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管理人が気ままに綴っていくお気楽ブログ。閑古鳥の巣。

意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(16)

*筒井縫殿助、討たれるの事

<農民軍団、筒井を討つ>

 和賀主馬介忠親の家臣・筒井縫殿助という者は、和賀川上流の奥山・太田という所へ逃れ潜伏していたが、岩崎籠城に利を失い事が敗れた場合には、主君・忠親を迎えて再び旗を上げようと考えて、かねてより城郭を構築して備えていた。
 それにもかかわらず、この度忠親は伊達政宗の世話になって岩崎城を退出し、仙台へ向かってしまった。しかし、もし出世の道が絶たれた場合にはここでまた旗を上げればよいと思慮を巡らし、岩崎の敗残兵を三百余人ほど集めて立て篭もり、忠親の命令を待っていた。
 けれどもこの縫殿助という男は、常日頃農民たちを虐待し無情の振舞いが多かったため、農民たちには加勢したり、援助を申し出る者もなく、逆にこれは良い機会であるから縫殿助を殺して褒美に預かろうと相談する始末で、早速花巻城の北松斎へ報告した。これを聞いた北松斎は、
「よくぞ報告してくれた。速やかに筒井を討ち取ってくるのならば、褒美は望みのままに任せよう」
と答えたため農民たちは喜んで、川尻より上の村々にその旨の連絡を回したところ、一人残らず馳せ集まってきた。

 さて、この太田という場所は険しいことで知られており、どの方向にも人馬が侵入できるような道がなく、中でも正面は仙人峠と言って動物ですら通行に苦労するような難所のため、容易に攻略できる場所ではない。それより奥は、範囲こそ狭いとはいえ南北百余里(注・東道里なので約65キロメートル)のところに村や集落が満ちて田畑を耕作し、兵糧や馬の飼料にも困ることはないという場所である。それにも関わらず、これは筒井縫殿助の無道な政治によって内側から起こった敵なので、防ぐ手段などあるわけがなかった。

 こうして二、三千人の農民、しかも土地慣れした者たちが四方から城を取り囲み、弓鉄砲を射かけ、鬨の声を上げて攻め寄せた。筒井の兵も必死に防戦したが、農民たちは全く平気で、親を討たれ、子を殺されようとも怯むことなく八方を打ち破って切り入り突き入り攻撃したため、城中の者はあるいは殺され、またあるいは重傷を負って自殺するものもあり、一日と経たないうちに皆殺しにされて城は落城した。この後は和賀の眷属もすべて無くなったため反乱を起こすものもなく、南部領は平和に治められた。

 さて和賀忠親は浪人時代に住んでいた仮屋で家臣の娘とねんごろになり、一人の男子をもうけていた。岩崎籠城の際はまだ二歳であったが、忠親が仙台へ赴きほどなく殺されたと聞いて、女は和賀の奥水尻というところで自殺した。そのため男子は乳母が養育することになった。和賀の農民たちは団結してその存在を南部の目から隠し、昔の殿様だとかしづいたので、秋田の仙北にいる和賀普代の家臣たちも、いずれ出世していただきたいと時節を待ったが、江戸幕府が政治を執るようになって以降は日本全国に平和が満ちたためその機会もなく、ここに忍びあそこに隠れると言った具合であったが、後はどうなってしまったのか、その行方も知れなくなってしまった。

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意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(15)

