2017-09-30 10:44 | カテゴリ:歴史
*和賀主馬介忠親敗れるの事

<北勢の二子城攻め>

 北松斎入道は人々に対面して、
「この度の夜襲に際しては、城内に兵がなく実に危ういところであったが、士卒が一致団結して身命を惜しまず戦ったので、堅固に城を守り通すことが出来た。加えて、予想したより怪我人や死人も少なかった。残念なのは、もし兵の数が多ければ、敵の退路を阻み、近くへ足止めさせることが出来たはずのことだ。斥候を出して調べたところ、和賀忠親は鹿ヶ鼻から八森へ撤退する様子であるらしい。一同でこれを追撃し、撃破せよ。しかし、和賀の軍勢はこの度敗戦したことで、死に物狂いの反撃をみせるであろう。決して油断してはならない」
と命令し、松斎の名代・北大蔵直継、先手の大将を岩田源右衛門として、その他には北十左衛門信景、中野造酒、柏山伊勢守明助、斎藤市兵衛、伴作右衛門、服部半右衛門、北湯口主膳光房、佐藤権兵衛など総勢二百五十余騎が和賀勢を追撃した。

 和賀忠親は先の戦いに遅れを取り鬱憤の晴れない思いでいたが、敵の追撃を知ると、寄せ手の大将を討ち取るか、あるいは自らが討死するか二つに一つの勝敗を決しようと軍を励まし、総勢百八十騎の兵は八森を後ろに控え、小川を前に据える形で岩田堂に陣を構えた。
 寄せ手はまず行き掛けに成田藤内の屋敷を焼き払い、それから岩田堂へ攻めかかった。両軍の距離が縮まり、まずは互いに鉄砲を撃ち合い、それが長槍に変わり、やがて刀の斬り合いとなって敵味方が入り乱れ、生死をも知れぬ揉み合いとなった。鬨の声に矢弦の音、人馬が入り乱れる響きがおびただしく大地へ轟き、まるで谺のように聞こえるほどだった。
 両軍は組みつ組まれつ、討ちつ討たれつの激闘を時を移して繰り広げた。ここに北湯口主膳光房は緋縅の鎧に菱形の兜の緒を締め、河原毛の馬に跨って、味方の先陣を切って暴れ回った。これに遭遇した者こそ不運としか言いようがない。和賀勢の成田藤内は、自分の屋敷を敵に焼かれ心穏やかでなかったが、北湯口が敵を斬って回るのを目にして、
「あやつを討ち取ってこの無念を晴らしてやる」
と馬を寄せて言葉を交わし、轡を並べて組み付いた。それを見た和賀勢の雑兵四、五人が加勢に入ろうとするのを北十左衛門が大音声に、
「あっぱれ豪傑同士の勝負を、貴様らの如き雑兵が汚すつもりか。彼らが羨ましいというのなら、わしが相手になろう」
と睨みつけたので、前に出かねて見守っているところを、主膳が藤内の首を掻き取って兜の目庇より高く上げ、
「成田藤内はこの北湯口主膳が討ち取った」
と高らかに叫んで本陣へ取って返した。和賀勢はこれを見て、逃がすものかと斬ってかかる。両軍は東西南北で駆け違い、喚き叫んで攻め戦う音は山河をどよもすばかりであった。しかし多勢に無勢で和賀勢に死傷者が続出したため、さしもの勇将・和賀忠親も陣を支えきれず二子城をさして撤退し始めたところを、勝ちに乗った寄せ手は追撃して追い詰め、散々に討ち取った。
 忠親も危ういように見えたが、斎藤九右衛門と煤孫惣助が馬場で踏みとどまり、追手の先頭二、三騎を槍で突き落とし、大勢の敵を引き受けて粉骨砕身の戦いを見せたため、忠親はその間に無事二子城へ入城した。寄せ手は馬場の南にある高森に陣を構え、兵を退いた。

 忠親は二子城へ入ったのはいいが、老朽化し何の施設もないため、敵を一支えも防ぐ備えがない。その上味方は敗れて大半のものが追撃により討ち取られ、かろうじて逃げ延びた者も大将の行方を知らないために二子城へは集まらず、この様子を見た雑兵たちは次々に姿をくらました。もはや敵と再び戦う鋭気も尽き果てたので、17日の夕方、飯豊まで退却した。
 寄せ手の北十左衛門は本陣から遠目にこれを見て、
「西の野に十七、八騎で逃げていくのは敵の大将ではないか。いざ追跡して討ち取ろう」
と、部下七、八騎と共に追いかけた。やがて飯豊の東、庄田堤という場所で距離が縮まり、焦った忠親は深田に馬を乗り入れ、進退窮まってしまった。危ういところに江釣子民部が馬から飛び降りて、忠親の馬の四足をむんずと掴んで腕に抱え、陸地へ押し上げた。残りの者たちは引き返して敵を防ぎ、忠親はその隙に虎口を逃れて飯豊へ撤退した。
 北十左衛門は深追い無用として馬を返し、本陣へ引き返した。これは軍略書の司馬法にいう
「逃ぐるを逐(お)うて列を踰(こ)えず、これを以(もっ)て軍慮の固を乱さず、行列の正を失わず、人馬の力を施(わか)たず」
という言葉を知っていたためである。彼はあくまで気の早い若者なのであるが、それがこのような言葉をこのような時に思い出して、敵への攻撃を思いとどまったのは不思議なことであった。大将を助けようと死に物狂いで向かってくる敵に、少数の味方で当たるのは危険だと判断したのだろうと、後に年老いた武功者たちが話し合ったそうである。寄せ手の大将・北大蔵は兵に命じ、二子城を破却させてから花巻城へ帰陣した。

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2017-09-29 22:01 | カテゴリ:歴史
<籠城軍の奮戦>
 
