2016-11-16 18:56 | カテゴリ:歴史
「奥南落穂集」の意訳文を載せるようになって以来、ブログの来訪者数が順調に減っておりますwww
まあ自己満足、言ってみればせんずりのためにしていることなので、それは覚悟の上です。
それに、興味のない人にとってはホントにどうでもいい内容なので、読んでもつまらないでしょうから、仕方がないのでしょう。
まあ、人が見ないからと言ってやめようとは思いませんから(先にも書きましたが私の自己満足のためにしていることですので)、ひっそりと今後も続けていきます。
北東北の戦国時代にご興味がある方だけお付き合い願えればと思います。



奥南落穂集(意訳)13
羽州仙北小野寺家のこと

 小野寺家は、相模国の住人で波多野家の分流・小野寺神師の子孫である。代々羽後国の仙北郡横手城を居城とし、小野寺土佐守藤原宗貞は隣郷を攻めて領土を広げ、十二万石を領した。

 その息子・遠江守義通は、初名を孫七郎道綱といった。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原の陣へ参陣し、石田三成の口利きにより豊臣秀次へ謁見して、旧領三万石を安堵された。慶長五年(1600)石田三成と図って挙兵し、徳川家康に味方した隣郡の勢力を攻撃した。これにより秋田実季、六郷政乗、本堂親永、仁賀保勝利、滝澤刑部、内越孫太郎、岩屋左兵衛などが横手へ攻め寄せて合戦となったが、義通は不利を悟って籠城した。しかし西軍が関ケ原で敗北したため開城して、領地は没収となり、浪人となった。

 長男の右京大夫秀詮は文禄二年(1594)に亡くなった。次男の孫七郎網元は父と同じく浪人となり、慶長八年(1603)に亡くなった。三男の源太郎綱吉は浪人したのち、徳川秀忠に召し出されて百五十俵を給された。四男の覚兵衛道貞も浪人したが、兄の源太郎と同様に召し出されて百俵を給された。
 嫡孫の小野寺金兵衛道相は、最初土佐守と名乗っていた。没落後は花巻まで逃れて身を隠していたが、南部利直が召し出して客分とし、施しとして二百五十駄を与えた。明暦年中(1655~1657)に亡くなった。

その息子・助之丞道重は家督を継げずに浪人して、名前を孫左衛門に改めた。後に花巻御給人となって二人扶持を与えられた。この家には、北条時宗からの令状、足利義満の安堵書、足利義教の軍勢の催促状、豊臣秀吉からの安堵書、石田三成の書簡などが残されていたものの、文化(1804~1818)の頃に小野寺氏が困窮したため、それらの品を人に預けて幾ばくかの金銭と引き換えにした。ところが、預り人の小森林氏が紛失したと言ったため手元へ戻らず、それきりとなってしまった。それらの品は現在、小野寺氏(注・別系統の小野寺氏ということだろう)を名乗るものが所有しているそうだ。

 義通の弟・小野寺六郎左衛門春昌は、没落後は花巻へ逃走して潜伏し、慶長八年(1603)になって利直に仕え、三百石を給せられた。その息子の源五兵衛春清は、名前を六郎右衛門と改め、重直の代に百石となる。
 同流の者には一関に住んだ者や、小野寺惣右衛門義久と言う浪人がいて、この人は遠野の東禅寺に食客として住み込んでいた。利直に面会して、政直に仕えることとなり、五十石を給されて花巻に住んだ。
 小野寺家の家来たちの多くも南部家に召し抱えられ、彼らのことを「仙北衆」と呼んだ。
  
