の弟。浪人)
種市与五右衛門光顕  (中務の弟。 天正十九年に討死した)
嶋森安芸守
嶋森内膳正       
工藤権大夫業綱
工藤右馬助業祐
工藤新十郎
工藤右衛門佐直祐
工藤万助幸祐     (鉄砲の達人)
佐藤外記
山根彦右衛門
長内傅右衛門
吉田兵部允
山根彦内
長内弥左衛門
吉田掃部
山内伊八郎
長内庄兵衛
吉田新兵衛
山崎佐十郎
伊保内美濃守
吉田門助
宮山右衛門尉
和井内山三郎
太田与五右衛門
晴山治部允
岩崎弥五郎
福田掃部助
晴山玄蕃
花坂右近
福田権兵衛
泉山右衛門尉師泰
花崎弥三郎
附田甚兵衛
泉山兵部丞
花崎弥十郎
和田覚右衛門
泉山左衛門佐
花松左近
戸田監物
西法寺右衛門
安倍又三郎
津田五郎左衛門
西法寺辰之助
諏訪新右衛門
盛田安芸守
高善寺孫助
袰綿孫平次
知田覚左衛門
奥寺右馬允
鳥谷庄左衛門
田子民部允
二戸一休斎
鳥谷孫助
田子金十郎
二子喜左衛門
新谷孫左衛門
夏井久膳
三上越前守
新舘兵部
夏井弥八郎
三上才太郎
野瀬又右衛門
名久井久膳
三日市越中守
堀野刑部丞
名久井甚兵衛
三国傳助
堀野彦兵衛
名久井虎之助
八木平八
堀野弥三郎
名久井兵右衛門
高家将監
西野甚助
相嶋筑後守
美渡部玄蕃貞継
宮野弥三郎
相嶋左近
樫平伊豫守
新里平馬允
沖平九郎
軽米宇右衛門
樋口与五左衛    (一戸城に篭城して討死した)
東川小左衛門
有戸喜左衛門
白鳥但馬守
穴澤善右衛門
戸伊良監物
戸来喜右衛門

2016-11-10 13:25 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)6
津軽右京太夫為信のこと

 南部家の始祖である南部三郎光行の六男・七戸太郎三郎朝実の子孫に、久慈備前治義という人がいた。その三男・久慈信濃為治には紀伊信長という子がいたが、為信はその息子で、はじめは久慈弥四郎為信と名乗っていた。

 為信は南部晴政に仕えたが、非常に悪賢くまた利口であった。津軽に進出して大浦に住み、大浦右京と名を改め、上にこびへつらいつつ日々勤務に精を出して加増を重ね、石川政信が波岡城代に任ぜられた際には、大光寺左衛門正親とともに補佐役を務めるまでに出世した。
 よく諸士の意見を取り入れ、領民に慈愛を施したため、政信の信頼を集めてその寵臣となったが、密かに大光寺正親を讒言した。政信はこれを信用してしまい、大光寺に反逆の企てがあるとして、為信を討手の大将として差し向け、大光寺城を攻撃した。
 正親は奸臣の手にかかって死ぬのは無念であると思ったものの、不意を撃たれた上に敵は大勢であったため、どうすることもできなかった。
 すると瀧本播磨守や下長抗日向守などの諸臣が、我々が敵を防ぎますから、あなたはひとまず城を脱出して、おのれの無実を三戸城へ訴えなさいと申し出た。正親は彼らの信義にまかせて津軽を脱出し秋田の大舘に身を潜めたが、瀧本・下長杭などはみな討死してしまった。

 その後は為信一人が差配役となって諸事を司り、行丘の北畠家諸臣と厚く交りを結んだ。為信は彼らを扱うのに金や領地などの実益を与えた。その姿には漢(注・中国の)の??(注・文字欠落)に似た趣があった。
 この頃南部家の有力家臣である九戸左近将監政実は、早世した宗家・晴継の後継者は自分だと考えていたが、思いがけず南部信直が後継者に就任したためはなはだ面白くなく、毎日を鬱陶しい思いで過ごしていたが、為信はそこにつけこんで逆意を進め、政実から叛乱の内応の約束を取り付け、九戸一族の久慈備前や櫛引河内などと徒党を組んだ。
 