*南部の岩崎城代の事

<柏山伊勢守明助の善報>

 南部信濃守利直は岩崎城の反乱軍が退去したあと、野田掃部、大鎚孫八郎、江刺長作、厨川兵部を奉行として城の修繕と改築を進め、客人格の柏山伊勢守明助を城代に置いた。

 この柏山は葛西家の浪人で、葛西七党と呼ばれた胆沢の城主・柏山中務少輔明宗の子である。
 かつて天正18年(1590年)に没落し、あちこちに転居していたが、その頃大崎・葛西氏の浪人たちが度々一揆を起こすため、新しく葛西・大崎旧領の領主になった伊達政宗は、各地の農民たちへ褒賞を出して浪人を殺させていた。政宗はこの柏山伊勢守も危険視し、胆沢の農民へ金銀を与え討ち取って来るように言い含めた。
 胆沢の農民たちも、
「かしこまりました」
と答えて金銀を受け取ったが、それをすべて伊勢守へ進呈し、その上内談一決して伊勢守を助け南部領内へ送り届け、その後で、
「柏山殿を討ち取ろうと準備を進めておりましたところ、いつの間にか逐電して行方をくらませてしまいました」
と政宗へ報告した。
 これは柏山父子はともに領内へ善政を布き、胆沢の農民たちに慕われていたためのことである。南部の一族・北松斎はこの事実をよく知っていたので伊勢守を客人と仰いでもてなし、今は領境を守備するという非常に重要な役職を預けたのである。

 胆沢の農民たちが伊勢守を助けたことは後に政宗の知るところとなったが、
「あっぱれ、なんと頼もしい農民たちの振舞いであろう。これも全く柏山一族の政治が正しかったゆえである」
と言って、農民たちの罪を許した。

意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(14)

<家康、一揆を裁定する>

 江戸の旗本・大矢小右衛門は徳川家康の言いつけで、松前藩まで鷹を購入しに行く途中であったが、偶然この地を通りかかり、この有様に驚いて利直の陣を訪ね、
「この戦いは一体何事でしょうか」
と事の次第を尋ねたため、利直は和賀兵乱の経緯を詳しく語って聞かせた。大矢はこの話を聞いて、
「私は鷹の購入を命じられて奥波島(注・北海道)に渡る途中でありますが、実はその途中でこのような異変があった場合、すぐに報告するようにという密命も受けております。兵乱が治まり天下統一が成し遂げられた今となっては、たとえ私的な戦闘であってもご公儀への反逆と捉えられてしまいます。もしどうしても討たずにおれないというのでしたら、この事実を江戸へ申し上げ、その指示を仰いでから安心して兵をお出しになるがよろしい。仙台の家来・水沢、岩谷堂、前沢の者たちが一揆に協力していることは、私がこの目で見たことでありますのですぐに江戸へ報告しますから、今はひとまず軍をお引きなさい」
と言ったが、利直はこれを聞き、
「貴殿の仰られることはいちいち道理にかなっております。しかしながら、敵を自分の領内に放置したまま兵を引くなど軍を起こした甲斐はなく、武士の恥にもなりましょう。世間は私を嘲笑するでしょうが、貴殿はそれをどのようにお考えになりますか」
と尋ねるのを、大矢が重ねて言うのには、
「そのことでしたら、不肖ではありますがこの私が証人になりますので、貴殿を嘲笑させません。とにかくこの一件を書面にしたためて江戸へ送ります。貴殿の家来を一人、使いとしてお貸し頂きたい」
として、一揆の詳細を手紙にしたため、井伊兵部少輔直政の下へ送ることにした。その使者として一条助兵衛が選ばれて江戸へ送られ、利直は4月26日に帰陣したため、大矢は松前へ渡っていった。

