2016-10-27 01:28 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)2
「岩手郡のこと」

 大昔は居住するものとてなかったこの土地だが、大同年中(860~810)坂上田村麻呂により奥州の蝦夷が征伐されて後、次第に人が住むようになった。
 しかし強きが弱きより強奪略取するという風潮が残って世情は穏やかならず、一条天皇の御代になって朝廷に従わない蝦夷の胡が朝廷に反旗を翻した。これを安東太郎国東が鎮撫し、その息子・太郎頼良は陸奥国司(陸奥権守)となり、領地として隣郡を拝領し、その子・安太夫頼時の代になって奥州半国、出羽二郡に勢力を及ぼした。

(訳者注:安東太郎国東はおそらく俘囚長の安倍忠良、その息子・太郎頼良は安倍頼良のことを指していると思われる。ここでは安太夫頼時が頼良の息子とされているが、正しくは頼良の改名)

 彼は永承年間(1046~1052)に朝廷へ反旗を翻して源頼義の追討を受け、天喜五年(1058)、流れ矢に当たって死亡した。その嫡男・厨川次郎太夫安倍貞任は岩手郡の厨川城に住んでおり、挙兵して大いに討伐軍と戦ったが、康平五年(1062)になって滅亡した。
 その後、朝廷は功績のあった出羽の住人・清原真人武則に六郡を賜った。寛治年中(1087~1094)、清原家が朝廷に反旗を翻したが、源義家がこれを征討し、このとき軍功のあった権太夫藤原清衛に六郡を賜った。その五代目の子孫である伊達次郎泰衛まで岩手を領していたが、文治五年(1189)源頼朝が奥州征伐に乗り出して、泰衛は滅亡した。このとき、頼朝は奥州各地を軍功のあった御家人に分配した。
 
 その中に伊豆の住人で工藤庄司景光の子・工藤小次郎行光というものがいたが、この人が岩手郡の地頭職に任ぜられ、名を中務丞に改めた。その息子・工藤中務太郎長光は建久年中(1190~1198)に岩手郡へ下向して厨川に住み、その子孫は代を重ねて、三代目は工藤中務丞徳光、四代は工藤小次郎繁光、五代は工藤小次郎光敏、六代は工藤主計允種光といった。
 また、初代の行光には弟がいて工藤三郎祐光といったが、彼もまた同じく岩手郡に住み、元弘(1331~1333)の頃から三戸の南部家に臣従して三戸郡坂牛村へ移住し、坂牛氏の祖となった。その分家は九戸郡に移り福田氏の祖なった。
 応仁年中(1467~1468)に工藤家から分流して南部家に仕え、九戸郡葛巻村に住んだものたちがおり、これが葛巻・田頭・穴沢・杉沢氏の祖である。

 元弘の乱(1331)が起こると諸豪族は南朝方の北畠顕家の軍勢へ加わったが、その後は南北の敵味方が日々変化して入り乱れ、互いに領地を収奪しあい、あるいは争いあって、滅びた家が数多あった。国人や郷士はみなそれぞれに一家をなして、郡主の命令に従わなくなった。
 このとき工藤家も衰退し、かろうじて厨川村のみを領するだけであった。そこで工藤氏は厨川と改姓して南部家に臣従した。厨川兵部少輔光林は行光から数えて十三代の子孫で、天文年中(1532~1555)石川高信が岩手郡へ出陣した際に服従し、諸豪族も残らず南部家に従った。光林は旧領の内八百石を安堵され、その息子・厨川豊前は幼名を小次郎といい、父の遺領百石を継ぎ、南部信直に仕えて度々戦功を重ね、慶長元年(1596)に百十一歳の高齢で亡くなった。
 その息子・厨川豊前如光は幼名を仁右衛門といった。南部利直に仕えて二百五十石となり、御使番を務め、元和二年(1616)に亡くなった。家督は二男が継ぎ、名を栗谷川仁右衛門友光といった。訳あって家禄没収となり浪人したが、南部重直の代に旧領のうち新田十五石を与えられた。
 厨川豊前如光は利直から別に召し出されて、煙山村に三百石の領地を与えられ煙山主殿光邦と名を改めた。その息子・煙山主殿光慈は二百石を知行された。二男は煙山七郎兵衛光弼といい、知行のうち五十石を分け与えられた。この人の子孫は今、八戸にいる。

