2016-11-10 00:17 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)5
津軽のこと

 奥州津軽郡はその昔、神武天皇が東国へ討伐軍を出して大和の長脛彦を滅ぼした際、長脛彦の兄弟の安日彦という勇猛怪力の輩を捕虜として、北海の外浜という場所へ追放したことから始まった。安日彦は自ら外浜を開拓し、人が住めるようにした。
 安日彦の数代目の子孫・安大夫頼時は、永承年中(1046~1052)奥六郡の主となり、朝廷に反乱を起こして源頼義の追討を受けたが、天喜年中(1053~1058)、流れ矢に当たって死んだ。その息子の貞任も兵を起こして大いに征討軍と合戦したが、康平五年(1063)に滅亡した。

 貞任の二男は名前を万千代といい、父が死んだ当時まだ二歳の子供であった。彼は先祖ゆかりの外浜に身を隠し、後に安東浦の藤崎城に住んで安東次郎高星と名乗った。
 その八代目の子孫・安東太郎尭恒は蝦夷の叛乱を鎮圧した功績により、建長二年(1250)鎌倉幕府の五代将軍・九条頼嗣に謁見し、初めて津軽一郡の安堵状を受け取ることができた。
 その三代目の子孫・安東又太郎尭勢は、嘉暦二年(1327)に争論を発端として叔父の次郎季長と合戦をするにいたり、季長はこれに敗北して岩手へ逃亡した。

 尭勢の息子・孫太郎尭季は南朝方に味方して戦ったが、建武元年(1331)に討死した。その弟・太郎貞季は北畠顕家に従軍して軍功を挙げた。
 その長男は安東太郎盛季といい下国(注・「延喜式」に拠る半島国のこと。ここでは津軽半島のことを差しているのだろうか?)に住んだが、その子孫は松前へ渡った。
 二男の次郎庶季は応永元年(1394)征夷大将軍・足利義満に謁見したのちに羽後国秋田湊に住居を移し、豪族の秋田城介顕任を攻撃して滅亡させ、その領地を併呑した。それをもって秋田城介庶季と名を改めた。
 元弘三年(1334)北畠顕家が陸奥国司でいる時に、津軽郡のうち大叔父・安東次郎季長の領地が欠所(注・無統治状態のこと)となっていることを理由にこれを領地に加えることを認められた。
 (注・記述の年代が大きく前後しているため、話に整合性が薄い)

 暦応二年(1339)北畠顕家が和泉国において討死をとげると、南朝方の勢いは大いに衰えた。顕家の息子は津軽郡行丘に逃れ、そこに潜伏した。正平年中(1346~1369)になって後村上天皇へ出仕し、大納言使別当顕成と称して行丘城に住み、その二代目は行丘御所親成と名乗ったが、官位は与えられなかった。三代目は後小松天皇の応永元年(1394)に勅命を受けて、大納言右兵衛督忠貞と名乗り、一万千二百町の地を領地として安堵された。四代目は左中将左衛門督俊具といった。五代目は式部卿具運といい、正室は南部三郎の娘であった。

 応仁の乱(1467)が勃発すると、諸国は騒乱状態となった。津軽も各所で一揆が勃発し世情は穏やかならず、南部一族の田子光康が津軽郡の堤ケ浦に移住して堤弾正左衛門と名乗り、一揆を鎮圧した。
 南部家の十九代目・彦次郎通継の三男・彦九即行実は、実は二十代目当主・信時の四男で、武略の人であったが、明応九年(1501)に亡くなった。息子の彦四郎経行は、津軽の藤崎堤ケ浦にある二階堂城を居城としたが、その息子・遠江守景行は大光寺城に居を移し大光寺と姓を改めた。その次が大光寺左衛門政(注・文字欠落)、その三男が大光寺弾正政栄、そしてその息子が左衛門正親である。津軽の民は大いに服従した。

 行丘御所六代目の大納言具永の時代になると、その武威は目に見えて衰えはじめ、家中も上士と下士が不和になり、裏切りや反逆を企む家来が増えていた。天文年中(1532~1555)、田子高信が津軽へ進出し石川城を居城として、石川左衛門尉高信と改名した。
 高信は大光寺一族などと協議して領民をよく統治し慰撫したため、行丘の家臣たちも次々に服従しはじめた。この年、具永が亡くなった。
 七代目を継いだ行丘御所具家は暗愚な上に疑り深い性格であったため、家臣たちには逆心を抱く者が多かった。忠義の者がこれを嘆いて諫言してもまったく取り合わず、驕奢放逸の日々を送り下々をないがしろにしたので、家臣たちは主君を見放した。すると叛臣がこの機に乗じて叛乱を起こし天正六年(1583)七月二十日、主君を押し込め密かに暗殺した。その息子は行丘太郎具愛といったが、この変事に際して逃走し行方不明となった。
 石川高信は石川城において天正八年(1581)に亡くなったが、大光寺一族を始めとする諸臣は後継者の彦次郎政信を補佐し、加えて北畠の臣下をも服従させたので、津軽はおのずから南部家の領地となり、政信は行丘城に居城を移した。