為信は天正十六年(1588)に石川政信へ毒を盛り、三月十六日ついに毒殺してしまった。このとき、南部領内の方々で九戸一味が一揆を起こしており、三戸城ではその手配りに忙殺されていたため、ひとまず楢山帯刀義実と南右兵衛長勝の両人を波岡城代として津軽へ派遣した。
 しかし為信は城代二人を観察して、楢山は勇猛だが知略がない、南は才知はあるが勇猛さがないと看破した。そこで為信は南にわざと新役法の採用を進め、領民を搾取させて苦しめた。領民は困窮してついに一揆を企てたが、為信はこれを好機として一味を集め、波岡城を急襲した。
 事前の根回しどおり城中の諸臣は大方が為信に降伏したため満足な防戦ができず、三戸城に救援を頼んだが、三戸では九戸一揆にかかりきりだったため援軍を出すことができなかった。
 この戦いで浪岡城は落城し、下館九兵衛、土岐大和介則基、同善兵衛則里、汗石安芸守長重、同右近長定、同縫殿助長供、汗石杢助長降、同源三郎長範などが討死した。楢山帯刀と南右兵衛はからくも脱出し、三戸城に帰還した。
 こうして為信は野望を果たし、諸士に厚く論功行賞を施して、津軽四万五千石を押領したのであった。
 三戸城では九戸に同意・加担して反逆するものが相次いでいたため、津軽にまで兵を出す余裕がなく、歯噛みしてこれを見ているほかなかった。

 天正十八年(1590)九戸政実が宮野城に籠城したため、三戸勢はこれを包囲して攻城し、連日の激戦となった。
 このとき太閤・豊臣秀吉が北条を征伐するとして関東に下向したが、挨拶に参礼しないものは領地没収、征伐されるという噂が流れたため、為信はひそかに京都へ上り、つてをたどって前の関白・近衛前久を頼り、秀吉への口添えを嘆願した。前久はそれを承認し、為信を祖父・尚通のご落胤ということにして、藤原の姓と杏葉牡丹の紋所を与えた。
 為信は前久にしたためてもらった推挙状を持参して小田原の陣所へ行き、秀吉に謁見して津軽郡四万五千石の安堵書を授かり、従五位下右京亮の官位まで授けられて、首尾よく事を成し遂げて帰国の途についた。
 ところが、羽前国酒田のあたりで小田原へ向かう南部信直に行き会ってしまった。このとき、信直は怒って為信を討取れと命じたが、南遠江直兼が諫止したため為信を殺すことができず、為信は無事に帰国することができた。為信の家臣たちは大いに喜び、津軽一郡の百姓はみな彼に服従した。
 同十九年(1591)には秀吉の催促を受けて九戸城攻めに出陣し、文禄年中(1592~1596)には肥前名護屋の本陣まで部下百五十人を率いて参陣し、名を右京大夫と改め、弘前に新しく城を築てここに住んだ。
 慶長五年(1600)には徳川家康に従って関ケ原へ出陣し軍功を挙げ、上州の内二千石を加増となり、合わせて四万七千石の家禄を得た。
 同十二年(1607)十二月五日病死した。享年五十八歳。

<為信は慶長十二年十二月五日、五十八歳をもって京都で病没した。身の丈六尺三寸(注・約190センチ)の巨体を京都六条川原で荼毘に付し、その遺骨は津軽へ持ち帰って岩木川の裾野のあたりの藤代村に津軽山革秀寺を開基して、そこへ埋葬した。法号は瑞祥院殿前五品天室源棟大居士。明治四十二年十一月十七日これを付記する>

 為信の長男・津軽弥五郎信堅は忠義の人で、父の不忠不義をたびたび諫言したが、まったく聞き入れられなかった。おのずから親子関係は悪化し、信堅は出奔して七戸に身を潜め農民となった。その三代目は久慈七兵衛良次といい、南部利信の代に召し出された。寛文五年(1666)五十五石を与えられて召し抱えられ、作右衛門と名を改めた。
 二男の津軽宮内少輔信建は早世した。
 三男の津軽平蔵信牧は名を越中守に改めた。父の遺領を継ぎ、正室は徳川家康の養女(実は松平因幡守康元の女だという)だという。