 さて、南部家臣・一条は夜に日を継いで江戸へ駆け上り、井伊の屋敷へ駆け込んで直政に対面し、事件の趣旨を語りつつ大矢の手紙を差し出すと、それを読んだ直政は即刻家康の前に出て、南部からの訴えと大矢の書面について詳しく報告した。
 家康はこれを聞き、
「それは間違いなく伊達政宗の策略であろう」
として伊達屋敷へ使いを出し、
「この度陸奥国において、和賀主馬介忠親とかいう者が南部信濃守利直に対して一揆を起こしたそうだ。これにより利直は鎮圧軍を出したが、数十日かけても落城しない。貴殿の命令によって白石若狭守、大内備前守、母帯越中守などという者たちが一揆の後詰を勤めて加勢しているのは明らかで、これは反逆と同じである。天下の平穏を乱し、定法に違反した罪科は決して軽くない」
と詰問したところ、政宗が恐縮して答えるには、
「私は天正19年(1591年)以前まで米沢に住んでおりました。和賀も米沢も同じ奥州ではありますが、距離は東道で六百余里(注・東道里は一里が約650メートル。したがって六百余里は約390キロメートルに相当)も隔たっておりますので、対面したこともございませんし、また血縁や親族というわけでもございまません。同じ年に岩出山を賜りまして、和賀とは距離が縮まりはしましたが、私が米沢から岩出山に転居する以前に和賀薩摩守義忠は滅亡しておりました。主馬介忠親はどうやらその息子のようでございますが、これまで一体どこへ隠れ住んでいたものでございましょうか。私はその行方も存じませんでしたが、昨年石田三成など逆心の輩が挙兵したのに乗じて一揆を起こしたのだと聞いております。私が何の理由で、このような没落者に協力しなくてはいけないのでございましょう。家来どもが勝手に協力しているようでございますので、家康公のご不信はごもっともでございますが、私は全く存じませんことでした」
と陳謝した。家康は政宗のこの弁明を聞いて、
「さては白石、大内、母帯などという輩は何かよんどころのない事情があって、、和賀忠親に頼まれ加勢せざるを得なかったものと見える。とにかく、貴殿は早急に国元へ帰り、事の始末をつけよ」
と言えば、政宗は、
「かしこまりました」
と答えて奥州へ下った。

 国元へ戻った政宗は遠藤出羽守を使いに出し、忠親に、
「この度、貴君が岩崎城へ籠城して南部殿の所領を奪い取ろうとしていることは、まったくもって傍若無人の振舞いである。最近の九戸政実の滅亡を見るがいい、もしこのことが江戸の公儀へ聞こえれば、即刻討伐の大軍が下ってくるだろう。そうなれば、最早どこにも逃れるすべはない。すみやかに和賀を撤退し、私の屋敷へ来なさい。折を見て訴訟を起こせば、累代の本領を安堵されることは間違いないのだから、その辺りは万事私に任せておくように」
と伝えたため、城を枕に討死と覚悟を決めていた和賀忠親も簡単に騙されて岩崎城を開城したので、籠城していた浪人たちもみな散り散りに去っていった。

 わずか二十余騎の部下を伴って仙台へ来た忠親を、政宗はかねて遠藤出羽守へ命じておいた通り、すかさず大軍をもって取り囲み、居城の松山へ押し込めた。政宗も忠親を助けてやろうと考えていたけれども、内府家康に睨まれているため仕方なく、国内において8月下旬に暗殺し、その首を江戸へ送った。その際に殺されたのは和賀主馬介忠親、八重樫孫十郎、筒井喜助、蒲田宗規、斎藤十蔵などである。晴山茂兵衛は松山において行方不明になったという。

意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(13)

*和賀主馬介忠親、討たれるの事

<伊達の援軍、岩崎で敗れる>

 和賀忠親がこの度一揆を起こし、南部を討ち取ろうと企てたのは自分一人だけの力ではなく、伊達政宗の家臣、白石、母帯、大内三人の力を頼りにしたためである。しかし今、寄せ手は井楼を上げて城中の様子を覗い、総攻撃の構えを見せているように思えたため、忠親は使者を送って母帯、白石、大内に後詰を依頼した。三人の者たちは、
「今は江戸の内府公が天下統一を成されたので、この戦いは私闘になるだろう。私闘に加担したことが江戸に知れれば主君・政宗様も後難を被ることが考えられるが、一度言い出したことを今になって取りやめるのは道理が立たない」
と考えたため、
「心得ました」
と返事をして、早速準備に取り掛かった。この事を胆沢の農民が柏山伊勢守へ告げたため、南部勢が偵察部隊を出して監視していたところ、4月4日の早朝に相去の方角から後詰の先鋒隊百余騎が、朝霧の晴れ間に幟をひるがえしつつ現れた。利直は昨夜のうちから手配していたことだったので、大光寺左衛門正親と乙部長蔵が百余騎を率いて、岩崎の搦手・下中島に待ち伏せていた。

