2016-11-16 00:09 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)12
雫石戸沢家住居のこと

 記録によれば、光孝天皇より平氏の平兵部大輔兼盛が陸奥国岩手郡滴石庄を賜るとあり、その頃からそこへ住んだものであろうか。また、源頼朝が兼盛の十一代目の子孫・飛騨守衛盛に滴石庄を与えたともあるが、これは頼朝から所領を安堵されたということなのであろうか。
 いずれ、兼盛の子孫はその後代々雫石の戸沢舘に住んで戸沢氏を称し、戸沢飛騨守氏盛は元弘の乱(1333)で南朝方の北畠顕家に従軍した。

 応仁の乱(1467)後諸国は争乱したが、戸沢氏も羽後国へ兵を出し、山本郡の北浦城を乗っ取って雫石からここへ移住した。衡盛の十八代目の子孫は戸沢飛弾守道盛といった。
 その息子は治郎大輔盛安といい、天正十八年(1590)小田原へ参陣して秀吉に謁見し、四万四千三百石を安堵されたが、その後すぐに亡くなった。

 実弟が家督を継ぎ、平九郎光盛と名乗った。十九年(1591)同郡の角舘城へ移る。文禄元年(1592)朝鮮出兵に伴って肥前名護屋へ出陣したが、播磨国の塩屋において急死した。
 盛安の弟が家督を継いで、右京亮政盛と名乗った。初名は太郎五郎という。常陸松岡城に移り(注・豊臣政権による領知の配置替え)四万石を給される。関ケ原や大坂の陣では後方部隊に配置された。元和八年(1623)羽前国最上郡新庄城六万石に移り(注・江戸幕府による領知の配置換え)、新田の八千二百石を加増された。

 雫石には一族が残りそのまま住居していたが、志和の斯波家によって領地のほとんどを掠め取られてしまった。戸沢村には手塚左京進という一族の者がいたが、天正十四年(1586)南部信直によって滅ぼされ、雫石戸沢家の血筋は絶えた。
 戸沢支族に長山惣右衛門という者がいた。その子・忠左衛門房金は土川家の名跡を継ぎ、一家を興した。

(注・家臣団の名簿は記されていない)


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