<工藤一族と岩手の諸豪族>

厨川兵部光忠    (通称・一衛。兵部少輔光林の二男。利直に仕えて上関村に百石。後に領地替えとなり田頭村に三百石)
厨川作兵衛光伝   (光忠の子。領地没収)
栗谷川小次郎義茂  (光伝の子。七駄二人扶持。三戸に住む)
厨川兵衛光基    (光忠の二男。浪人)
栗谷川作兵衛満清  (光基の子。六駄二人扶持)
栗谷川五兵衛光房  (光矩の子。五十石) 
栗谷川五郎助光矩  (光忠の三男。浪人)
栗谷川右衛門光中  (光明の子。喧嘩騒ぎを起こし家禄没収)
栗谷川吉次光明    (光忠の四男。百石)
栗谷川兵右衛門光高 (光忠の五男。浪人)
上関右衛門光成    (一族。信直に仕える。百五十石)
上関源兵衛康光    (源右衛門の子。家禄没収)
上関右衛門正金    (源兵衛の子。家禄没収)
福士淡路守政秀    (甲斐源氏・板垣兼信の子孫。南部氏の甲州時代以来の家来で、岩手衆を従える。不来方城に住して信直に仕えた)
福士伊勢秀治     (淡路の子。百五十石。後に鵜飼村へ移住)
鵜飼宮内秀純     (福士秀治の子。君命により姓を鵜飼氏に改めた)
鵜飼治部右衛門秀路  (宮内の子)
福士右衛門
福士因幡
福士彦三郎
一方井刑部入道禅門  (安倍貞任の末裔で安東太郎盛季の子孫。出羽国秋田より岩手郡へ移住、代々一方井村に住した。石川高信に仕えた。娘は南部信直の母である)
一方井孫次郎安元   (禅門の子。信直に仕えて七百石)
一方井刑部少輔安信  (安元の子。丹後ともいう。利直に仕えた)
一方井孫次郎安行   (安信の子。大阪の陣へ従軍するが、元和三年{1618}に亡くなった)
一方井刑部安武     (安信の四男。九助安次が家督を相続した)
一方井九助安忠     (安武の子。百五十石となる)
一方井甚兵衛安定   (安元の二男。五十石。花巻に移住した)
米内丹後守政成    (一方井禅門の弟・米内左近宗政の息子。米内村に住んで信直に仕えた)
米内右近正吉     (丹後の子というが、実は一方井氏の二男。四百石を領し民部と称した)
米内右近正邦     (正吉の子。通称・孫二郎。二百石)
米内孫右衛門政忠  (正邦の子。実は松岡蔵人の四男)
米内出雲政連     (正吉の二男。通称・孫兵衛。利直に仕えて百石)
米内出雲政弘     (政連の子。通称・孫八)
米内孫左衛門正親   (政連の二男。七十七石)
米内丹後政恒     (政成の二男。孫十郎。利直に仕えて四百石)
米内孫七正堅     (政恒の子。家禄没収)
米内逸角
米内孫惣光政     (政連の三男。四駄二人扶持)
米内孫四郎政唯    (政連の四男。十三駄二人扶持)
米内孫之丞政春    (政連の五男。四駄二人扶持)
日戸内膳秀恒      (河村四郎秀清の末裔。宗家は志和郡の大萱生氏である。岩手郡日戸に住んだ。信直に仕えて千六百石。野辺地城代を勤め、寛永元年{1624}に亡くなった)
日戸内膳秀武     (秀恒の子。通称・五兵衛。千三百石。野辺地城代)
日戸内膳直秀     (秀武の子。通称・五兵衛)
日戸助三郎秀盛    (直秀の子。承応三年{1655}貝田沢で亡くなった。通称・五兵衛)
日戸仁兵衛秀春    (秀武の二男。御馬方。五駄)
日戸勘十郎秀親    (秀武の三男。百五十石)
日戸三十郎秀和    (秀武の四男。三十駄)
渋民利兵衛秀勝    (日戸の分家。信直に仕えて最初は助市といった)
渋民理兵衛秀吉    (秀勝の子。通称・助市)
渋民六郎兵衛政国    (秀吉の子)
河村小三郎直秀    (河村四郎秀清の末裔。 日戸・大萱生と同流である。岩手郡玉山村に住んで信直に仕え三百七十石)
玉山大和秀甫     (小三郎の子)
玉山兵庫秀久     (大和の子。通称・六兵衛。寛永四年{1628}に亡くなった)
玉山六兵衛秀之    (兵庫の子。二百石)
玉山監物秀隆     (小三郎の二男。浪人)
玉山弥右衛門秀邑   (監物の子。十駄二人扶持)