 敵は白石若狭守宗直の家臣で鈴木将監重信という隠れない豪の者で、先徳寺の前にある五代坂を下り、千刈田の後から夏油川原へ駆け下りて岩崎城へ入城しようとしたところへ、乙部・大光寺の伏兵が鬨の声を上げて討ってかかった。敵も同様に鬨を上げげ迎え撃ち、両軍入り乱れ命を惜しまず戦った。南部利直は旗本三百余騎を率いて、敵の退路を断つべく石名坂を駆け上り、三右衛門坂の上へ馬をとどめた。
 鈴木将監はこれをきっと睨みつけ、
「敵の大軍に前後を挟まれては、どこにも逃げ場などない。ただここで討ち死にせよ」
と言って先陣を切って戦ったため、味方が多数討ち取られた。
 ときに葛西家の浪人で富沢日向守入道幽斎は萌黄縅の鎧を着て、葦毛の馬に跨り、先祖伝来の白鷺という名の太刀を佩き、将監の姿を目にして駆け寄ったが、将監は少しもひるまず、
「白石若狭守の家来・鈴木将監重信、歳を重ねて43歳」
と名乗ると馬を並べてむんずと組み合い、二人は夏油川の水中に落ちた。しかし鈴木は水泳が得意でなかったのであろう、川底でついに首を掻かれてしまった。
 屍は波に沈んでも、名前は長く語り継がれ、武を九泉の先に輝かせる。
 鈴木の家来たちは主人の首を敵に渡してなるものかと次々に水へ飛び込み襲いかかったため、さしもの幽斎も危うく見えたが、乙部・大光寺勢が現れて防戦したので、幽斎もすんでのところで死をまぬがれた。
 
 鈴木重信の家臣で浜田甚助と言う者は、主人を殺されおめおめと逃げることができようかと、乙部長蔵に討ってかかった。乙部は部下の人数を左右に開き、押し包んで討ち取れと命令したが、そこへ今が最後の時と思い定めた兵二十騎ほどが乙部勢を割って入り、四方八方に斬って回った。その隙に浜田甚助は乙部へ近づいて、逃がすものかと槍を合わせた。
 乙部は鉄砲で鎧の佩楯(はいだて。注・太腿から膝にかけてを防御する部分)を撃ち抜かれていたが、物ともせずに戦った。しかし、ややもすれば遅れを取って危うく見えたところに、折り合わせた大光寺勢が大勢で攻撃したため、敵は甚助を始め一騎残らず討ち取られ、わずかに生き残った雑兵たちも四方八方に逃げ散って行った。
 
 白石若狭守は小平の辺りにまで来ていたが、早くも先鋒隊が壊滅したことを知り、また南部勢が大軍で進路を遮ったためこれに気をくじかれて散々に敗北し、水沢へと逃げ戻った。利直が追撃をかけたため、白石勢は小平から相去の里まで雪崩を打って潰走し、次々に討ち取られた。その首数が九十三を数えたところで利直は軍を返し、本陣へ引き上げた。
 母帯越中守は岩谷堂から百余騎を率いて出撃したが、途中で白石勢の敗北を知り、勝ち目はないと思ったのであろう、三照の渡しから引き返していった。

意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(12)

<和賀勢、岩崎城を死守する>

 利直は岩崎城の南にある七折という場所を本陣とし、城と対陣した。
 岩崎城に立て篭もった者たちは、鬼柳伊賀守、同清三郎、煤孫下野守、黒岩月斎入道の嫡子・帯刀、鴇田信濃守、毒沢伊賀守、安俵小五郎、晴山隼人、同茂兵衛、江釣子民部、願念隠岐守、更木主水などである。
 従者は筒井縫殿助、、同喜助、斎藤久右衛門、同十蔵、八重樫孫十郎、小田島の一族で都鳥、河原田、小原の一党。
 与力には根子内蔵助、同周防守、同待仲、大迫又三郎、同又左衛門、八重畑入道休心斎、その他稗貫家の旧臣を始めとして、各所の落人や浪人たちが集まって総勢四百八十余騎、雑兵一千余人が各門の虎口を固め、寄せ手を今や遅しと待ち受けていたので、どのような猛勢の攻撃を受けようともたやすく落城するようには見えなかった。