 ここに上方出身の新参者で野村多右衛門と言う者がいた。更木を知行して毎年年貢・所当(注・土地にかかる税金)を搾取し農民を虐待していたため、農民は皆困窮して野村を深く恨み、この度の一揆に加担したのであった。彼らは根子勢に味方して円城寺門へ押し寄せ、口々に呼びかけるには、
「日頃年貢や課金を理不尽に搾取されている更木の農民がここに罷り越しました。ご地頭の野村殿はおられませんか。速やかにお出ましください。真っ向は恐れ多いので胴を一槍突き刺し、日頃のご恩に報いたいと思います。なぜお出ましくださらないのか。私はかねて存じよりの誰それです、何それです」
などと喚き叫んで攻め寄せた。これを野村多右衛門は聞こえないふりをして城内へ戻った。野村と並んで防戦する武士たちは皆これを見て、
「野村はなんという臆病者だ。なぜ城門を駆け出して斬り死にしないのか」
と辱めたが、野村はなおも聞こえないように装って、こちらの狭間、あそこの影と立ち回り、鉄砲ばかり撃っていたので、
「更木の農民を嫌がるほどだから、良き敵に巡り合ったところでまともに戦えるはずがない。激戦であるから男はもとより女子供さえも一致団結し、城内を走り回って弓鉄砲を撃ち、疲れた武士に水を汲んで飲ませるなどして介抱しているというのに、野村の有様はなんとさもしい限りか」
と嘲笑しないものはなかった。

 やがて馬場口の敵が押し、本丸にまで迫ってきたので、城はいよいよ危うくなった。ここに津軽より流れ来て松庵寺に寄宿している奥村右馬之丞、同右衛門、同八右衛門という親子三人の浪人がおり、夕方に松斎が兵を集めているという話を聞いて、我々も協力しようと入城し、二の城戸を守備していた。すると本丸で鉄砲の音が激しく鳴るのを聞いて不思議に思い、父子三人急いで駆せ来たった。続いて瀬川藤四郎、佐々木理助、乙部右馬之助、市川円丸、佐藤権兵衛ら二十余騎も駆けつけ、城戸より馬首を揃えて突撃すれば、百人ばかりの寄せ手はかなわず外郭まで後退した。
 城方の武士・水戸部内膳の弟に弥十郎という血気に逸る若者がいたが、ただ一騎で敵を追撃していった。すると寄せ手の三人が取って返し、弥十郎と槍を合わせた。弥十郎は夕方からの戦いで疲労していたため危うくなったが、そこへ中川彦四郎が救援に駆けつけたため、三人は槍を引いて逃げ去った。そうしていたとき一筋の流れ矢が飛来して、弥十郎の眉間へ深く突き立ち、彼はその場で戦死を遂げた。
 また、二の城戸で敵を防いでいた中島斉兵衛はまだ15歳の少年であったが、敵が後退するのを見て鉄砲を取り追いかけた。寄せ手のしんがりであった八反清水(はたすず)次郎左衛門という剛勇の者がそれを見て取って返し、
「生っちょろい小童め、生け捕りにしてくれる」
と近づいて来るところを待ち受け、狙いすまして発砲すれば、弾丸は過たず八反清水の胸板を撃ち抜いた。真っ逆さまに落馬する八反清水へ斉兵衛の家来・久三郎が駆け寄り、首を取った。同じ場で戦っていた岩間次郎助は16歳で、槍合わせで敵の首一つを討ち取った。いずれも15、6歳が挙げた功名に松斎の喜ぶこと限りなく、少年たちの活躍は抜群であると感心した。夜討ちの徒党は百五十人余りを討たれ、岩田堂まで退却した。

 さて和賀忠親は
「頃はよし、出立せよ」
と号令し、手勢四百余人を率いて花巻城へと急いだが、根子内蔵助がかねての打ち合わせを無視して宵のうちに攻城し始め、馬場口の民家へ放火した煙を途中で目にすると、
「さては根子勢め、早くも城攻めにかかったと見える。我らもいざ急げ」
と馬を早めて花巻城へ駆けつければ、根子勢はすでに撤退し、城は四方の門を固く閉ざして防備を固めているように見えた。けれども忠親は大手門攻めに取り掛かり、弓鉄砲を射かけ、鬨の声を上げて攻め寄せた。城中ではすでに攻撃を予期していたため、櫓の上や塀の狭間から弓鉄砲を散々に撃ち放っって迎撃したので、寄せ手も突入できず手をこまねき、時間ばかりが過ぎていくところへ、城内より今年21歳になる柏山伊勢守明助が華やかな鎧に身を包み、川原毛の馬に跨り、部下二十余騎を率いて、朝霧に三葉柏の旗指し物を翻しつつ搦手より出撃し、瑞光寺坂を駆け上り、大手の敵を見渡してみると、忠親が采配を振るって、
「早くも夜が明け始めたぞ、今はただ攻めろ」
と命令するところだった。
「かしこまりました」
と寄せ手の者どもが槍衾を作って城へ攻め寄せるところへ、柏山伊勢守が雄叫びを上げて突撃した。大手門を固めていた岩田源五右衛門は柏山に先を越されてはならぬと門を開いて打って出て、両陣互いに命も惜しまぬ激戦となった。

 さて、松斎の三男・大蔵は安俵にいたが、花巻城の方角に火の手が上がったのを見て不思議に思い、北十左衛門に命じて七、八騎で様子を見させに派遣したが、これが明け方になって到着し、夜討ちの勢に討ってかかった。寄せ手は左右の敵を防ぎかね、南をさして退却した。ここに松庵寺の住職で赤頬存泰という不良僧がいたが、大鎧を着て大薙刀を打ち振り、逃げる敵に追いすがって次々に斬り捨てた。存泰が討ち取った首級は十一にも及んだ。円城寺口からは中野造酒、斎藤市兵衛、伴作右衛門、伊藤紳助などが駆け出して追撃し、それぞれに武功を挙げた。  
 夜討ちの者たちは右往左往しながら敗退し、稗貫勢は西をさして逃げ、和賀勢は南に退いて鹿ヶ鼻(ししがはな)で残兵を統合し、花巻城再攻撃の策を練り始めた。
 
 さて、松斎は宵のうちに盛岡へ早馬を走らせ救援を要請していたため、盛岡の留守を預かっていた桜庭安房守直綱(注・松斎の甥にあたる)は大いに驚き、すぐさま援兵を派遣した。それが夜明け間もなく花巻城へ到着し、松斎の末子・九兵衛愛邦も百余騎を率いて馳せ来たった。北湯口の城主・島森主膳光房もこの異変を知って駆けつけた。これにより、花巻城の兵は三百余騎となったため、敵が再び襲来しても容易に敗れることはないだろうと、兵はしばしの休息を取ることにした。

2017-09-28 20:59 | カテゴリ:
某SNSで、絵のお上手な方々の作品を拝見させていただいて、いつもファンタジー系の絵を眺めて思うのですけれど。
ただ単に美しい女性キャラの耳を尖らせて「エルフ」と主張したり、太った男性の肌を緑色にして豚鼻と牙をつけて「オーク」と主張するのは、何かが違っていると思うのですよ。
なんていうんですかね、伝わりにくいと思うのですけれど、根本的な部分が全く違っている、エルフなりオークなり、それ以外にもドワーフであるとかホビットであるとか、とにかくそのような「異種族」に対してなんの思い入れもなく、ただ単に容貌を記号化して、自分の都合のいいように扱ってる…みたいな、そのようなとてつもない違和感を覚えるのです。

