2016-10-06 11:56 | カテゴリ:歴史
先日までの暑さもどこへやら、朝晩は布団をかぶらなければ寒くて寝られないくらいの気候になってきた盛岡です。
秋が日毎に深まりゆくのを身をもって感じるわけでありますが、秋の夜長はやはり読書…ということで、Amazonにて数冊の文庫本を購入。
Amazonの便利なところは、地元の書店で売られていないような書籍でも、場所の遠近を問わずに注文購入できる部分だと思います。
地元の実店舗を完全否定するわけではありませんが、欲しい本が気軽に手に入るというこの「ネット書店」という環境はもっと賞賛されても良い部分ではないでしょうか。
実店舗で欲しい本を注文購入すると、どういうわけか1ヶ月位時間がかかりますし、それなりに手間もかかります。
色々な場所で識者が指摘するように、多々問題もあろうかと思いますけれども、少なくとも幼い頃から欲しい本が地元の店舗になく悔しい思いをしてきた自分のような人間にとっては、ネット通販というシステムは大変ありがたいものです。

ちと話が横に逸れましたが、購入した本は三毛別羆事件を描いた「慟哭の谷」「羆嵐」、現代マタギと言えるハンターが著した羆猟の記録「羆撃ち」、そして「私残記 大村治五平に拠るエトロフ島事件」の4冊(私残記のみ絶版につき古本購入)。
何故かすべて北海道関連の本なのですが、別にこれという意図があって購入したわけでもなく、読みたいものを集めてみたら北海道づくしになってしまった、ということです。
これらを少しずつ読み進めていますが、なかでももっとも興味深いのが「私残記」です。

私残記とは一体なにかというに、江戸時代も後期に差し掛かった頃の南部盛岡藩士・大村治五平(おおむら じごへい)という人が書き著した本です。
その江戸時代も終わりに近づきますと、諸外国の船が日本へ近づいてくるようになりました。
中でももっとも顕著であったのは帝政ロシアで、北海道へ南下して略奪を働いたり、通商条約締結を幕府へ迫って騒ぎになるなど(プチャーチンでしたかゴローニンでしたか)、この時期の日露関係は一触即発の状態になっておりました。
これに頭を痛めた幕府は、この時点で直轄領としていた北海道の警備を、同じ寒冷地である東北諸藩へ押し付ける妙策(?)を打ち上げ、警護の人数とお金を拠出するように東北諸藩へ命じます。
気候変動に依る凶作続きで米が採れず財政が逼迫していた(当時はお米をお金に換えていた)諸藩にとっては大迷惑な話でありますが、幕命には背けません。
我が盛岡藩も10万両の大金を無利子で借用することを条件にその命令に従うこととし、藩士たちを北海道へ派遣しました。
大村治五平も、そんな北海道警護に回された藩士の一人です。

治五平は盛岡藩の砲術師範で、銃砲火薬の専門家。現代で言えば砲兵部隊の隊長兼教官と言ったところです。
加えて剣術と居合術の免許皆伝を若くして得た一級の武人であり、更には達筆で絵画にも秀でる文人でもありました。
いわばスーパーマンみたいな武士なわけですが、31歳の折大病を患って隠居し、その後は病気の治療と趣味に生きてきたという人です。
北海道へ派遣された際には58歳になっていました。現代で言えば58歳なんてまだ若いうちですが、当時の感覚としてはもういい歳の老人です。そんな人がいきなりほとんど開拓の手が入っていない荒野の北海道へ行けとか言われ、精神的にも肉体的にも相当堪えたことは想像に難くありません。
いずれ、この人は函館から海路を用いて択捉島へ渡り、そこに新しくできたシャナという街を警護することになったのです。
ちなみに、この時警護の隊長を担当していた数名の幕臣たちの中に後に有名になる間宮林蔵がおり、また択捉と北海道や本州を物資や手紙の運搬などで結んだのが司馬遼太郎の小説で有名な高田屋嘉兵衛です。
治五平はそこで多くの仲間達(盛岡藩士以外でも同じくして派遣されてきた津軽藩士たちや、下働きをなどをする装丁と言われる人たちも含めます)と生活を続けますが、ある日ロシア人たちが船で攻めてきて、戦闘になります。
これがいわゆる「択捉戦争」です。
勿論、当時最新式の武器で武装したロシア人に日本の武士が敵うはずもなく、日本勢は敗走して山へ逃げ込むのですが、その中で唯一人治五平はロシア人に立ち向かい、捕虜になってしまいます。
その後治五平は開放されますが、江戸表へ送られて幕府より厳しい尋問を受け、その後は盛岡へ移送されて「生きて虜囚の辱めを受けた」として藩からの追求を受けました。
その後は蟄居処分となり幽門の内に悶々として61歳で亡くなった…というのが大方のプロフィールなのですが、この「私残記」はその蟄居中に、治五平が書き残した書物なのです。