 同13日、寄せ手は城を三方から包囲し、鬨の声を上げた。その声は山彦に答え松風に和して、山河をどよもすほどであった。城中でも予想されていたことなので同じく鬨の声を作り、互いに矢合わせを始め、あるいは鉄砲を撃ち合い、またあるいは兵を出して槍合わせに及び、いずれ劣らぬ激戦を繰り広げた。
 同17日、城攻めを開始しようとしているところに突然大風が吹き、草木をことごとくなぎ倒した。陣屋も破損して、旗、馬印、帷幕などが宙に舞い上がることおびただしかった。寄せ手三陣の備えに属していた岩清水右京義教の乗馬は長さ五寸(注・15センチ)に余る口の精強な名馬であったが、この風に驚いたのか突然狂ったように駆け出し、岩清水が止めようもないまま大手の門際まで突進していった。すると枡形の中から淵柳五郎右衛門が現れて、大薙刀で岩清水の乗馬の前脚を斬り払い、落馬するところをすかさず兜の真っ向を打った。しかし攻撃が内側まで達せず、岩清水右京も刀を抜き合わせて戦い始めたところへ、城中より八重樫美濃守の弟・休心法師が加勢に現れたため、岩清水右京はついに討たれてしまった。休心がその首を掻き落とし、淵柳は武具を分捕った。そこへ主人に遅れて岩清水の家来たち十余人が駆けつけたが、この有様を見ると城内に討ち入っていき、一時に全滅してしまった。
 城の大将・和賀忠親は両人を訪ね、
「今日、敵方一手の大将を討ち取った功績は抜群である」
として、休心には鬼柳のうち論田村を、淵柳には黒沢尻のうち宮守村を与えるという自筆の証文を与えた。 
 寄せ手は岩清水が討たれてしまったため、東彦八郎、轟木長右衛門、厨川兵部、江刺長作、小船戸小太郎、朽木彦次郎、中島左兵衛、同源内、岩間次郎之助、同三六を始めとする三百騎余りが突撃するのを城方では撃退し、それを繰り返すこと三度に及んだ。これにより双方に多大な死傷者が出ることになった。

 かつて高水寺斯波氏の家臣であった山王海太郎は、今は南部家へ仕官していたため、寄せ手に加わり大萱生玄蕃の陣に属していたが、かねてより敵陣に内通していたのか、夜中に味方の陣を忍び出て岩崎城へ入城した。利直に恨みはないが、和賀忠親とは没落した者同士のため、かつてのよすがを偲ぶ一心で寝返ったという話である。敵になった山王海太郎は、南部勢の作戦や陣立てを余すところなく和賀忠親に話して聞かせた。それのみならず大手の櫓へ上り、大声で言うには、
「どうだ利直、日頃お前は人形芝居を好んでいるから、これを見て長陣の鬱憤を晴らすがいい」
と木を刻み糸を引いて老人を象り、皺や白髪を着けた人形を一つ取り出して、拍子を取って舞わしながら、
「合戦はこれと同じようなものだ」
と言って城方全員で嘲り笑った。利直は遠目にこれを見て、
「あれは何事か」
と尋ねた。城の近くにいた者たちがこのような次第です、と報告すると、利直はこれを聞いて、
「なんと憎い山王海の振る舞いか。これもすべて陣屋の組の油断である。あの者は大萱生の陣組で、小屋敷修理と同じ組であったな」
と、小屋敷にも不審をかけた。小屋敷は、自分の油断から山王海を逃したことに責任を感じていたため、必ず山王海を自らの手で討ち取らねばならぬと思い、組頭の大萱生へ、
「あの人形芝居をもう一度見たいとお申し出ください。山王海が現れたところを鉄砲で討ち取ります」
と言った。大萱生は、
「分かった」
と家来を出して、
「先程の人形芝居は実に面白かった。どのような方が演じておられたのですか。もう一度見物したいのですが」
と大声で呼ばせた。山王海は、
「心得た」
と言いながら人形を持って、
「さあどなたも拍手拍手」
と櫓の上に姿を現した。もとから小屋敷は作戦通りであったため、鉄砲を取り直してどうと発砲した。無残にも山王海太郎は胸板の中央を射抜かれ、二言も発せずその場にがばと倒れて死んだ。利直は大いに喜んで、栃内栗毛という名馬を小屋敷へ与えた。

