2016-10-19 16:05 | カテゴリ:歴史
横川良介の「内史略」という書物に、会津藩士にまつわるちょっと面白い逸話があるので、ご紹介しよう。

文化五年(1808)の1月、幕府より蝦夷地警護を命じられた会津藩は厚岸、択捉、国後の防備に就くべく国元を発ち、陸路任地へと向かった。
その間奥州道を北上し南部領盛岡城下へ入った際、会津兵は三段の構えを布き騎馬のものはなく、部隊長始め全ての隊士は徒士行(かちゆき。歩兵のこと)であった。
部隊長は裁付袴に陣羽織、陣笠に真紅の総角(あげまき。房飾りのこと)を背に垂らし、その前後左右を陣羽織に陣笠、陣太刀姿の部下が取り巻き、鞘を払った槍を銘々に引っさげて隊列を組んだ。
鐘や法螺、陣太鼓などの軍楽隊が後列に控え、三段の総勢千人余り、威風堂々の勇姿であった。
宿に着くと合図の太鼓を打ち鳴らし、法螺貝を吹いた。
このように隊伍は極めて立派であったが、会津の蝦夷地派遣部隊は奥蝦夷の気候にやられて、その大半が死に至ったそうだ。

その道中、彼らが仙台領水沢や金ケ崎の宿へ至った際、そこの商人たちは
「ここから向こうの方は実に辺鄙なところだし、なんでも不自由な上に高値で、旅行中に使いたいものでもなかなか手に入らない。この辺で買っておいでになったほうが良いでしょう」
と口々に言って彼らを騙した。
そんなことは夢にも思わぬ会津兵たちは、それはもっともなことだと、草履、草鞋、鬢付け油、本結(もとゆい。チョンマゲを縛る紙製の紐)、煙草の類に至るまで買い込み、荷駄につけて盛岡藩領花巻宿まで先に送った。
一隊が花巻に入るとその繁華なことに驚き、町人に
「ここが盛岡か?」
と尋ねた。
町人が
「ここは花巻です。盛岡の御城下はここから8~9里も先です」
と答えると、彼らは口々に笑って
「盛岡城下が左様に大きい訳がない。そなたらはなぜ我々を騙そうとするのか」
と言って信じなかったが、その後実際に盛岡城下へ到着してみると繁華且つ街の規模が広大なことに仰天し、しかも万物不自由なく流通して何を買うにも事欠かず、その値段も水沢、金ケ崎より全て下値であったため、初めて欺かれたことを知り、立腹しながら伊達人の狡さを宿の主人へ話して聞かせたそうだ。

また会津は海がない藩なので、川魚以外に生の魚というものがなかった。
海の魚は他領より持ち込まれる干物程度のものだったので、それに代わるタンパク源としてイナゴ、ガムシ(川虫)、川海老などを捕らえ、炒り煮(佃煮)にして食事のおかずとしていた。
このイナゴなどを捕らえるのは子供の役目とされ、城下では一升で12文ほどの値段で普通に売られていたらしい。
ちなみにこの炒り煮の作り方には上中下の三制があり、上は上等の醤油と氷砂糖を用い、中は醤油と白砂糖、下は醤油を使わず黒砂糖のみを用いて作ったらしい。
会津は同じ武士であっても身分制度が厳しい(羽織の紐や刀の下げ緒の色で身分が区別できるようにしていたそうだ)ことで有名だったので、もしかしたら上製の炒り煮は殿様や上士しか食べられなかったかもしれない。
さて会津藩士たちが盛岡で休息を取った際、そのうちの数人が六日町から石町(現在の清水町から南大通近辺)にかけての旅館へ宿泊した。
旅館の前には魚屋があり、会津藩士たちは旅館の二階からその店先にいろいろな魚が並んでいるのを物珍しげに眺めていたが、やがて旅館の亭主を呼んで、
「あの店先に並んでいる赤い魚はなんという魚で、どうやって食べるのだ?そして値段はいかほどするのだ?」
と尋ねた。
亭主は答えて
「あれは赤魚(あかうお)という魚でこの頃たくさん捕れます。味噌汁や醤油汁、焼き物など勝手自在に食べることが出来ます。値段は大きさによって甲乙ありますが、大体百文も出せば2、3匹は買うことができるでしょう」
それを聞いて会津藩士たちは喜び、
「それは安い。ではこれで買ってきて料理してくれ」
と500文ばかりを出し、12、3匹も買い求めさせ、
「これを味噌汁で丸煮にしてくれ」
と頼んだ。
亭主は仰天して(赤魚はメヌケとも言い、深海棲の相当に大きな魚で、普通は切り身にして食べる)、この魚をまるごと煮るには大鍋に入れて煮なければならないので云々と答えると、それでは料理した鍋のままここへ持ってきてくれればよいと言われたため、仕方なくそのようにすると、会津藩士たちはそのまま鍋を囲み、手盛りにしてたちまち食い尽くしてしまったそうだ。
北海道で会津藩士たちが次々に死んでいったのは、北海道の厳しい気候や環境もあったであろうが、普段食べ慣れないものを美味しいからと言って万事このような調子で食べ続けたことが少なからず体調に影響を与え、病気のもとになったのだろう、と横川良介は書いている。

会津藩士と言えば林権助や萱野権兵衛、別選隊の佐川官兵衛などの豪傑や、彼らが活躍した戊辰戦争の凄惨な戦闘というイメージが先立って、無骨一辺倒なイメージがあったのだが(偏見かもしれないが)、ここに描かれたそこらの田舎武士とあまり変わらぬ振る舞いに微笑ましさや、なんとはなしの親近感みたいなものを感じてしまった。
言うまでもなくこれは当たり前のことなのだろうが、やはり彼らも武士である前に普通の「人間」だったのだ。
ちなみに盛岡には類まれな槍の達人で、秋田戦争で名を轟かせた青木俊介という会津出身の武士がいたのだが、その人のことについては日を改めて書きたいと思う。



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