2016-11-19 00:50 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)14
本堂伊勢守親通のこと

 和賀郡主・和賀式部大輔忠頼の次男・源次郎忠朝、後に改名して式部大輔は、羽後国仙北郡本堂郷に居住して姓を本堂に改めた。
 その五代目の子孫・本堂左兵衛義長は南朝方の北畠顕家に従軍して戦った。六代目の伊勢守親興の時に室町三代将軍の足利義満へ謁見して本領を安堵された。さらにそれから五代目の子孫・伊勢守親通は、天正十八年(1590)小田原へ参陣して豊臣秀吉に謁見し、旧領七千石安堵された。

 その息子・伊勢守親永は慶長五年(1600)徳川家康に属し、最上義光の加勢として羽前国へ出陣した。横手の領主・小野寺遠江守義通は石田三成に味方し、仙北において兵を起こしたが、出羽の諸大名たちは家康の命令によって小野寺勢をを攻撃した。本堂家もこれに加わり、戦功を挙げた。これによって八千石に加増され、常陸国新治郡志筑へ移った。その息子・内蔵助親加、初名・源七郎は江戸幕府の直参となり、交代旗本に列した。親永の弟・本堂源兵衛親生は家康に仕えて五百石を給せられた。

 親永の二男・本堂源太郎親相は、後に源三郎と名を改めた。小野寺義通に一味して、仙北横手城へ篭城したが、落城して浪人となった。慶長八年(1603)南部利直に仕官して三百石を給せられた。その息子・源左衛門親次は弟に知行所を分地したので、二百石となった。弟の木工兵衛茂晴は分地の百石を領した。その弟・儀右衛門親房は南部重直から百俵を給せられた。

 親永の三男・本堂助兵衛親幸は重直に仕えて百俵を給せられたが、一度禄を離れて辞去し再び帰参して、改めて三百石を給せられた。親永の四男・本堂源十郎親寄は戸沢大和守に仕えたという。

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