私残記は門外不出とされ、子孫の間にこっそり受け継がれてきたといいますが、盛岡の人で直木賞作家の森荘已池という人が(宮沢賢治のマブダチで詩人としても有名)奇縁でこの本を大村家の人間から託され、識者の協力を得て現代語訳し、解説を付けて一冊の本としてまとめました。
それが今回購入した中公文庫の「私残記 大村治五平に拠るエトロフ島事件」という本です。
この本が、すこぶる面白いのです。
エトロフ島事件についての大まかな説明は先のとおりですが、何しろ治五平は事件の当事者であり、実際に捕虜としてロシア船に乗せられた人ですから、記述自体は簡素にまとまっているものの、文章の中には非常なリアリズムがあふれています。
内容はエトロフ島の地図に始まり、当地の情景、どのような産物が採れる、事件の前後における自分や周囲の人間の動向などを記されています。中には、ロシア人の当時の風俗や飲食物などを描いた絵(治五平が描いたものです)もあります。
それらは歴史好きにとっては実に興味深く、当時の生きた人間の姿が垣間見えるため面白いものなのですが、そうした興味とはいささか別の部分で感じるのは、この著述そのものに「なぜ自分がこんな目に遭わねばならなかったのか」という治五平の思いが込められている事実です。
決して、真実を書いて後世に残し伝えようという崇高な使命感ではないのです。
明らかに愚痴であり、無念の思いであり、また怨念にも似たどろどろした感情です。
それは「私残記」というタイトルにも表れているようにも思われます。
自分たちの指揮を執った幕臣たちの横暴と彼らがいかに無能であったか(間宮林蔵を含める)、同じ盛岡藩士でも讒言によって治五平を陥れた奸佞の輩がいたこと、抜け荷という不正に手を染めて恥じることを知らない装丁、限りなく粗暴で残虐なロシア人たち。
そしてそんな人間に従い、その挙句捕虜となり、虚偽の報告や讒言によって卑怯者へ貶められてしまった悔しさ、おめおめと虜囚の身になった自分自身への怒り。
自分では「どうしようもなかったことだ」と半ば諦観を込めて語っている割には、60に近い老武術家のそうしたマイナスの感情の一切がこの本に込められているのを感じ、読後ちょっとやりきれない気持ちになりました。

しかし、治五平がこの怨念に満ちた上下二巻の書物を残しておいてくれたおかげで、現在にいたるまでの日露修好史が完全に補完されたとも言います。
編著者の森荘已池によれば、エトロフ島の歴史については幕府側の記録が曖昧なものしか残されておらず、頼りにするべきはロシア側の資料のみでしたがそれもイマイチ信用性に欠けるため、当時の外務省から日露修好史の編纂を依頼された歴史学者の人は大いに困ったそうですが、この私残記の発表により、パズルのピースが嵌まるように歴史の記録が繋がったとのことで、大いに喜ばれたそうです。
それが事実とすれば、治五平が残した書物によって埋もれかけていた日本の歴史発掘へ大きな貢献がなされたことになるわけで、あの世の治五平も苦笑しつつも喜んだのではないでしょうか。

この本は、予期せぬ大事件に巻き込まれてしまったその当時の人間の心情や択捉島の歴史を知る歴史書としても、極限状態で見せる人間の滑稽で哀れな姿を読み取る人間観察の本としても面白いですし、おそらく第一級の歴史資料となり得るものと思います。
それが幕府の役人ではなく、一介の田舎武士の老人によって書かれたという部分も何やら皮肉めいたものを感じずにはいられません。「史書に史実なし」ともよく言われますが、ある意味それを地で行く本だとも思います。
現在絶版となっていますが、このまま埋もれさせるには絶対にもったいない本です(昭和47年発行ですからね…)。
日露関係が何かと話題に上る昨今だからこそ、再出版されることを切に祈ります。
ちなみにAmazonでは古本を安く購入できますし、図書館へ行けば置いてあるところもあろうかと思われます。
歴史好きの皆さんや北海道の方は是非お手にとって読まれてみてください。







関連記事
スポンサーサイト

管理者のみに表示する

トラックバックURL
→http://newbadtaste.blog.fc2.com/tb.php/1190-955dc23f