<津軽家臣>

津軽五郎左衛門信勝  (為信の弟)
津軽友馬助建康    (信勝の弟)
大浦主殿助勝建    (信勝の二男。九戸城に篭城した)
乳井大隅守正清
乳井伊豆守
乳井源左衛門
大道寺隼人正
蓬田太郎右衛門
川井左馬助正式
松田大学助
臺坂勘兵衛
川井左京政弥
兼平美作守顕紹
村山七左衛門
原子平内兵衛
川井筑前守正勝
軽氏三左衛門
工藤久膳祐朝
長嶺七右衛門将輝
長嶺七左衛門将勝
西舘右馬允
森岡主膳
楞尻民部
鶴沼外記
黒澤監物
山下弥右衛門
黒石玄蕃
成田孫三郎
成田次郎五郎
高杉軍曹
山崎孫兵衛
町田嘉助
野呂越後
中畑甚三郎
笹森小次郎
樋口彦五郎
外崎五郎兵衛
三上金大夫
湯口讃岐
大湯次郎右衛門昌吉
大湯彦右衛門昌政
波岡源左衛門親常
棟方太郎八
渡辺左近
奥寺左衛門定正
奥寺右馬助定久   (定正の息子。為信に含むところがあり、 鉄砲で狙撃するが失敗して逃亡した)

2016-11-10 00:17 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)5
津軽のこと

 奥州津軽郡はその昔、神武天皇が東国へ討伐軍を出して大和の長脛彦を滅ぼした際、長脛彦の兄弟の安日彦という勇猛怪力の輩を捕虜として、北海の外浜という場所へ追放したことから始まった。安日彦は自ら外浜を開拓し、人が住めるようにした。
 安日彦の数代目の子孫・安大夫頼時は、永承年中(1046~1052)奥六郡の主となり、朝廷に反乱を起こして源頼義の追討を受けたが、天喜年中(1053~1058)、流れ矢に当たって死んだ。その息子の貞任も兵を起こして大いに征討軍と合戦したが、康平五年(1063)に滅亡した。

 貞任の二男は名前を万千代といい、父が死んだ当時まだ二歳の子供であった。彼は先祖ゆかりの外浜に身を隠し、後に安東浦の藤崎城に住んで安東次郎高星と名乗った。
 その八代目の子孫・安東太郎尭恒は蝦夷の叛乱を鎮圧した功績により、建長二年(1250)鎌倉幕府の五代将軍・九条頼嗣に謁見し、初めて津軽一郡の安堵状を受け取ることができた。
 その三代目の子孫・安東又太郎尭勢は、嘉暦二年(1327)に争論を発端として叔父の次郎季長と合戦をするにいたり、季長はこれに敗北して岩手へ逃亡した。

 尭勢の息子・孫太郎尭季は南朝方に味方して戦ったが、建武元年(1331)に討死した。その弟・太郎貞季は北畠顕家に従軍して軍功を挙げた。
 その長男は安東太郎盛季といい下国(注・「延喜式」に拠る半島国のこと。ここでは津軽半島のことを差しているのだろうか?)に住んだが、その子孫は松前へ渡った。
 二男の次郎庶季は応永元年(1394)征夷大将軍・足利義満に謁見したのちに羽後国秋田湊に住居を移し、豪族の秋田城介顕任を攻撃して滅亡させ、その領地を併呑した。それをもって秋田城介庶季と名を改めた。
 元弘三年(1334)北畠顕家が陸奥国司でいる時に、津軽郡のうち大叔父・安東次郎季長の領地が欠所(注・無統治状態のこと)となっていることを理由にこれを領地に加えることを認められた。
 (注・記述の年代が大きく前後しているため、話に整合性が薄い)