 こうして3月13日に攻城し始め4月の上旬まで攻撃をかけ続けたけれども、城中は全く弱る気配がなかった。利直は北松斎入道信愛、桜庭安房守直綱、楢山五左衛門義実、大光寺左衛門正親の四人を呼び、
「日頃城の様子を観察すると、これは和賀忠親一人の力によるものではない。仙台の伊達家の加勢があるために堅固に籠城していられるのであろう。それにしたところで、このような小城を陥落させることが出来ぬまま、ただ日数ばかり過ぎていくのは悔しい限りだ。そこで明日は総攻撃をかけようと思う」
と言った。北松斎がこれに答えて、
「おっしゃるように城中は少しも意気消沈する様子はありません。しかしながら、全国で旗を上げた徒党は現在残らず滅亡しましたため、将来を頼むものもなく、忠親のために伊達殿がただ加勢をしているようには存じられません。まずは井楼(せいろう。注・偵察用の望楼)を作り城内の様子を偵察し、それから総攻撃へかかればよろしきかと存じます」
と言えば、利直もこれに答えて、
「もっともなことだ」
と、日戸(ひのと)内膳、江刺長作の両人に井楼の制作を命令した。両人は了解して、西野で刈り取っておいた萱を取り寄せ、制作に取り掛かった。城中ではこの様子を見て、内部を覗かれてはならぬと井楼に向かって幕を張り立て視界を遮蔽し、只木五兵衛、岩崎弥右衛門は櫓に上り火矢を放って井楼を二つ三つ焼き払った。けれどもとても防ぎ難く、結局井楼は完成し、南部勢は対陣より密かに抜け道を作り、城内攻撃の機会を窺った。

 さて、ここに胆沢郡の農民がいた。元は柏山伊勢守明助の領民で、現在は仙台領の農民であったけれども明助の旧好を忘れずにおり、密かに明助の陣へ来て、
「明日、水沢、岩谷堂、前沢の軍勢が後詰となって、南部勢を攻撃しようと企んでおります。くれぐれもご油断なさいませぬように」
とだけ告げて胆沢へ帰っていった。柏山はこれを聞いて、
「あの農民の志は偽りではない」
と感じたので、家来の折井嘉兵衛を北松斎の陣へ使いに出し、これを報告した。松斎は大いに喜んで、折居を伴って利直の前に出ると、この話を詳しく語った。利直はこれを聞き、
「よく知らせてくれた」
と、嘉兵衛に褒美として関兼辰(せきのかねのり)の太刀を与えた。その後、明日現れる伊達の後詰を撃破するために軍略を巡らせた。

意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(11)