思い返せば、こういうのはすべてロードス島戦記と出渕裕の影響といえるのではないかと思うのです。
ロードス(作者の水野良は小説は決して上手いとはいえないのですが、あれをTRPGのシナリオにし、リプレイという形で発表し、読者を巻き込んで人気を獲得していったという手腕はうまかったと思います)と出渕さんのどこか虚無的なイメージの挿絵は、確かに現在でも日本ファンタジー界に輝く金字塔ですし、僕自身も中二病まっさかりの頃の発表だったので大きな衝撃と影響を受けているのではありますが、今この歳になって振り返ってみますと、外国のファンタジーマニアからも鼻で笑われ、小馬鹿にされる「ジャパニーズファンタジー」の原型を作り上げちゃったという、功績よりも罪のほうが大きいような気がするのですよ。
日本人のファンタジーとか異種族に対する想像力を狭めてしまったという部分で。
事実、ロードスと出渕さんの影響力から脱している日本のファンタジー作品は、未だ殆どないと言って良いと思います。
僕が構築した世界観を含めて、です。
エルフとかオークとかその他って、日本人が考えているほど底の浅い種族ではないと思うのですよ。
勿論、ファンタジーの形っていうのは個人個人によって違うので、
「おれのファンタジーはこうなんだよ!何か文句あるのかよ!」
とか言われたら、うへえとこちらが平身低頭するしかないんですが(^^;)。

だからほら、そういうときこそみんなでトールキンの「指輪物語」を読もうぜ!(3巻の途中から居眠りして脱落しつつ)
冗談は抜きにして、トールキンほど敵も味方も、異世界の世界観や種族を大事に設定している作家はないんですよ。
はっきり言って指輪は「小説として」面白いといえませんけど、こういう設定厨的な部分はもっと顧みられて然るべきじゃないかと思っちゃったりなんかりしちゃったりして。

2017-09-27 09:17 | カテゴリ:歴史
*花巻城夜討ちの事

<北松斎の軍略>

 和賀忠親は名城・花巻城さえ攻略できれば、三戸や盛岡の城などものの数ではないと思っていた。しかし、花巻の城代・北松斎入道信愛こそは、武は奥州に隠れなき名将であった。太閤秀吉、内府家康へも直接の挨拶を入れたこともあり、南部家が滅亡の危機に瀕した際も、北家がその武威をもって盛り立てた。先年の九戸の乱や、その他数々の戦争に際しても不覚を取ったためしはなかった。
 忠親はこの名将をいかにすべきか考え、ここかしこに一揆を起こして花巻城の軍兵を分散させようと策略を巡らせたところ、それが功を奏して花巻城の兵が大部分減ったことは幸運であった。その上、松斎は70歳をとうに過ぎて盲目となっていると聞くし、麒麟も老いれば駑馬に劣るというたとえもある。心ばかりが逸っても手足は動かず、その甲斐はないであろう。いざ手薄の花巻城を夜襲しようと出発した。
 大手門攻めの大将は和賀主馬介忠親、随従する一族郎党には鬼柳伊賀守、煤孫上野介、成田藤内、八重樫孫十郎、筒井縫殿助、斎藤九右衛門、江釣子民部、河原田采女、都鳥相模守、更木主水、宇喜田、中内、湯沢、平沢といった者たちに、藤根、滑田(なめしだ)の一門と駆けつけた近隣の農民が加わって総勢三百八十余人が袖印などの目印を定めて身に着けた。この者たちは成田藤内の屋敷に待機した。
 搦手門攻めの大将は根子内蔵助、その指揮下にある者たちは根子周防、同待中、桜雅楽、八反清水(はたすず)次郎左衛門などという稗貫家の浪人たちが一同に集まった。これはかねて和賀忠親と符牒を合わせ、9月13日黄昏時に紫波の桜町を出立し、豊沢川の流れを越えた。その他にも更木の者たちともかねてからの示し合わせがあり、彼らは小舟渡の中、寺志田に集合して日暮れ時を待ち、革鞍瀬を渡り根子勢と合流してその数四百余人、馬場口から花巻城へ迫った。

 しかしこの襲撃はすでに花巻城の知るところとなっており、城は防備を固めていた。なぜかと言えば、南部方の家来に昆土佐という者がいて立花村に住んでいたが、今は土佐は亡くなり、その妻が一人で暮らしていた。この後家はなかなか気のつく人物で、夜討ちの噂を聞くか聞かずかのうちに小具足に身を固めて馬に飛び乗り、花巻城へ急行して事の次第を松斎へ報告した。松斎はこれを聞くと、すぐさま花巻城下の町家の者たちの妻子を一人残らず人質として本丸へ押し込め、農民・町人たちの口を封じた。それから大手門を岩田源右衛門、円城寺門を中野造酒、伴作左衛門、斎藤市兵衛に固めさせた。搦手門は服部半右衛門、河野兵部が固めた。その他に柏山伊勢守明助、中川喜四郎などを危機に瀕した部所に駆けつける遊撃隊に定めた。