 暦応二年(1339)北畠顕家が和泉国において討死をとげると、南朝方の勢いは大いに衰えた。顕家の息子は津軽郡行丘に逃れ、そこに潜伏した。正平年中(1346~1369)になって後村上天皇へ出仕し、大納言使別当顕成と称して行丘城に住み、その二代目は行丘御所親成と名乗ったが、官位は与えられなかった。三代目は後小松天皇の応永元年(1394)に勅命を受けて、大納言右兵衛督忠貞と名乗り、一万千二百町の地を領地として安堵された。四代目は左中将左衛門督俊具といった。五代目は式部卿具運といい、正室は南部三郎の娘であった。

 応仁の乱(1467)が勃発すると、諸国は騒乱状態となった。津軽も各所で一揆が勃発し世情は穏やかならず、南部一族の田子光康が津軽郡の堤ケ浦に移住して堤弾正左衛門と名乗り、一揆を鎮圧した。
 南部家の十九代目・彦次郎通継の三男・彦九即行実は、実は二十代目当主・信時の四男で、武略の人であったが、明応九年(1501)に亡くなった。息子の彦四郎経行は、津軽の藤崎堤ケ浦にある二階堂城を居城としたが、その息子・遠江守景行は大光寺城に居を移し大光寺と姓を改めた。その次が大光寺左衛門政(注・文字欠落)、その三男が大光寺弾正政栄、そしてその息子が左衛門正親である。津軽の民は大いに服従した。

 行丘御所六代目の大納言具永の時代になると、その武威は目に見えて衰えはじめ、家中も上士と下士が不和になり、裏切りや反逆を企む家来が増えていた。天文年中(1532~1555)、田子高信が津軽へ進出し石川城を居城として、石川左衛門尉高信と改名した。
 高信は大光寺一族などと協議して領民をよく統治し慰撫したため、行丘の家臣たちも次々に服従しはじめた。この年、具永が亡くなった。
 七代目を継いだ行丘御所具家は暗愚な上に疑り深い性格であったため、家臣たちには逆心を抱く者が多かった。忠義の者がこれを嘆いて諫言してもまったく取り合わず、驕奢放逸の日々を送り下々をないがしろにしたので、家臣たちは主君を見放した。すると叛臣がこの機に乗じて叛乱を起こし天正六年(1583)七月二十日、主君を押し込め密かに暗殺した。その息子は行丘太郎具愛といったが、この変事に際して逃走し行方不明となった。
 石川高信は石川城において天正八年(1581)に亡くなったが、大光寺一族を始めとする諸臣は後継者の彦次郎政信を補佐し、加えて北畠の臣下をも服従させたので、津軽はおのずから南部家の領地となり、政信は行丘城に居城を移した。

 北畠の一族には具運の二男・左純門顕忠、その息子・北畠左衛門顕則がいて石川高信に仕えたが、天正四年(1577)に討死した。その子・波岡勘解由顕と更にその息子・佐渡顕好は天正十八年(1590)に南部信直に仕えた。
 北畠顕家の息子・顕成の三男の子孫である波岡帯刀左衛門常業の息子・伊勢顕官は、天正十八年信直に仕えたが、二男の源左衛門親官は津軽為信に仕えた。
 俊具の二男・三代中務具氏は津軽を立ち退いて閉伊郡の袰綿村に住み、その息子は袰綿中務直顕と名乗って、天正十八年に信直に仕えた。
 忠具の四代目の子孫・兼平美作顕紹は主家に叛いて高信に仕え、さらに高信を裏切って津軽の臣となった。その養子である平八郎顕光は波岡顕元の二男であったため、兄と同じく為信と戦って戦死した。その際、平八郎は息子・喜右衛門家長を秋田の鹿角へ逃し、後に家永は三戸において南部家へ仕えた。

