2016-10-25 02:22 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集 「志和家のこと」
(前注・人名の「詮」はアキと読む)

 足利泰氏の長男・足利尾張守家氏の四代目の子孫は、斯波尾張守高経といった。
 その高経の弟で斯波伊予守家兼という人は、足利宗家の征夷大将軍・足利尊氏に仕えて奥州探題となり、陸前国大崎城を居城とし、大崎左京大夫と名を改めた。

 奥羽両国の政治や諸事を代々預かったが、五代目の子孫・大崎左京大夫持兼の次男に左衛門佐教兼という人がおり、この人が明応元年(1492)に陸中国志和郡の地頭職に任じられ、教兼の長男・左兵衛尉詮高が志和郡へ下向した。
 詮高は志和郡の高清水城に居住し、その息子・治部少輔経詮は通称を孫三郎といい、志和郡内をよく統治した。

 その息子の民部少輔詮真という人は、通称を孫三郎といい、天文十四年(1546)になって領土拡充を図り、岩手郡へと出兵したが、岩手郡の諸豪族は三戸の南部氏より援兵を得て応戦し、斯波軍は形勢不利となって撤退した。
 元亀二年(1571)、南部家の家臣・石川左衛門高信が岩手郡の諸豪族を味方につけて志和郡まで攻め入り斯波軍と会戦したが、斯波方は惨敗を喫した。これよって斯波家の武威は大いに衰えた。

 詮真の後を受けて息子・孫三郎詮基が家督を継いだが、わがまま勝手で政治を顧みず、放蕩の限りを尽くした。
 この詮基の姉の婿に、高田弥五郎康実という者がいた。高田弥五郎は南部氏の武将・九戸政実の実弟で、天文十四年の合戦における南部家との講和条件のひとつとして、詮真は弥五郎の身元を引き受けることになり、娘を与えて斯波一門に加えることを余儀なくされた。
 詮基はかねてより弥五郎と不和であり、彼を殺そうと図ったため、弥五郎は領地の高田から脱出して南部氏に投降し、岩手郡の中野館に居住して中野修理康実と名を改めた。
 修理は石川高信の内命を受け、密かに斯波の臣下と会見を重ねた。斯波の重臣たちの中には簗田中務詮泰・岩清水右京義教など、修理に加担して主家を欺く謀議に加わるものがおり、その数は次第に増えていったが、詮基はこれに気が付かず日々を驕奢放逸に過ごして人望を失った。
 細川長門・稲藤大炊・岩清水肥後義長などがこれを諌めたがまったく取り合おうとしなかったので、諸臣は詮基の命令をきかなくなった。
 この時を計って中野修理は、今こそ志和を手に入れるべきですと主君・南部信直に進言したため、天正十六年(1588)、信直は軍を率いて三戸から出陣した。岩手郡の諸豪族はこぞって信直のもとへ馳せ参じ、その魁となって高清水城を包囲した。南部方の本陣は陣ヶ岡に設営された。
 斯波方は多数の家臣が南部家に投降したため防戦の術もなくなり、孫三郎詮基も夜陰に乗じて逃走したので残兵は散り散りになって、抗戦して主家に殉じたのはわずか二、三人に過ぎなかった。
 それより詮基は大ヶ生玄蕃秀重の館に潜み、慶長五年(1600)になって南部利直に仕えて五百石を与えられ、名前を詮直と改めた。
 慶長十九年(1614)には大坂の陣へ従軍したが、かつての旧臣の下に立つことを恥じて家禄を返上し、そのまま京都に上って浪人となった。その息子の孫三郎は公卿の二條家に仕官し、斯波式部少輔詮種と名乗り、諸大夫の列に加わったそうだ。

<志和諸臣>
(前注・信直=南部信直、利直=南部利直、政直=南部政直。利直の次男、松斉=北信愛。南部家の家老)