<小野寺家の臣下たち>
                                                                         
中野造酒允秀政   (小野寺の旧臣・中野主殿高勝の息子。主家没落の後三戸へ来て、利直に仕えて五百石を給せられた)
中野造酒政之    (秀政の息子。通称は右馬助。二百五十石。子孫は家名断絶となる)
中野藤内政達    (秀政の次男。五十石。寛文期{1661~1672}に断絶した)
中野幸助政茂    (秀政の三男。七十石。一度家禄を没収されたが、その後改めて召し抱えとなる)
佐藤勘兵衛徳道   (小野寺の旧臣・佐藤近江守綱信の息子。主家の没落後、花巻へ来て石井伊賀守に仕官した。政直の命令により石鳥谷新宿の取立奉行に任じられた。百五十石)
佐藤甚之丞道房   (勘兵衛の子。家禄没収となるが 慶安期{1648~1651}に新田へ百石を給せられた)
佐藤甚之丞道英   (道房の息子。行信に仕えて二百石)
佐藤甚之丞道治   (道英の子)
佐藤宇右衛門道朝  (道房の次男。重信に仕えて五駄三人扶持)
佐藤勘太夫道賢   (道房の三男。新田に六十五石)
新田目金右衛門道景 (道房の四男。新田に五十石)
藤技宮内道定    (道房の五男。行信に仕えて千石)
新田目作内通秀   (道房の六男。重信に仕えて百石)
佐藤弥次兵衛意勝  (宇右衛門の長男。別に召し出されて五駄二人扶持)
佐藤長右衛門次勝  (同流である対馬次義の息子。重直に仕えて五十七石)
佐藤長右衛門次茂  (次勝の子。 家禄没収となるが、改めて新田に五十石を給せられた)
佐藤友右衛門次吉  (次茂の子)
小田嶋藤五郎政隆  (三戸へ来て信直に仕え、九戸一揆鎮圧に功があり百石を給せられる)
小田嶋弥五兵衛政方 (藤五郎の子。家禄没収となった後、改めて十二石を給せられる)
小田嶋藤五郎豊政  ‘弥五兵衛の子孫。三戸御給人)
松橋伝之丞宗親   (小野寺の旧臣・小羽仁弾正宗重の息子。主家の没落後花巻に来て、松斎に仕えて八十五石。後に政直から加増され百石となる)
松橋与三郎宗友   (傳之丞の子)
松橋又助宗昌    (与三郎の子)
松橋左兵衛正三   (又助の子)
大石喜右衛門良方  (小野寺の旧臣・大石四郎左衛門良忠の息子。慶長五年{1600}に三戸へ来て利直に仕えて五十石。子がなかったので家名断絶となる)
大石九助良勝    (喜右衛門の弟。利直に仕えて二十駄。家名断絶)
大石仁兵衛方基   (喜右衛門の弟。十七駄三人扶持。家名断絶)
大石金右衛門良道  (仁兵衛の次男。行信に仕えて五駄二人扶持)
白岩石見秀時    (小野寺の旧臣・白岩備後秀朝の息子。慶長五年三戸に来て、利直に仕えて五十石)
白岩嘉兵衛秀貴   (石見の子。四駄二人扶持)
白岩嘉兵衛敏秀   (秀貴の子。家督が継げず浪人となる)
白岩嘉兵衛秀房   (敏秀の子。御徒)
山口伊予秀政    (小野寺の旧臣・山口新六重邦の息子。慶長六年{1601}利直に仕えて二十駄十人扶持を給したが家禄没収となる。その後八戸弥六郎{注・南部家筆頭家老}に仕えたが、禄を辞して浪人した)
山口新之丞政種   (伊予の子。浪人)
山口善右衛門政義  (新之丞の子。毛馬内氏に仕える)
山口半九郎義正   (伊予の弟。八十石。出家して家禄没収となる)
石川圓兵衛正連   (仙北の士。号は圓斎。松斎に仕えて五十石)
石川圓兵衛正次   (圓兵衛の子。通称は兵九郎。三駄二人扶持)
石川理右衛門正貞  (正次の子)
亀田十兵衛元重   (仙北の士。信直に仕えて三十石)

<元・戸沢家の家臣で南部家へ仕えた人々>

角舘右京盛元     (信直に仕えて三十石)
角舘六右衛門盛重  (右京の子。家禄没収の上、追放された)
角館六兵衛盛清   (六右衛門の子。六駄二人扶持) 
宮野与左衛門朝明  (政直に仕えて五十石。花巻に住む)
宮野与左衛門朝次  (朝明の子。通称・十次郎)
宮野与左衛門朝堅  (朝次の子)
生内和泉信真     (文禄年中{1592~1596}に福岡へ来て、利直に仕えて百石)
生内与五右衛門吉遠  (和泉の子。家禄没収となるも、新田に二十五石を給せられる)
生内与右五衛門吉春  (吉遠の子。足高をあわせて百石。家禄没収となる)


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