*南部利直、再び岩崎城を攻めるの事

<岩崎二度攻め>

 さて、年が明けて慶長6年(1602年)を迎えると、南部信濃守利直は、北松斎入道を盛岡の城へ招いて岩崎城攻略の軍議を開き、また領内に動員令を発令して兵を集め、軍備を整えつつ雪が消えるのを待った。
 程なくして春になり、利直は3月3日、軍勢を率いて花巻城へ向かい、同月9日、岩崎城へ向けて出陣した。かねて定めた通り、先手は大将・桜庭安房守直綱、八戸右近直政、大光寺左衛門正親、毛馬内権之助政次、野田掃部助政親、大湯五兵衛昌忠、浄法寺修理重好、種市中務光徳、梁田大学影光。
 二陣は北松斎入道信愛、江刺長作隆直、口内彦次郎、小船戸小太郎、鈴木逸景、中島才兵衛、岩間長兵衛、中島源内、佐藤権兵衛、岩間三六、四戸宇膳、戸堀坂惣兵衛。
 三陣は東彦八郎、岩清水右京義教、轟木長右衛門、帷子豊前、厨川兵部、大鎚孫八郎政貞。
 四陣は南馬之助、北彦介、北九兵衛、楢山五左衛門義実、葛巻角右衛門、中野吉兵衛康実。
 五陣は黒母衣衆十騎、下田治太夫、毛馬内三右衛門、石亀七左衛門、中市吉左衛門、浪岡伊勢、鳥谷大炊、石川仁右衛門、黒沢十兵衛、中島勝左衛門、石川伊賀守。
 六陣は赤母衣衆二十七騎、金切裂(きれ)衆十二騎。
 団扇役は月舘隠岐守、麾役は目時筑前守。貝役は久慈備前守。太鼓役は吉田源四郎。その他騎馬百三十余騎、武者奉行は沢田助三郎、内堀伊豆守頼式。
 与力の兵には柏山伊勢守明助、奥寺右馬之丞、富沢幽斎武光、山王海太郎。
 以上、総勢五千三百余騎の大軍勢は昨年のように三月田で休息を取ったあと、和賀川を渡河しようとしたものの、折悪しく雪解け水で増水しており、とても渡りようがないように見えた。
 果たしてこれはどうすれば良いものかと利直は思案したが、北松斎が使者を寄越して、
「この川は午の刻(注・昼12時前後2時間)以降になりますと、山々の雪が一気に溶けて流れ込みますので、おびただしく増水します。したがって朝には少し落ち着きましょうから、今夜はここに宿営されるのがよろしきかと存じます」
といった。利直も、
「もっともなことだ」
と言い、その夜は神楽坂三郎左衛門という親切な農民の屋敷に宿泊させてもらうことにした。

 明けて10日、昨日と比較すれば水かさは落ち着いたように見えたけれども、何しろ春3月のことであるから風もうららかに暖かく、仙人岳、駒ケ岳などの山に残る残雪も解けて流れ落ちたため、水が両岸へ広く開け、流れは瀬にあらがって激しく波打っており、中国の三峡の上零灘、贛州の十八灘にも劣らぬように見えた。
 利直は、
「この付近に川の案内を知るものがいるはずだ。探してきなさい」
と命令したところ、元は和賀薩摩守義忠に仕えていた長沼兵部という老人が進み出て、
「日頃よりこの川の水は、水涸れの際には歩いて渡ることも出来ますが、ご覧になりますように渓流でありますので、川底には大小の岩があり波が自然に高くなるのです。阿武隈川、北上川のような大河ならば渡りようもありますが、この川は容易には渡れないかと存じます」
というところに八戸左近が、
「この川の先陣を承ります」
と手綱を掻いぐり、逆巻く波にさっと馬を乗り入れた。これを見て五千余人の騎馬武者・足軽たちは遅れを取ってなるものかとばかりに水へ飛び入り、我先に川を渡り始めた。大勢の人間に水が堰かれて下流はさらに浅くなったので、軍勢は難なく対岸へ上陸し、武具から水を滴らせ、各々の旗や馬印を春風にひらめかせつつ煤孫の寺坂を駆け上り、兵野舘に陣取った。

意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(10)