<北畠の臣下>

多田伊賀行義
多田四郎左衛門就義  (行義の子)
多田源三郎     (就義の子)
水渓右京綱親    (天正七年{1580}に討死した)
平賀肥後守
平賀石見守
三宅藤太左衛門高重 (忠臣。主君を諌めたが、勘気に触れ家禄を没収された。 主家の滅亡に際して戦死)
江流馬九郎左衛門
今井弥五郎
品川右衛門大夫宗祐 (天正四年{1577}に死んだ)
澤里上野介政忠
澤里十郎左衛門政隆
藤崎玄蕃      (天正七年に逆臣と戦い、戦死)
藤崎七郎
藤崎嘉助
金木弾正      (奸臣・鼻和田と口論し、切腹した)
高杉将監吉徳
高杉新兵衛吉方
大内出雲正延    (天正七年に逆臣と戦って戦死)
長嶺左馬助将連   (逆臣と戦うも不利を悟り、鹿角に逃亡した)
長嶺七右衛門将勝
川井紀伊守
川井左京政弥
外濱但馬守堅重
工藤主計助
猿賀彦右衛門宣次
外濱半九郎堅次
唐牛兵蔵      (主家が滅亡したのち、鹿角へ逃亡)
和田重助綱高   (主家が滅亡して浪人となる)
石渡修理
古舘右衛門
相川掃部
杉生大蔵
鼻和田宮内少輔  (奸臣の筆頭。主家が亡びたあと出奔した)
広戸備中
西野内匠

<石川高信に服従した人>

瀧本播摩守頼喜  (高信に仕えた。大光寺一族とともに津軽為信と戦い、戦死した)
下舘九兵衛為信  (津軽為信の奸計によって毒殺される)
土岐大和介則基  (津軽為信と戦って討死した。享年七十六歳)
下根杭日向守鎮元 (瀧本播磨守頼喜と同じく戦死)
猿賀喜斉宣勝
土岐善兵衛則重  (土岐大和介則基の息子。通称は舎人。天正十八年{1590}に討死した)
外浜将檻督政清  (三戸へ流れてきて南部家に仕えた。今渕氏と姓を改めた)
澤里十兵衛政金  (慶長八年{1613}に利直へ仕える)
乳井内記延則   (大隅守の次男。はじめは石川高信に服従していたが、後に南部家へ叛いて津軽為信に従った)
乳井大隅守正清
乳井伊豆守
乳井源左衛門
兼平実作守顕紹
松田大学助
蓬田太郎右衛門
大道寺隼人正
村山七左衛門
軽氏三左衛門
臺坂勘兵衛
原子平内兵衛
工藤久膳祐朝
川井筑前守正勝
川井左馬助正式
川井左京政弥
長嶺七右衛門将輝
 長嶺七左衛門将勝
 兼平平八郎家元   (三戸方に通じたと思われ、為信に殺さた)
 高田善八      (石川政信に殉死した)
 高田善七      (石川政信に殉死した)

(注・石川政信は石川高信の次男で正室の子。南部信直の腹違いの弟にあたり、兄が南部宗家の養子に入ったため嫡子として石川家を継いだ。津軽為信によって殺される)

2016-11-04 11:41 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)4
「稗貫家の次第」

 中納言・藤原山陰の十一代目の子孫に足立民部丞兼盛という人がいた。その次男の外嶋山城守信家という人は、武蔵国の足立郡に住んでいた。子が無かったため、実弟の足立右衛門尉遠助の息子・鈴木次郎広家を養子として家督を譲った。
 広家は源頼朝に仕え、文治五年(1190)の奥州征伐で軍功を挙げ、稗貫郡の地頭職に任じられた。これをもって地名を姓とし、代々稗貫氏を称した。

 その六代目の子孫・稗貫兵部少輔貞広は南朝方の新田義貞の部下となって戦い、その息子・太郎俊行は北畠顕家に従軍して軍功を挙げた。
 それから三代目の子孫・大和守広隆は武勇の士で、武名は隣郡にまで知られた。その五代目は大和守家起といい、はじめは孫太郎武重と名乗っていた。天正三年(1575)の三月に亡くなった。

 その後を継いだ孫次郎家法は別名を広忠といい、実は和賀氏の二男で養子であった。暗愚な性格の上に家臣を軽んじて厚遇しなかったので、家来たちは皆、彼に服さなかった。
 さて、天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のため東国へ下向した際、稗貫家はこれに参礼しなかった。やがて無礼な輩を征伐するとして大軍を率いた豊臣秀次が奥州に下向してくるとの噂を聞いた家法は非常に驚き、花巻の十八ヶ崎城から夜陰に乗じて逃走し、稗貫川上流域の山中に身を隠して、翌年の天正十九年(1591)そのままそこで死んだ。
 家法の妻や妾、家族は皆離散して、花巻城は空城となった。このとき稗貫郡には浅野長政が下向していたがその話を聞き、家臣の浅野庄左衛門を城代に任じて花巻城へ入れた。