 さて、夜討ち一手の大将・根子内蔵助は、
「花巻城の敵は少数だ。不意を突いて攻撃し、一気に攻略しよう。和賀勢を待つまでもあるまい」
と言えば、桜、八反清水も同意して、
「そのようにしましょう」
と了承し、四百人をふた手に分けて鬨を上げ、弓鉄砲を撃ち放ち、一気に落城させようと攻め寄せた。馬場口に攻め寄せた寄せ手は付近の家屋に放火し、その炎と煙は天をかすめるほどで、門を守備していた松川角兵衛もここを先途と思い定めて応戦したが、多勢に無勢で防ぎきれず、早くも馬場口は破られてしまった。勢いに乗った寄せ手は激しく攻め立て、開かずの門を打ち破って二の丸へ乱入し、本丸間際にまで迫った。
 城中の小物が顔に向こう傷を受け血を滴らせながら松斎の前へ進み出て、
「敵は早くもご本丸へ迫っております」
と慌ただしく報告し、再び敵陣へ向かっていった。この頃、松斎は70歳を過ぎて両目も見えず、歩くことすらようやくという有様であったが、元来の武功者であるため少しも騒ぐ様子もなく、武具甲冑に身を固めて進み出た。しかし城門各所は危機に陥り、城中の軍兵は老いも若きも大手門や搦手門へ駆けつけていたため、男の姿は一人もなく、松斎に付き従うものすらなかった。
 ここに城中へ務める仲居の女で談義所の松子、浦子という召使いが二人いたが、日頃から男にも劣らぬ剛毅な性格をしており、夕方から何か思うところがあってか鎧を身に着け控えていたが、松斎が出てきたのを見て一人は鉄砲を取り、一人は薙刀を構えて、松斎の左右へ続いた。松斎は二人の女へ命じ、二丁の鉄砲に弾を込めず火薬だけを詰めさせ、群れて押し寄せる敵へ向かい、取り替え取り替え発砲した。二人の女は間断なく火薬を詰めたので、銃声は十丁二十丁のつるべ打ちよりもなお激しく聞こえた。 
 熊谷藤四郎という者が松斎の隣に駆けてきてこれを見ると、
「このような苦戦の折になぜ空鉄砲などお撃ちになるのですか。敵を一人でも多く撃つことこそ味方の助けとなりましょうに」
と言えば、松斎はそれを聞いて、
「貴君は物を知らぬとみえる。変動常なし、敵によって転化すとはこのことだ。寄せ手の大部分は農民であり、命を捨ててまで討ち入っては来ない。多勢を無勢で迎え撃つときは、味方を大勢のように見せかけ、なおかつ敵を殺さぬようにするものだ。もし一人でも殺すか怪我を負わせれば、その一族の者は怒り、遮二無二討ちかかってくるだろう。もしそうなれば防ぐ術(すべ)もなく、たちまち落城する他はない。だがこのようにして時間を稼げば、やがて方々の味方が駆けつけてくれるだろう。だから今はただ空鉄砲を撃って防ぐのだ」
と言えば、熊谷も、
「心得ました」
と答え、さらに激しく発砲した。案の定、ここの寄せ手は各所の郷士や農民ばかりで、銃声の激しさに大勢で防いでいると錯覚し、あえて踏み込もうとはしなかった。その上味方に怪我人や死人もなかったので怒る気持ちもなく、攻撃を手控えつつ時間を過ごしたのであった。

2017-09-26 17:22 | カテゴリ:雑記その他
アニメ「けものフレンズ」の監督・たつき氏が、昨晩唐突にTwitterで
「KADOKAWA方面からのお達しで、アニメから外れることになりました。僕も残念です」
と告白したので、アニメ二期を心待ちにしている全国に約3千万人の(←懐かしい表現)フレンズ(ここではアニメのファンという意味です)たちは寝耳に水、度肝を抜かれてどったんばったん大騒ぎ。

今のところKADOKAWAが何も言っていないので真偽の程は不明ながら、仮にもアニメの監督を努め、番組終了後も様々なショートアニメでフレンズを影に日向に支え喜ばせてきたたつき氏が嘘をいうわけもなく、加えて
「残念です」
と言っているということは、無理やり降ろされたという悔しさを、あきらかにTweetへ込めている。
したがって冗談やデマカセではありえない。

これにフレンズたちは当然大激怒、
「KADOKAWA潰れろ!」
「絶対に許せねえ!」
という怒りの声はもとより、
「監督をやめさせるな!」
というネット署名活動まで始まり、一晩で2万人を超える署名が集まった。
それとは別に、以前KADIJAWAと仕事した経験のある漫画家や作家さん方が、同じくTwitterで
「KADOKAWAにはむかし酷い目に遭わされたので二度と仕事したくない」
「あそこの体制は20数年前から全然変わってないよ」
と過去にKADOKAWAから受けた屈辱や迷惑行為をを暴露して、意外な形でフレンズたちを援護射撃し始める。
動きは株価にまで延焼し、たった1日で-6%近くも急落(昼の時点で)、関連企業のニコニコ動画も契約解除者が相次いでいるそうな。
これまでに同業者や様々なコンテンツ企業を吸収して巨大に膨れ上がったモンスター企業を、ネットに集う無名のフレンズたちが、ほぼネットの力だけで揺さぶっている。
これはちょっとすごいことではないかと思います。
もしかしたら、自分は今歴史的な事件を目にしているのかもしれない。
ちょっと大げさですが…(^^;)。

ただ、騒ぎがここまで大きなものになってしまうと、よしんばKADOKAWAが翻意してたつき氏を監督に戻したとしても、心情的、あるいは環境的にも、たつき氏はけもフレの仕事ができなくなるのではないでしょうか。
おれたちが悪かったので戻ってきてくれと言われても、氏にしてみればご自身のつぶやきが発端となっているだけに、ハイそうですか、と戻る訳にはいかないと思います。
つまり、どう転んでもけもフレのためにはならないのです。
この上はKADOKAWAにたつき監督を復帰させることではなく、たつき氏が安心して後を託せるような人物を監督に据え、たつき氏にはアドバイザーかなんかでアニメに関わってもらうという形が、八方丸く収まる最もいい形ではないでしょうか。
KADOKAWAを攻撃するのもいいですが(個人的にはいいぞもっとやれ、と言いたいw)、この場合はうまい「落とし所」を見つけるほうが重要に思います。

2017-09-26 11:01 | カテゴリ:歴史
*安俵小五郎、一揆を起こすの事

<一揆、江刺を脅かす>

 南部領の東境をかつて支配していた領主・安俵玄蕃頭の一子・小五郎は、過ぐる天正18年以来浪々の身となっていたところを、家臣の小原五郎左衛門が南部信濃守に嘆願し、所領一箇所を与えられて、今は南部家に家臣として仕えていた。
 和賀主馬介忠親は今回一揆を起こすにあたって、安俵譜代の浪人たちへも連絡を送った。安俵普代の者たちはこれを聞いて時節の到来と喜び、
「さあ、南部の盛岡城下におられる旧主の小五郎様をお迎えして一揆を起こそう」
と、屈強の者五、六名を盛岡へ忍び入らせ、小五郎へ事情を語って聞かせた。小五郎は大いに喜び、早速盛岡を脱け出して旗を上げ、和賀忠親に味方しようと考えはじめた。
 小五郎の家臣・小原五郎右衛門はその頃浪人となっていたが、この話を聞いて、
「身の置き所がなく困窮しているときは南部殿を頼り、今は人に勧められたからと言って南部殿に敵対するなど道理が立ちましょうか。このような無道の企てに加担して一時の利益を得たとしても、いずれ必ず天罰が下ります。このような無謀な計画は、是非ともおやめ下さい」
と小五郎を諌め、昔の朋輩たちをも制止した。
 すると譜代の者たちはこれを聞いて、
「小原のやつ、言われもせぬのに賢人ぶりおって。旧主を盛り立てようとする我々の忠義を妨げる奴は、このままに捨ておかぬ。戦の血祭りとして斬って捨てよう」
と小原の家を襲撃しようとした。小原はそれを知ると、いずこともなく姿を消した。
 そうしている間に、安俵の守備を固めていた江刺隆直は内外から押し寄せる敵を防ぎかね、花巻城へ飛脚を送って救援を依頼した。
 北松斎は驚愕したが、すぐさま三男・大蔵直継を大将とし、甥の十左衛門信景を副将に付け、与力五十余騎を与えて安俵救援へ差し向けた。このため、花巻城はもってのほかというほど守備が手薄となってしまった。