雫石和泉久詮   (一族 後に松斎に仕えて三十石)
雫石弥右衛門久資 (久詮の子 五十石)
雫石東膳吉久   (久詮の弟 政直に仕えて九十石)
猪去蔵人久道  (一族 松斎に仕えて五十石)
猪去蔵人基久   (久道の子)
岩清水肥後守義長 (忠義の人で討死した)
細川長門守    (忠義の人で討死した 家老)
稲藤大炊助    (忠義の人で討死した 家老)
工藤雅楽允茂道  (天正十六年に討死)
工藤茂右衛門茂正 (茂道の子 利直に仕えて二十駄)
貝志田主馬允 
永井八郎延明   (天正十六年に討死)
永井理右衛門通延 (延明の子 政直に仕えて五十石)
貝志田与三
大迫右近
大迫又三郎
大迫又左衛門
十日市将監光久
伝法寺右衛門
徳田掃部
煙山七郎     (主君に従い没落した)
日沼隼人
見前監物
松原半十郎
堀切兵庫助
藤沢花五郎
白沢百助
室岡源兵衛
細越五左衛門
鵜飼主膳正
鵜飼又十郎
鱒澤刑部丞
太田主殿助秀広
太田民部秀氏   (秀広の子 政直に仕えて三十石)
太田長三郎政巴  (元は和賀家の浪人)
豊間根内記秀國
曹木田十郎兵衛
川村中務
川村覚右衛門秀徳 (松斉に仕えて百五十石)
川村作内秀満   (政直に仕えて四駄二人扶持)
川村喜助
矢羽々又左衛門正紹
矢羽々内膳正英
矢羽々内膳正資  (利直に仕えて五十石)
日戸典膳秀勝
日戸藤六
中村作兵衛秀峰
大川与左衛門基則
大川勘之丞基房  (利直に仕えて十駄)

<志和主家に叛いて中野修理康実に加担した人々>

大萱生玄蕃秀重 (河村四郎秀清は源頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、文治年中{1185~1189}に志和郡を腸って以後代々地頭職を務めた。 明応{1492~1501}頃より家が衰えはじめ、斯波家に臣従し重臣となった。秀重は秀清の十六代目の子孫。中野修理の謀略には加担せず、天正十六年の斯波家滅亡の時になって中野の勧めにより降参した。旧領六百五十石を安堵された)

大萱生長左衛門秀春 (秀重の子)
川村右近秀久   (秀重の二男)
江柄兵部少輔
川村豊前秀久   (信直に仕えて百石)
江柄九郎兵衛次昌 (秀久の子)
江柄斉宮助
手代森大夫秀親  (主家に叛いて信直に仕え五百石)
手代森内膳
中村作右衛門
栃内左近秀綱   (三百石 主家に叛いて信直に仕えた)
杤内源右衛門秀晴 (左近の子)
栃内宮内
簗田中務詮泰   (主家に叛いて信直に仕える 家老となり千石)
簗田大学勝泰   (中務の子)
星川左馬助
岩清水右京義教  (千石)
岩清水蔵人義因  (右京の子)
清水善七郎
乙部治部義説   (千石 主家に叛いて信直に仕えた)
乙部長蔵義廉   (治部の子)
乙部兵庫助
大釜薩摩政幸   (主家に叛いて信直に仕えた 五百石)
大釜彦右衛門政綱 (薩摩の子)
大釜惣八郎良重  (同じく二男)
多田孫右衛門忠綱 (主家に叛いて信直に仕える 四百石)
達曽部弥兵衛清綱 (多田忠綱の子)
氏家弥右衛門義方 (六十石)
長岡八右衛門詮尹 (主家に叛いて信直に仕える 千石)
長岡内蔵助央武  (八右衛門の子)
玉井庄兵衛
宮手彦右衛門英清 (主家に叛いて信直に仕える 三百石)
宮手彦三郎清貫  (彦右衛門の子)
飯岡弥六郎祐貫  (七十石)
中島内膳安将   (主家に叛いて信直に仕える 三百石)
中島源内安晴   (内膳の子)
中島備前入道
小屋敷権之助義長 (主家に叛いて信直に仕える 二百石)
小屋敷修理長和  (権之助の子)
大巻隼人
山王海太郎    (主家に叛いて信直に仕える)

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