<稗貫一族諸臣>

稗貫靭負佐本隆    (家起の叔父で、五郎入道の子)
瀬川五郎左衛門本矩  (本隆の子。浪人。政直に仕えて五十石)
瀬川右京武信     (家起の弟・広武の子。 はじめは山口氏を名乗った。浪人。松斎に三百石をもって仕える。瀬川久太郎武貞は武信の息子である)
瀬川助左衛門本実   (武信の弟。浪人。利直に仕えて百石)
瀬川藤次郎敬健    (本実の子)
本舘甚四郎光起    (家起の弟・起晟の子。浪人)
本舘甚左衛門慶起   (光起の子。農民となった。妹は南部重直{盛岡藩三代目藩主}の妾になった)
亀ケ森能登喜明    (稗貫一族。浪人。家法が亡くなった後、その妻を伴って降参した。その女性が非常に美人であったため、南部信直は召し出して妾とした。同時に喜明も百石を持って召し抱えになり、名を山屋三右衛門と改めた)
山屋三右衛門家明   (喜明の子)
山屋万左衛門辰明   (家明の子)
瀬川下総守      (浪人)
瀬川出羽守      (浪人)
十二町目佐渡守助茂   (旧臣)
十二丁目下総守祐基   (佐渡の子)
伊藤小市郎助吉    (下総の子。利直に仕えて百石)
伊藤丹後助宗     (佐渡の二男。たびたび一揆を起こしたが、松斉に十石をもって召し抱えられた)
十二丁目掃部助祐忠  (同流)
十二丁目主水正祐隆  (祐忠の子)
十二丁目右衛門祐慶  (祐忠の二男)
十二丁目斎宮     (祐隆の子)
伊藤新左衛門祐忠   (十二丁目右衛門の子。浪人)
根子周防守高純    (旧臣。たびたび一揆を起こす)
根子備中守高充    (周防子。同断)
根子孫三郎高能    (同二男。同断)
根子大学吉康     (旧臣)
根子兵庫助吉房    (大学の子)
根子与三郎吉就    (内蔵助の子)
根子右兵衛
根子主膳貞景     (兵庫助の子)
根子嘉右衛門貞行   (吉房の二男。政直に仕えて五十石)
根子越後守高重    (備中の二男。たびたび一揆を起こす)
根子忠五郎高成    (越後の子。一揆を起こして討死した)
根子次郎右衛門高次  (越後の二男。後年新田を拓いて七十石を与えられた)
高橋備後守愛知    (旧臣)
高橋惣兵衛愛由    (備後の子。利直に仕えて百五十石)
高橋四郎兵衛茂親   (備後の二男。松斎に仕えて三十石)
高橋駿河守盛重    (旧臣)
高橋与四郎盛時    (盛重の子仕利直に仕えて百七十石)
高橋庄太夫吉隆    (盛重の二男。松斎に仕えて二十二石)
金矢丹後光栄     (高橋氏。松斎に仕えて百石)
亀ケ森能登守家朝
亀ケ森玄蕃家衡    (家朝の子。利直に仕える)
亀ケ森兵助家祐    (玄蕃の子で、後に玄蕃を襲名。三十石をもって政直に仕えた)
小森林修理正達
小森林新左衛門正行  (修理の子。利直に仕えて百五十石)
小森林与五右衛門正忠
小森林大隅守
小森林治部少輔
神山彦助吉次     (根子次郎右衛門高次の子)
臺掃部助行光     (高階氏。浪人)
臺弥十郎家光     (行光の子。信直に仕えて二百石)
臺四郎五郎顕光     (行光の弟。浪人)
北湯口伊豆守光近
北湯口大膳亮光仲   (伊豆の子)
北湯口弥太郎     (大膳の子。一揆を起こして討死した)
北湯口安芸光茂    (伊豆の二男。信直に仕えて五百石。姓を島森氏に改めた)