2017-09-26 02:32 | カテゴリ:歴史
*南部・伊達領境の田瀬・安俵城を一揆が襲撃するの事

<田瀬・安俵城で一揆を撃退する>

 仙台の伊達政宗は、このとき会津の上杉景勝の討手として北目に布陣していたため、南部領境のことは前沢の領主・大内備前守、水沢の領主・白石若狭守宗直、岩谷堂城主・母帯越中守などに命令し、和賀忠親に協力させていた。
 また、東の境からは田手肥前に意を含ませ、田瀬の学間沢と野手崎の二方向から安俵(あひょう)の城を攻めさせた。
 この頃、葛西家の旧臣・江刺長作隆直は南部家へ仕官しており、利直の命を受け、東境の守りとして新堀城に住していた。隆直は家臣の小田代肥前の息子・蔵人を田瀬城へ配し、同じく家臣の原帯主膳を安俵城へ置いて守りとした。彼らはいずれも武功の者どもで、突然の敵襲に際しても怯まず、敵に境を越えさせてなるものかと弓矢、鉄砲を盛んに射かけ、ここを先途と防戦した。

 田瀬の城主・小田代蔵人は、まず早馬を出して新掘城へ事態を急報し、自らは家臣五十余騎を率いて城中より討って出た。しかし敵はあえて取り合わず、遠くから矢を射かけ、悪口雑言を囃し立てるばかりだった。蔵人の家臣たちは大いに怒り、
「なんと憎い奴らだ」
と駆け出そうとするのを、蔵人の叔父で隼人という者はとりわけ背が低く片足が不自由であったが、戦慣れした剛の者で、
「あの悪口はこちらを誘引するための策略だ。どこかに必ず伏兵がいる。者ども、誘いに乗って不覚を取るな」
と味方を制止したが、血気盛んな若者たちは、
「目前の敵を今討たずして、いつまで待てとおっしゃるのですか」
と言い捨てて斬り込んだが、敵はもともとそれが作戦なので、抵抗することなく後退した。田瀬の者たちは勝ちに乗って追いすがったが、案の定伏兵が左右の谷から現れて追手を包囲し、
「一人も討ち漏らすな」
と激しく攻め立てたので、屈強の兵といえどもたまりかね、たちまち十三騎が討ち取られてしまった。けれども、蔵人や隼人が続いて駆けつけ、囲みの一方を討ち破り、味方を救出して城内へ退却した。寄せ手は勝ちに乗り城門付近にまで攻め寄せ、城もいよいよ危うくなったかと見えたとき、かつて江刺に住んでいた千葉氏の家臣・及川左近の末子で下河原若狭守という者が益沢の城主をしていたが、田瀬の方向へ鬨の声や砲声がおびただしく聞こえたため、
「さては敵の襲撃に違いない。一門に繋がる蔵人をむざと殺させてなるものか。いざ救援に向かうぞ」
と言うままに、一族の者十余人が鎧を着込み篭手臑当は着ける暇もなく、めいめい得物を押取って、馬に飛び乗り鞭に鐙をさして田瀬へ駆けつけた。寄せ手はこれを見て、
「なんと、あれは敵の後詰めだ。退路を断たれてはまずい」
と退却しようとしたが、城中ではこれに力を得て、門を開いて討って出た。下河原若狭守も共に敵を蹴散らそうと追撃したが、敵は付近の地理に詳しいため難なく口内に逃げられてしまった。
 
 野手崎を通って安俵城を攻めた敵は、城主の原帯主膳が頑強に防ぎ、散々に蹴散らした。寄せ手はかなわず落合を下り退却したが、原帯主膳は勝ちに乗り、なおも敵兵を討ち取ろうと追撃をかけた。ところが敵は急に踏みとどまると主膳を包囲し、火の出るほどに攻め立てた。しかし主膳も剛の者で敵一人を斬り倒し、三人に重傷を負わせたが、具足の胴を槍で突き抜かれ、ついに討死を遂げてしまった。そうしている間に、新堀城の江刺隆直は蔵人の報告を聞いて大いに驚き、軍勢を率いて安俵の城へ急行し、領境を破らせてはならぬと所々に手を回し、指示を飛ばして守備に当たった。

2017-09-24 18:39 | カテゴリ:歴史
*和賀忠親の勧めによって各所に一揆が蜂起するの事

<南部領に一揆起こる>

 和賀忠親は大林にあって、遠方各所に潜む一門郎党へ密使を出して呼び寄せ、相去の里にある谷地小屋へ移った。それから本領の居城であった二子城へ籠城しようと考え、まず部下を使いに出してみたところ、ほどなくして二子に潜んでいた譜代の家臣たち二十余名が迎えに現れた。
 忠親が即日二子城へ赴いてみると、城は長年住むものもなかったので荒れ果て、本丸はもとより家屋敷も敵のためにことごとく破却されて、門と塀ばかりが残されていた。
 忠親は13歳の折にこの城を立ち退き、今立ち返ってみてこの有様に涙を禁じ得なかった。けれども、筒井内膳の息子・縫殿助の屋敷がかろうじて残されていたためこの館へ入った。和賀の一門郎党はある者は山野に逃れて禽獣のように生活し、またある者は田野に名を潜めて卑しい農民の業に手を染めるものもあったが、彼らは特に招集されたわけでもないのに、そこかしこから続々と馳せ来たって、浮き木にすがりつくことが出来た盲目の亀のように喜んだ。
 この際集まった一味の者は、煤孫下野守、黒岩月斎入道、毒沢伊賀守、鬼柳伊賀守、同清三郎、八重樫掃部、小原左馬之助、都鳥相模、原田采女、筒井縫殿助などで、それぞれ懐旧の涙を流し重ねた苦労を語り合って、喜び合うこと限りなかった。すると八重樫孫十郎が進み出て、
「以前の約束により、仙台侯が我々の味方をしてくれる事になっている」
と語ったところ、一同のものはこれを聞いて大いに感激しまた喜び勇んで、
「今回ばかりは我がお家のご武運が開けることに間違いない。ことは迅速を重んじ、遅きに失する。早急に各所の浪人たちへ通達を出しておくにこしたことはないだろう」
と、方々の浪人たちへ連絡を送った。
 
