2016-11-10 13:25 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)6
津軽右京太夫為信のこと

 南部家の始祖である南部三郎光行の六男・七戸太郎三郎朝実の子孫に、久慈備前治義という人がいた。その三男・久慈信濃為治には紀伊信長という子がいたが、為信はその息子で、はじめは久慈弥四郎為信と名乗っていた。

 為信は南部晴政に仕えたが、非常に悪賢くまた利口であった。津軽に進出して大浦に住み、大浦右京と名を改め、上にこびへつらいつつ日々勤務に精を出して加増を重ね、石川政信が波岡城代に任ぜられた際には、大光寺左衛門正親とともに補佐役を務めるまでに出世した。
 よく諸士の意見を取り入れ、領民に慈愛を施したため、政信の信頼を集めてその寵臣となったが、密かに大光寺正親を讒言した。政信はこれを信用してしまい、大光寺に反逆の企てがあるとして、為信を討手の大将として差し向け、大光寺城を攻撃した。
 正親は奸臣の手にかかって死ぬのは無念であると思ったものの、不意を撃たれた上に敵は大勢であったため、どうすることもできなかった。
 すると瀧本播磨守や下長抗日向守などの諸臣が、我々が敵を防ぎますから、あなたはひとまず城を脱出して、おのれの無実を三戸城へ訴えなさいと申し出た。正親は彼らの信義にまかせて津軽を脱出し秋田の大舘に身を潜めたが、瀧本・下長杭などはみな討死してしまった。

 その後は為信一人が差配役となって諸事を司り、行丘の北畠家諸臣と厚く交りを結んだ。為信は彼らを扱うのに金や領地などの実益を与えた。その姿には漢(注・中国の)の??(注・文字欠落)に似た趣があった。
 この頃南部家の有力家臣である九戸左近将監政実は、早世した宗家・晴継の後継者は自分だと考えていたが、思いがけず南部信直が後継者に就任したためはなはだ面白くなく、毎日を鬱陶しい思いで過ごしていたが、為信はそこにつけこんで逆意を進め、政実から叛乱の内応の約束を取り付け、九戸一族の久慈備前や櫛引河内などと徒党を組んだ。
 
為信は天正十六年(1588)に石川政信へ毒を盛り、三月十六日ついに毒殺してしまった。このとき、南部領内の方々で九戸一味が一揆を起こしており、三戸城ではその手配りに忙殺されていたため、ひとまず楢山帯刀義実と南右兵衛長勝の両人を波岡城代として津軽へ派遣した。
 しかし為信は城代二人を観察して、楢山は勇猛だが知略がない、南は才知はあるが勇猛さがないと看破した。そこで為信は南にわざと新役法の採用を進め、領民を搾取させて苦しめた。領民は困窮してついに一揆を企てたが、為信はこれを好機として一味を集め、波岡城を急襲した。
 事前の根回しどおり城中の諸臣は大方が為信に降伏したため満足な防戦ができず、三戸城に救援を頼んだが、三戸では九戸一揆にかかりきりだったため援軍を出すことができなかった。
 この戦いで浪岡城は落城し、下館九兵衛、土岐大和介則基、同善兵衛則里、汗石安芸守長重、同右近長定、同縫殿助長供、汗石杢助長降、同源三郎長範などが討死した。楢山帯刀と南右兵衛はからくも脱出し、三戸城に帰還した。
 こうして為信は野望を果たし、諸士に厚く論功行賞を施して、津軽四万五千石を押領したのであった。
 三戸城では九戸に同意・加担して反逆するものが相次いでいたため、津軽にまで兵を出す余裕がなく、歯噛みしてこれを見ているほかなかった。

 天正十八年(1590)九戸政実が宮野城に籠城したため、三戸勢はこれを包囲して攻城し、連日の激戦となった。
 このとき太閤・豊臣秀吉が北条を征伐するとして関東に下向したが、挨拶に参礼しないものは領地没収、征伐されるという噂が流れたため、為信はひそかに京都へ上り、つてをたどって前の関白・近衛前久を頼り、秀吉への口添えを嘆願した。前久はそれを承認し、為信を祖父・尚通のご落胤ということにして、藤原の姓と杏葉牡丹の紋所を与えた。
 為信は前久にしたためてもらった推挙状を持参して小田原の陣所へ行き、秀吉に謁見して津軽郡四万五千石の安堵書を授かり、従五位下右京亮の官位まで授けられて、首尾よく事を成し遂げて帰国の途についた。
 ところが、羽前国酒田のあたりで小田原へ向かう南部信直に行き会ってしまった。このとき、信直は怒って為信を討取れと命じたが、南遠江直兼が諫止したため為信を殺すことができず、為信は無事に帰国することができた。為信の家臣たちは大いに喜び、津軽一郡の百姓はみな彼に服従した。
 同十九年(1591)には秀吉の催促を受けて九戸城攻めに出陣し、文禄年中(1592~1596)には肥前名護屋の本陣まで部下百五十人を率いて参陣し、名を右京大夫と改め、弘前に新しく城を築てここに住んだ。
 慶長五年(1600)には徳川家康に従って関ケ原へ出陣し軍功を挙げ、上州の内二千石を加増となり、合わせて四万七千石の家禄を得た。
 同十二年(1607)十二月五日病死した。享年五十八歳。

<為信は慶長十二年十二月五日、五十八歳をもって京都で病没した。身の丈六尺三寸(注・約190センチ)の巨体を京都六条川原で荼毘に付し、その遺骨は津軽へ持ち帰って岩木川の裾野のあたりの藤代村に津軽山革秀寺を開基して、そこへ埋葬した。法号は瑞祥院殿前五品天室源棟大居士。明治四十二年十一月十七日これを付記する>

 為信の長男・津軽弥五郎信堅は忠義の人で、父の不忠不義をたびたび諫言したが、まったく聞き入れられなかった。おのずから親子関係は悪化し、信堅は出奔して七戸に身を潜め農民となった。その三代目は久慈七兵衛良次といい、南部利信の代に召し出された。寛文五年(1666)五十五石を与えられて召し抱えられ、作右衛門と名を改めた。
 二男の津軽宮内少輔信建は早世した。
 三男の津軽平蔵信牧は名を越中守に改めた。父の遺領を継ぎ、正室は徳川家康の養女(実は松平因幡守康元の女だという)だという。

<津軽家臣>

津軽五郎左衛門信勝  (為信の弟)
津軽友馬助建康    (信勝の弟)
大浦主殿助勝建    (信勝の二男。九戸城に篭城した)
乳井大隅守正清
乳井伊豆守
乳井源左衛門
大道寺隼人正
蓬田太郎右衛門
川井左馬助正式
松田大学助
臺坂勘兵衛
川井左京政弥
兼平美作守顕紹
村山七左衛門
原子平内兵衛
川井筑前守正勝
軽氏三左衛門
工藤久膳祐朝
長嶺七右衛門将輝
長嶺七左衛門将勝
西舘右馬允
森岡主膳
楞尻民部
鶴沼外記
黒澤監物
山下弥右衛門
黒石玄蕃
成田孫三郎
成田次郎五郎
高杉軍曹
山崎孫兵衛
町田嘉助
野呂越後
中畑甚三郎
笹森小次郎
樋口彦五郎
外崎五郎兵衛
三上金大夫
湯口讃岐
大湯次郎右衛門昌吉
大湯彦右衛門昌政
波岡源左衛門親常
棟方太郎八
渡辺左近
奥寺左衛門定正
奥寺右馬助定久   (定正の息子。為信に含むところがあり、 鉄砲で狙撃するが失敗して逃亡した)

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