 北畠の一族には具運の二男・左純門顕忠、その息子・北畠左衛門顕則がいて石川高信に仕えたが、天正四年(1577)に討死した。その子・波岡勘解由顕と更にその息子・佐渡顕好は天正十八年(1590)に南部信直に仕えた。
 北畠顕家の息子・顕成の三男の子孫である波岡帯刀左衛門常業の息子・伊勢顕官は、天正十八年信直に仕えたが、二男の源左衛門親官は津軽為信に仕えた。
 俊具の二男・三代中務具氏は津軽を立ち退いて閉伊郡の袰綿村に住み、その息子は袰綿中務直顕と名乗って、天正十八年に信直に仕えた。
 忠具の四代目の子孫・兼平美作顕紹は主家に叛いて高信に仕え、さらに高信を裏切って津軽の臣となった。その養子である平八郎顕光は波岡顕元の二男であったため、兄と同じく為信と戦って戦死した。その際、平八郎は息子・喜右衛門家長を秋田の鹿角へ逃し、後に家永は三戸において南部家へ仕えた。

<北畠の臣下>

多田伊賀行義
多田四郎左衛門就義  (行義の子)
多田源三郎     (就義の子)
水渓右京綱親    (天正七年{1580}に討死した)
平賀肥後守
平賀石見守
三宅藤太左衛門高重 (忠臣。主君を諌めたが、勘気に触れ家禄を没収された。 主家の滅亡に際して戦死)
江流馬九郎左衛門
今井弥五郎
品川右衛門大夫宗祐 (天正四年{1577}に死んだ)
澤里上野介政忠
澤里十郎左衛門政隆
藤崎玄蕃      (天正七年に逆臣と戦い、戦死)
藤崎七郎
藤崎嘉助
金木弾正      (奸臣・鼻和田と口論し、切腹した)
高杉将監吉徳
高杉新兵衛吉方
大内出雲正延    (天正七年に逆臣と戦って戦死)
長嶺左馬助将連   (逆臣と戦うも不利を悟り、鹿角に逃亡した)
長嶺七右衛門将勝
川井紀伊守
川井左京政弥
外濱但馬守堅重
工藤主計助
猿賀彦右衛門宣次
外濱半九郎堅次
唐牛兵蔵      (主家が滅亡したのち、鹿角へ逃亡)
和田重助綱高   (主家が滅亡して浪人となる)
石渡修理
古舘右衛門
相川掃部
杉生大蔵
鼻和田宮内少輔  (奸臣の筆頭。主家が亡びたあと出奔した)
広戸備中
西野内匠

<石川高信に服従した人>

瀧本播摩守頼喜  (高信に仕えた。大光寺一族とともに津軽為信と戦い、戦死した)
下舘九兵衛為信  (津軽為信の奸計によって毒殺される)
土岐大和介則基  (津軽為信と戦って討死した。享年七十六歳)
下根杭日向守鎮元 (瀧本播磨守頼喜と同じく戦死)
猿賀喜斉宣勝
土岐善兵衛則重  (土岐大和介則基の息子。通称は舎人。天正十八年{1590}に討死した)
外浜将檻督政清  (三戸へ流れてきて南部家に仕えた。今渕氏と姓を改めた)
澤里十兵衛政金  (慶長八年{1613}に利直へ仕える)
乳井内記延則   (大隅守の次男。はじめは石川高信に服従していたが、後に南部家へ叛いて津軽為信に従った)
乳井大隅守正清
乳井伊豆守
乳井源左衛門
兼平実作守顕紹
松田大学助
蓬田太郎右衛門
大道寺隼人正
村山七左衛門
軽氏三左衛門
臺坂勘兵衛
原子平内兵衛
工藤久膳祐朝
川井筑前守正勝
川井左馬助正式
川井左京政弥
長嶺七右衛門将輝
 長嶺七左衛門将勝
 兼平平八郎家元   (三戸方に通じたと思われ、為信に殺さた)
 高田善八      (石川政信に殉死した)
 高田善七      (石川政信に殉死した)

(注・石川政信は石川高信の次男で正室の子。南部信直の腹違いの弟にあたり、兄が南部宗家の養子に入ったため嫡子として石川家を継いだ。津軽為信によって殺される)

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