 その頃、かつて南部家によって滅ぼされた紫波の斯波安芸守詮直の子息・孫三郎(注・斯波詮森のことだろうか?)は山王海へ身を潜めていたが、この内通を受けて密かにかつての本領・紫波に立ち帰り、旧臣を集めて謀略を巡らせた。また、大迫の領主であった大迫右近の子息・又三郎と次男の又右衛門の兄弟は、城を追われたあと流浪して江刺の人首(ひとかべ)に隠れていたので、彼らのところへも使いを送った。そのほか天正年間に没落した浪人たちへ残らず密使を送ったため、彼らは皆かつての本領へ立ち戻って、同時に乱を起こそうと計画した。

 まず、斯波孫三郎が長岡城を奪取しようと兵を挙げたが、年来の家臣であった石田与三という者が突然心変わりして裏切り、城門を閉じて防戦に回ったため計画が崩壊し、やむなく孫三郎は大ケ生へ撤退した。
 
 大迫城はかつて九戸政実の乱の頃に城主の大迫右近が没落して後、南部家から京都の豪商・田中彦右衛門へ与えられており(注・彦右衛門の父・田中清六は豊臣秀吉と南部信直の仲を取り持った人物で、その功績による)、彦右衛門は甥の田中藤四郎を代官として派遣していた。人首の大迫又三郎と又右衛門兄弟はそこへ討ち入るべく、伊達政宗に援助の要請を送った。
 政宗はこれを受け入れ、家臣の猪倉伯耆守、富沢立斎入道の二人に兵士二百人を預けて人首へ派遣したので、兄弟は大いに喜んだ。その他方々へ身を潜めていたものたちが噂を聞きつけ、われもわれもと馳せ集まってきた。そのものたちは八木沢、中、白岩越後、平綿土佐、亀ヶ森玄蕃、小梁筑前を始めとして一味の者三百八十余人が打ち揃い、夜陰に紛れて大迫城を襲撃した。
 思いもよらない事に城主の田中藤四郎は狼狽して上を下へと騒ぎ立てたが、居合わせた家臣たちをなんとか指揮して、弓や鉄砲で防戦した。しかし寄せ手はかつてこの城に暮らしていた者たちのため城内の様子を熟知しており、たちまち攻め入られ、防戦するすべもないまま城兵は散々に討ち取られてしまった。藤四郎は心ならずも武具甲冑に身を固め、槍を取って突いて出たが、堂ノ前彦次郎と名乗って進み出た寄手の一人が藤四郎を槍で突き倒し、そのまま首を取ってしまった。この他あちこちで一揆が起こり、次々と代官たちが討ち取られた。

 南部氏の一門で重臣の北左衛門入道松斎は花巻城の城代を務めていたが、これを知って驚天し、各地へ軍勢を送って乱を鎮圧しようとした。しかし、主君の利直が四千七百もの大軍を率いて会津征伐へ出陣した後のことで、折悪しく兵力は僅かであった。加えて九戸の乱の鎮圧後、南部領は平和であったため、にわかに起こった兵乱に諸将の狼狽は激しかった。

 さて、過ぐる文禄4年(1595年)、南部信直の嫡男・彦三郎利直は官位を受領して信濃守と名乗った。慶長2年(1597年)、不来方の城を新たに居城と定め、名称を盛岡と改めた。同4年(1599年)、父・信直が重病に倒れ、盛岡城で亡くなった。享年54歳だった。信濃守が24歳で家督を継ぎ、盛岡城の建築工事が終わっていなかったため、居城を盛岡から三戸へ戻した。そのため今利直出陣の隙を伺い一揆が起こったとはいうものの、各地の城郭に残兵を振り分けごく少数で守備していたため、北松斎も慌てたのである。

2017-09-23 10:44 | カテゴリ:歴史
<和賀家再興を図る>

 こうして又四郎は縁を頼りに、同国江刺郡水沢の領主・白石若狭守宗直に頼み、宗直の主君・伊達政宗へ訴え出た。
 その口上は、
「私の家は累代の和賀郡主でしたが、父・薩摩守の代になって太閤秀吉様の命令にそむいて領地を没収され、それが南部信直へ与えられたため長く流浪の身となって、あちこちへ隠れ潜んで暮らしてきました。兵を挙げて南部方の城へ攻め入り、一戦に勝敗を決して領土を取り返したいと思いますが、私一人ですら暮らしが立たぬ有様ですので、そんなことは出来ようはずもありません。この上は政宗公のお力をお借りして、もう一度故郷に立ち返りたく思います」
というものであった。政宗はこれを聞き入れたが、
「今は天下も一つに治まり、たとえ兵を起こし本望を遂げたとしても災いは避けがたい。思い立ったところで何の益にもならないことだから、今はただ時節の到来を待ちなさい」
と答えた。又四郎は力を落として時を過ごし、今は早や22歳になり、その名を改めて主馬介忠親と名乗った。
 そうこうしていると、慶長5年(1600年)の春頃より世相が何となく物騒がしくなりはじめ、人々は日々を不安がって過ごしていたが、案の定、畿内では石田治部少輔が謀反を企て、信濃国では真田安房守、北国では山口丹波守、会津では上杉景勝が逆心を起こしたと噂になった。
 すぐさま徳川家康の命令により仙台の伊達政宗(注・この当時の居城はまだ岩出山城である)が景勝の討手に任じられ、信夫表へ馳せ向かい、南部信濃守利直は最上義光救援のため、羽州山形へと出陣した。あちこちへ潜んでいた落人・浪人たちはこのような時節の到来を伺っていたが、昔のように世情が乱れ始めたのであった。
 和賀忠親も南部利直が山形へ出陣した隙を突いて一揆を起こし、領内を攻め取ろうと考えて、方々へ隠れ住んでいる一族郎党へ声をかけると、縅糸の切れた鎧を肩にかけ、痩せた馬に塗りの禿げた鞍を置いて打ち乗り、旧臣たちが続々と駆けつけてきた。武具や馬具こそみすぼらしいが、頼もしさは古代中国の豪傑・樊噲(はんかい)をも欺こうというほどの強者が、たちまち百余騎も集まった。