玉山庄之助秀安    (大和の二男。五駄五人扶持)
川口左近秀長     (玉山の分家。川口村に住む。信直に仕えて四百石)
川口与十郎秀影     (左近の子。通称・源之丞)
川口与十郎秀寛     (与十郎の子。八戸家の家臣)
川口主水秀信     (左近の弟。信直に仕えて百五十石)
川口主税秀定     (主水の子)
川口治部        (左近の二男。三十八石)
下田弥三郎秀祐     (日戸や玉山とは同流。下田村に住む。二百石)
下田内記秀邑     (弥三郎の子。家禄を没収され浪人した)
下田清之丞秀勝     (内記の子。四駄三人扶持)
沼宮内治部春秀     (下田と同じ流れ。沼宮内に住む)
沼宮内治部春久     (治部の子)
沼宮内治部久幸     (春久の子。子無きをもって断絶した)
沼宮内采女久秀     (春秀の二男。浪人)
沼宮内武左衛門秀昌   (采女の子。新田五十石)
沼宮内伊兵衛秀喬   (武左衛門の子。百石)
上田越前貞倚      (坂上田村麻呂の子孫。 代々岩手郡上田村に住む。応永{1394~1427}の頃より南部家に臣従し、天正年中{1573~1593}信直に仕えて三百石を安堵された)
上田弥兵衛貞方    (越前の子。家禄を没収された後十駄二人扶持を受け、花巻に住んだ)
上田弥七郎貞治    (弥兵衛の子)
上田九郎助清貞    (弥七郎の子。通称・弥兵衛)
上田采女貞就      (上田に住んだ)
上田伝之丞貞之     (采女の子)
上田太兵衛貞友    (伝之丞の子。家禄を没収された後、四駄二人扶持を受け、花巻に住んだ)
上田兵部忠武     (本姓は藤原氏。いつの頃からか上田村に住み、はじめは彦三郎といった。慶長二年{1597}利直に仕えて二百石。寛永年中{1625}に亡くなった)
上田兵部忠重     (兵部の子。通称・庄右衛門。家禄没収の後、二人扶持を受ける)
上田永宅福章     (忠重の養子。実は荒木田定次の三男。兵部忠重の娘が御老女{注:老婆という意味ではなく、奥向きの役職名}を務めたことにより、重信{四代藩主}の代に百石となる)
萄池勘解由武照   (肥前国の菊池氏の支族。いつの頃よりか岩手郡沼宮内に居住した。、天正年中{1573~1593}に信直に仕え、江苅内村に二十二石を受けた)
菊池久助武次    (勘解由の子)
菊池久助武定    (久助の子)
菊池某
矢幅又右衛門定政   (岩手郡下田村の郷士。矢幅甚右衛門政好の子。利直に仕えて百石。家禄没収の後政直に再出仕し、五十石。花巻に住んだ)
矢幅八右衛門愛政   (又右衛門の子。 百石)
矢幅八右衛門政武   (八右衛門の子。通称・治助。百六十石)
矢幅八兵衛政義    (愛政の次男。五駄二人扶持)
田口善五郎高藤    (岩手郡雫石に住み、利直公に仕える。田口子に百五十石。慶長十八年{1613}に亡くなった)
田口長松藤峯    (善五郎の子。家禄没収)
田口庄左衛門清藤   (庄左衛門の二男。十駄二人扶持)
田口弥左衛門藤好
鵙逸左衛門次郎    (岩手郡鵙逸村の住人。石川高信に従って岩手や志和の合戦で功績を挙げ、二百石。信直に仕える)
鵙逸弥五郎      (左衛門次郎の子。百石)
鵙逸弥五右衛門    (弥五郎の子。七十石)
鵙逸弥左衛門
帷子豊前吉平    (譜代の家臣・佐藤彦五郎真次の弟で新助綱直という人は、建武{1334~1336}の頃より主家の命令により岩手郡に住んだ。桔平はその十二代目の子孫で信直に仕え、帷子村を給わった)
帷次郎五郎吉真   (吉平の子。二百石)
帷多左衛門吉松   (吉真の子。三百石)
帷子惣右衛門吉明    (吉真の二男)
鎌田和泉
鎌田六右衛門政珍
舘市但馬
河原掃部
太田将監
南舘右京
元信弥六
浅岸弥五郎
橋場下総
阿部新右衛門
御明神右京
用沢甚右衛門

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