 
<南部利直、岩崎城を攻める>

 そうこうしているうちに、南部信濃守利直は九月下旬に最上を出立して、急ぎ本国の三戸へ帰陣して軍勢を整え、花巻に向けて出陣した。盛岡に三日間滞在したあと花巻へ移り、北松斎へ対面して、速やかに和賀一族討伐の作戦をを練った。
 十月十八日に花巻城を発って江釣子の三月田(さなだ)に宿陣し、長沼の瀬を渡って岩崎の西・兵野舘に本陣を置き、岩崎城と対陣した。偵察部隊を出して城の構造や防備を探らせ、しばしの時間を置いたあとで、鉄砲を撃ちかけて攻撃を開始したが、城方でも兵を出し、様々な防備を巡らせてこれを防いだ。戦闘は十月二十三日から始まり、足軽同士の小競り合いが連日のように続き、時々は両陣営から五十騎、百騎と人数を出して槍を合わせたりしたけれども、戦闘開始後二十余日を経過しても城方の勢いは全く衰えることがなかった。
 そうこうしているうちに大雪が降り、人馬の進退も満足にできないほどになったため、利直は年内の城攻めを諦めて、来春雪が溶けるのを待ち再び攻撃することに決め、十一月十六日に軍勢を引き連れて花巻城へ撤収した。
 和賀忠親は伊達政宗の力を借りて花巻城を攻めれば勝利は疑いないと考えていたものの、すでに西国では関ヶ原の合戦が収束し、石田三成を初めとする逆心の輩はすべて討ち滅ぼされ、天下は江戸の内府徳川家康の手に収まったことを聞いていた。これによって家康へ奉公する大名たちは、我々をとりあってくれなくなったことだろうと遠慮して、政宗へ使いを送ることもできなかった。
 こうして双方心外な心持ちのまま、慶長5年(1600年)は暮れていった。

意訳・奥羽永慶軍記 岩崎一揆(9)

*和賀忠親の岩崎籠城と南部軍の活躍の事

<和賀主馬介忠親、岩崎城に籠城する>

 さて、和賀忠親は暫くの間飯豊へ身を隠し、それから相去へ移って様々に計略を巡らせたものの、妙案は一向に浮かばなかったため、伊達政宗の家臣で水沢の城主・白石若狭守宗直へ使者を出して言うのには、
「去る13日の夜、花巻城に兵が少なくなったところを見計らって夜襲を決行しましたが、根子内蔵助がかねてよりの示し合わせを破って独自行動を取ったために失敗し、同十五日には花巻城に敵の援軍が加わって逆に攻撃され、岩田堂で激しく戦いましたが、味方が少数でしたので残念がら敗北を喫しました。しかし、和賀郡岩崎城の復旧工事を急遽行いましたので、できるだけ早く籠城したいと考えております。しかし兵糧の用意が十分に出来ておりませんので、是非ご援助頂きたいのです」
と言って送った。
 白石若狭守はこれを聞いて使者に向かい、
「ご依頼の件は承知しました。今回に限らず、ご要望があればいつでもお引き受けしましょう」
と、大変頼もしい返答ををして、兵糧の他にも鉄砲、弾丸や火薬などを丁重に送り届けた。
 前沢の城主・大内備前守はここ最近会津から帰陣したばかりであったが、この事情を聞いて金子や鳥目(注・穴の空いた銭)などの軍資金を送った。また、岩谷堂の城主・母帯(もたい)越中守も、兵糧に馬や武器を添えて送り届けた。
 和賀郡の農民たちは、昔の殿様が再び旗をお挙げになったと大喜びして、我も我もと岩崎の城へ駆け込んで、大量の米穀を運び入れたため、物資は充実し何一つ不足はななった。
 これにより、和賀の農民たちの大部分が岩崎城へ籠城して、南部へ年貢を納めようとしなくなったため、藩庁にとって由々しき大事に発展した。
 

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新田佳奈

Author:新田佳奈
ハンドルネーム:BAD
別名「新田佳奈」。
「にったかな」、ではなく「しんだかな」と読んでください。
岩手県盛岡市在住。

一次創作でイラストや小説を作っています。
最近はIllusionのHゲーム「ハニーセレクト」でキャラクターを作ったり、スクリーンショットを撮って遊ぶことが多いです。
ただし大したものは撮れませんが…(^^;)。

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