2017-09-23 00:39 | カテゴリ:歴史
そういうわけで、早速少し現代語訳してみました。
所々の間違いを修正し、読み易いようなるべく簡素な文章にしてあります。
そのため、文章の表現などがいささか稚拙に見えるかもしれませんが、ご容赦願います。
まずは僕が一番好きな南部家に関わる歴史事件「岩崎一揆」に関してのお話から始めようかと思います。
完結まで少し長くかかりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。
なお、()内は僕がつけた注釈です。




意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(1)
*和賀薩摩守滅亡と長男又次郎、次男又四郎の事

<和賀兄弟、秋田仙北に潜居する>

 奥州各所でたびたび一揆が起こった原因を考えると、過ぐる天正18年(1590年)、前(さき)の関白秀吉が関東の北条家を討伐するために、相模国へ下向したことにあるといえるだろう。
 このとき後難を慮り、配慮を巡らす者たちは皆おのおの小田原の陣所へ赴き、秀吉に拝謁して挨拶を入れた。しかし、奥州の白川、石川、葛西、大崎、斯波、和賀等の豪族は関白を侮り、爪弾きにして参陣しなかったのが不覚であった。しかも、すでに小田原を落城させた秀吉が、大軍を率いて奥州へ向かっていると聞いた途端に、昨日まで後ろ指を指してあざ嗤っていた国人たちが、驚き慌てて戦争の準備に取り掛かる姿は、浅ましいというほかなかった。
 関東に威を揮った大大名の北条氏さえも没落して、その首を軍門へ晒したというのに、どうして田舎の小城に引きこもる者たちがひとたまりもあろうか。彼らは皆居館を落とされ、あるいは討死し、あるいは捕らえられて獄死しないということはなかった。

 このとき、奥州和賀の領主・和賀薩摩守義忠は名代として一族の鬼柳清三郎を差し向けたが、すでに秀吉の名代である豊臣秀次が下野国宇都宮へ着陣していたため参礼を許されず、虚しく引き返してきた。斯波家も名代として稲藤大炊左衛門を向かわせたが、同じようにこれも馳せ帰ってきた(注・奥州の高水寺斯波氏は天正10年に南部信直へ攻められ滅亡しているので、この時点では存在しない。したがって明らかな誤りである)。
  関白の先鋒が関東から奥州へ着陣するとたちまち各所の小城を攻略し、討ち滅ぼしながら下ってきたため、和賀薩摩守の居城・二子城もたまりかねて、一門郎党足軽の端々に至るまで散り散りに深山幽谷へ落ち延び、身を潜めて一時の難をまぬがれた。
 そうしているところへその年の冬、大崎・葛西に一揆が起こって、和賀・稗貫家へもその旨の内通があったため、薩摩守義忠は家臣を集めて兵を挙げ、上方の代官・浅野勝左衛門重吉がこもる鳥谷ケ崎城を攻略して再び和賀地方を取り戻したが、翌年の九戸政実攻めの際、討伐軍によって二子城を攻め落とされた。薩摩守義忠は城を脱出し、沢内へ赴く途中で折悪しく討死した(注・仙人岳をを超える際、土民の待ち伏せにあって殺害されたという)。
 これにより義忠の二人の子息、長男の又次郎と次男の又四郎は秋田の仙北へ逃れざるを得なくなり、昨年も世話になった及川大学、島森左馬之助などの旧臣へ匿われて月日を過ごすことになった。

 やがて文禄元年(1593年)、太閤秀吉が朝鮮を征伐しようと、諸国の軍勢を招集した。これによって奥州の大名小名、高家も区別なく招集に応じて上方へ馳せ上がった。このとき和賀又次郎・又四郎兄弟は仙北の奥地・小松川村に身を潜めていたが、この噂を聞いて良い機会だと思い、密かに上洛して朝鮮へ渡り、軍功を挙げて旧領を許され、本領を安堵してもらおうと考えて、あちこちへ隠れている累代の家来たちと相談し、およそ30人ほどの人数で仙北を出発した。
 十数日かけてようやく下野国までたどり着いたが、兄の又次郎が急病に倒れ、様々に看病したけれども回復せず、享年19歳ではかなくも死んでしまった。弟の又四郎はまだ14歳で、前後もなく泣き叫んだけれどもどうすることも出来ず、兄の遺体を近くの山寺へ引き受けてもらい懇ろに葬った。
 そこで家来たちが言うには、
「なんとも酷いことになってしまいました。これではご上洛なさっても先が思いやられます。ここは仙北へ引き返して時節を待ちましょう」
ということであった。又四郎も兄に死なれ、今はこの家来たちの他に頼るものもないので、
「とにかく今は、お前たちの意見に従うべきだろう」
と泣く泣く仙北へ引き返し、虚しく月日を送ることになった。
 世の落人の倣いで、外部の者を卑しんで親しまず、ところのものは後難を恐れて疎んじたのでたつきを立てることも出来ず、わずかに命を草の露に繋ぎ、ワラビを採り雪を飲むほど生活は困窮した。今は付き従う家臣も小原左馬之助、筒井縫殿助、猿橋弥八の三人の他にはない。横手の小野寺家へ仕官した及川大学、島森左馬之助は旧好の者だが、今は他家へ仕える身であり、何を持って和賀を援助してくれる理由があろうか。こうして仙北の住まいも立ち行き難いと思われたため、かつて陸奥胆沢郡の主であった柏山中務明宗の居城であった大林へ転居し、世の動静を窺うことにした。
 これは故・薩摩守義忠と柏山中務が内縁のちなみによるもので(注・義忠の妹が明宗の妻だったらしい)、今は柏山家没落のあとではあるものの、所縁の者が多かったことが理由ということだ。