北湯口主膳光房    (光茂の子。政直に仕えて三百石)
島森権左衛門光里   (光茂の次男。松斎に仕えて五十石)
糠塚主計義相     (信直に仕えた)
糠塚次郎右衛門義音  (主計の子)
糠塚儀左衛門義但   (次郎右衛門の子)
似内備中守高範
似内雅楽助高衛    (備中守の子)
似内隼人
似内但馬守敏房    (同流)
似内式部且房     (但馬守の子)
似内五郎       (但馬の弟。一揆を起こして討死した)
似内平蔵       (五郎の弟。兄と同じく討死)
照井兵衛入道鉄山
照井帯刀左衛門武也
照井助次郎武昌    (武也の子。政直に仕えて五十石)
中嶋五兵衛冨秀
中嶋才兵衛冨尊    (五兵衛の子。松斎に仕えて百石)
中嶋小十郎冨重    (才兵衛の子)
葛三郎左衛門家幹
葛茂右衛門家元    (三郎左衛門の子)
鈴木大炊助屋晴
鈴木逸宗屋滕     (大炊の子。信直に仕えて百石)
鈴木孫四郎儀仲
鈴木九十郎儀保    (孫四郎の子)
鈴木九蔵       (孫四郎の弟)
寺林民部少輔
寺林将監宗次
寺林縫殿助宗忠    (将監の子。松斎に仕える)
佐々木孫次郎高寛   (似内雅楽の二男)
佐々木惣太郎為房   (似内式部の子)
梅木助三郎政陳
三田権太夫廣行
小山田五郎左衛門宗治
小山田内膳宗隆    (五郎左衛門の子。和賀家に仕える。 後に政直に仕えて三十石)
小山田越前守吉範   (閉伊十郎の孫。小山田村に住む。志和家と稗貫家の二家に仕えた)
小山田越前守吉前   (吉範の子。利直に仕えて三十五石
平賀五郎兵衛光則   (根子支族)
坂水右近義道     (松斎に仕えて三十石)
坂水又兵衛義顕    (右近の子)
八重畑美濃守
八重畑大隅守
八重畑獨歩斎
八重畑豊前守宗昭   (家老)
織笠九蔵宗能     (豊前の子で織笠庄助の猶子。七十石)
大迫右近       (大迫の住人。志和や九戸一味に味方して一揆を起こしたが、人首村において死んだ)
大迫又三郎      (右近の子。和賀一揆に加わって死んだ)
大迫又左衛門     (右近二男。和賀一揆に加わって死んだ)
大迫十郎兵衛     (右近の弟。松斎に仕える)
新堀侍従北山斎
新堀作兵衛      (北山斎の子。志和一味。信直に仕える)
八反清水典膳
八反清水次郎左衛門  (典膳の子。剛勇の士。一揆を起して花巻城を攻めるが討死した)
岩田堂隠岐守広邦
岩田堂七右衛門広舎   (信直に仕えて七百石)
岩田堂源左衛門広恒
轟木長左衛門敦久   (元和賀家の家臣。信直に仕えて七百石)
轟木作兵衛      (長左衛門の子)
釜糠修理忠時
安俵五郎左衛門隆義  (忠明の子。利直に仕える)
高松監物
小船渡帯刀
小船渡三郎兵衛
小船渡小五郎     (信直に仕えて五百石)
八木澤左近
八木澤忠平
田中隠岐守
矢澤参河守      (旧臣。鎌田氏)
矢澤掃部
槻木主計助      (旧臣。山内氏)
槻木下野守
槻木孫太郎
幸田伊豫守
関口主膳正
関口彦四郎
櫻 安芸守
櫻 雅楽助
櫻 彦十郎
平綿土佐守
白石越後守
堂前彦太郎
二ケ村帯力俊隆
圓満寺兵庫
圓満寺土佐守
鍋倉大隅守
万丁目駿河守
松林寺将監
狼澤豊後守
湯本五郎左衛門
黒沼修理      (松斎に仕える)
好地孫八
猪鼻弥十郎
嶋廻次郎左衛門
嶋廻五郎左衛門