2016-11-19 18:52 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)15
秋田城介のこと

 安倍貞任の次男・安東次郎高星は、陸奥国津軽郡の藤崎舘に住んだ。高星の八代目の子孫・安東太郎尭恒は、建長二年(1250)鎌倉五代将軍の九条頼嗣に謁見して本領を安堵され、それから四代目の子孫・安東太郎貞季は南朝方の北畠顕家に従軍して戦った。
 貞季の長男・安東太郎盛季は松前に渡って下国(注・半島のことだろうか)に住し、以後は下国氏を称した。次男の安東次郎庶季は室町三代将軍・足利義満に謁見して、応永元年(1394)出羽に出兵し、豪族の秋田城介顕任を討ち滅ぼして秋田に移住した。その後は秋田城介と称して、三戸の南部守行と比内を争いたびたび合戦し、以後数代に及ぶ確執を作った。

 この九代後の子孫・安東太郎愛季は、たびたび南部信直と戦争した。しかし後に和睦して、信直の姫君を嫡男・忠次郎秀隆の正室とすることにした。愛季は国太郎舜季の息子である。秋田檜山城に住していたが、天正十五年(1587)の春、病気で死んだ。
 家督を継いだ秋田忠次郎季隆は、初名を安東六郎業時といったが、同じ年の秋に亡くなった。子供はなく、正室は三戸へ帰り、以降は檜山御前と言われた。元和六年(1621)七月三日、二戸の福岡城において亡くなった。号は蓮生院といい三戸の長永寺に埋葬した。この人は実は信直の娘ではなく、北主馬秀愛(注・北信愛の次男)の娘であるという。

 秋田家は愛季の弟の安東太郎を家督として、太郎は名前を秋田城介実季と改めた。天正十八年(1590)小田原へ参陣して秀吉に謁見し、旧領五万石安堵された。朝鮮征伐に関しては後方支援へ回され、海は渡らずに済んだ。慶長五年(1600)徳川家康に味方し、最上義光の加勢として出陣したが、小野寺義通が石田三成の味方をして挙兵したためこれを攻撃し、城を攻め取った。同七年(1602)常陸国茨城郡の宍戸城五万石に国替えとなり、大坂の陣では冬夏の両戦に参加した。寛永七年(1631)理由があって伊勢国の朝熊へ蟄居させられたが、この際入道して梁空と名を改めた。そのまま配所で亡くなった。
 実季の息子・秋田河内守俊季は寛永八年(1632)に家督継承を許され、正保二年(1646)奥州田村郡の三春城五万五千石に国替えとなった。その息子は安房守盛季である。

 愛季の二男・安東玄蕃英季は、徳川家康に仕えたあと酒井忠勝に仕官した。三男の秋田修理進季勝は宗家に仕える。実季の二男・秋田隼人季次は家康に仕えて五百石。秋田長門守季信は秀忠に仕えた。四男の秋田三平季安は宗家の家来となった。

<秋田一族や臣下の者で、南部家へ召し抱えられた人々>

秋田忠兵衛季邑   (一族。利直に仕えて五百石)
秋田忠兵衛季形   (季邑の子。二百石。八戸へ赴く{注・四代藩主の重信が家督を継ぐ際に家督騒動が起き、10万石の南部藩は幕府の命令によって8万石の盛岡と2万石の八戸とに分割された。この際、八戸藩の家来として配分されたという意味だろう}が、後に帰参した)
秋田右京助方季   (季形の子。子供がなく家名断絶)
湊修理季政     (一族。利直に仕えて五百石)
湊市郎右衛門季武  (修理の子。三百石。八戸へ赴く)
五丁目兵庫親隆   (本姓は三浦氏。利直に仕えて五百石)
八木橋左馬助茂矩  (旧臣・備中守の子。信直に仕えて四十八石)
八木橋孫左衛門茂吉 (左馬助の子。二百石)
八木橋藤十郎武茂  (孫左衛門の子。利康{注・利直の四男}に殉死した)
佐藤小助陣赤     (慶長四年{1599}松斎に仕えて百石)
佐藤権兵衛陣重   (小助の子。十八石七斗)
佐藤重左衛門陣固  (権兵衛の子)
成田源之丞長吉   (鹿角郡荒川村に住む。浪人)
成田平左衛門長知  (源之丞の子。松斎に仕えて百石)
成田兵庫助元喜   (平左衛門の子。一度録を没収されるが、後に二百石を与えられた)
堀内三右衛門正康  (寛永十三年{1637}に召し抱えられた。五十石。花巻に住む)

関連記事
スポンサーサイト

管理者のみに表示する

トラックバックURL
→http://newbadtaste.blog.fc2.com/tb.php/1214-eceb587f