2017-09-22 23:48 | カテゴリ:歴史
東北地方の戦国時代について書かれた軍記本「奥羽永慶軍記」を購入しました。
購入したのは秋田市の出版社「無明舎出版」が発売している新装復刻版です。
どうやら以前は昭和40年代に新人物往来社から出ていたようです。
正規に購入すると約1万円という高額本なのですが、幸いというべきかヤフオクで古本が出品されており、それなりのお値段。
ただし珍しい本ですし資料性も高いものなので、出品価格も決して安い値段ではありませんでした。
本当はそれを買うつもりで用意した資金ではなかったのですが、出品覧を目にした途端に矢も盾もたまらず、半ば衝動的に購入してしまいました。
それが今日手元へ届いたというわけなのですが、中に赤ボールペンによる線引などは数箇所あれどもそれ以外は状態もよく、すこぶる満足しております。
「奥羽永慶軍記」の存在は以前から知っていましたし、様々な研究資料に参考として文章が断片的にあげられているので、内容にもいささか目を通したことはあったのですが、改めて「本」と言う形で読んでみるのは初めてのことです。
いやあ、これが実に面白いのですよ。
読んでいるとついつい時間を忘れてしまいます。
江戸時代中期成立の本ですので中身は小難しい文語体で、言い回しも時代がかって回りくどい部分が多くて多少辟易とさせられますが、却ってそれがいい味になっています。
気が向いたら、南部家関連の部分だけでも現代語訳して、このブログへ掲載したいと考えています。
久しぶりに良い買い物をしました。

2017-09-20 15:33 | カテゴリ:雑記その他
遅い昼飯を食べつつミヤネ屋を何気なく見ていると、ビルマの…いや、ミャンマーか?スーチーさんが国連で演説したとか言っている。
スーチーさんがあれほど大騒ぎして国家代表だか大統領だかになったのに、ロヒンギャの虐殺が云々かんぬんと騒ぎ立てているが、ビルマにもスーチーさんにも全く関心がないワタクシに致しますと、スーチーさんがそれだけの人物だったってことではないんですかね。
こう言ったらアレですけど、結局はスーチーさんは、
「おれたちの利権を認めない軍事政権はけしからん!(基本的にビルマ国民のことはほとんど考えていない)」
って騒いでた欧米に
「自由(耳障りは良いが、怖い意味も内包している言葉ですよね)」
の旗頭として神輿的に担がれていただけで、実際に政治を司る能力はそれほど高くなかったということではないのでしょうか。
今回の国連演説とか、ロヒンギャとやらへの対応を見ていると、そんな気がします。

以上は私の見方ですが、もしかしたら根本的に間違いで、スーチーさんが非常に優秀な政治家なのかもしれません。
その場合は所詮戯言でありますのでお許し願います。

2017-09-17 01:00 | カテゴリ:雑記その他
ガンダムのザクはなんで右肩に盾がついているんだろうって昔から不思議でした。
右肩に盾が付いていたら、右手で武器を扱う以上、盾で身体をかばいながら闘えないじゃないですか。
あれは左肩についているべきですよ。
そう思ってウィキペディアを調べてみたら、もともと大河原さんはちゃんと左肩設定だったらしいですね。
それを設定画の関係上右肩に描いてしまったら、それがそのままになってしまった、ということのようです。
だったらそろそろ正しい形に直してもいいのではないの?
…と思うのですが、もう手着しているものを覆すのって難しいですよね。
ガンダムオリジンでしたか、あれで安彦さんが直してくれるかと思ったんですけど、案に相違してそのままでしたw
「ガンダムに合体機能はいらない」
「モビルスーツは兵器なんだから、対人兵装が内蔵されてないのはおかしい」
「兵器なのにプロポーションが重心高すぎだ」
とか、安彦さんがインタビューでモビルスーツに対する不満点をグタグタ言ってるから、きっと直してくれるもんだと思っていたんですけどねえw
でもシャー(w)専用の旧ザクなんかの写真をググってみたら、ちゃんと左肩に縦を「はめて」いるんですから、なんだかなあと。

2017-09-15 19:25 | カテゴリ:雑記その他
おそらくここをご覧になっておられる方は数人しかおられないだろうと思いますが、皆さんご無沙汰しております。
久しぶりの更新となります。
機構もかなり秋めいてまいりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私は無為な日々を過ごしています。
久しぶりの更新となりますが、早速ながら、ここ最近のいささか思うところを書きたいと思います。

Twitterなどを見ておりますと、時々こんなつぶやきがリツイートされるなどして回ってまいります。
「あなたの描くキャラのここが間違ってる!」
「正しい○☓の描き方はこうだ!」
「正しい◯☓描き方講座」
など、そういうたぐいのものです。
それは一体なにかというに、他人の絵のあそこが間違ってるとか描き方の根本がなってないとか、絵の上手な人がアドバイスを入れるというものですね。
ときどきpixivにもいますけど、いずれ場所を問わず、僕はそうした講座みたいなものを見る度に猛烈な違和感を覚えます。

というのは、僕は基本的に、絵に正否はないと思うからなのです。
全てはその絵の描き手の感性なのですから、他人が正しいとか間違ってるとか指摘していいはずのものではないはずです。
確かに、その絵の「個性」に対して好き嫌いがあることは当然でしょうが、変だ!おかしい!といい切ってしまっていいものではないでしょう。
それを「ここをああしろ」「そこをこうしろ」と間違いを無遠慮に指摘して、講座を名目に自分の感性を押し付けるのはよくないです。
僕にも絵柄とか描き方の好き嫌いはありますが、自分の感性に合わないものは極力見ないように努めています。
フジテレビの社長じゃないけれども、嫌なら見なければいいだけです。
だけどわざわざ、あんたの絵は嫌いだ!ここをこうしろ!とか言わないですし、言うつもりもないです。
自分の感性に合わないだけで、そういう方の絵が他の方に受けていることはよくありますし、ヘタをするとその方がプロだったりもしますしw
別に絵で飯を食っているわけでもないんですから、絵なんて好きな様に描けばいいだけのように思います。

以前
「あなたのチビキャラはここが間違っている!正しいチビキャラの描き方講座」
などと題して、SDキャラクターの描き方を纏めたものをTweetに流している方がおられました(そういうことをしようとするくらいだから、絵はすごくお上手でしたよ)。
ところが、それを見たデフォルメキャラの大家・ここまひ先生がご自分のTweetで、
「SDキャラに法則とかないんですよ。みんな好きに描けばいいんです、SDキャラなんだから、自由です」
と返しておられて、さすが分かってらっしゃるものだと感激しました。
僕がここまひ先生のファンだということもあるんでしょうが、やはり長年SDキャラの第一線で活躍してこられた方は分かってらっしゃるんですよね。

繰り返しますけど、絵はどう描いても何を描いても自由と思います。
絵を描かれる方々にはご自分の感性を、他人の感性に基づく「指導」で縛られないでほしいものです。