2016-11-21 19:31 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)16
江刺兵庫頭重恒のこと

 葛西壱岐守平清重は源頼朝に仕え、奥州奉行として陸奥国へ下向した。陸前国の登米城に住み、五代目の子孫・葛西太郎信詮の次男・江刺次郎信満は、江刺郡の岩谷堂城に住んで宗家に仕えたが、南北朝以降は宗家と別れた。
 応仁の乱(1467)以後は隣郡で戦争が収まるときがなく、宗家の葛西氏は大きく衰えたが、江刺家は周囲を攻略して領地を増やし、天文(1532~1555)の頃、江刺三河守隆行の代になるとその石高は十万石にも達した。隆行の死後は息子・治部少輔隆重が遺領を継ぎ、隣郷を服従させた。

 その息子が江刺兵庫頭重恒である。天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原へ下向し、参陣しなかった者を征伐するとして豊臣秀次に大軍を預けで下向させたが、その討伐軍が二本松まで到着したとの噂を聞いた重恒は大いに驚き、城を捨てて逃走した。その後は閉伊郡の乙茂村に身を潜めたが、家臣の三ケ尻加賀垣逢は主家の没落を歎き、浅野弾正少弼長政が下向した際、主家の再興を嘆願した。長政はこれに同情して南部信直へ相談したので、江刺兵庫重恒は南部家に召し抱えられて二千石を与えられ、新掘城に居住した。禄高の内三百石は三ケ尻に給せられた。

 重恒の長男・彦三郎重俊は、天正十九年(1591)父に先立って亡くなったため、次男の彦四郎重隆が家督を継ぎ、名前を兵庫と改めたが、慶長七年(1602)に亡くなった。
 三代目の江刺長作隆直は岩崎一揆討伐に従軍して戦功があり、安俵のうちの土沢城へ移って、千五百石を領した。元和九年(1624)に京都で亡くなった。
 四代目の江刺勘解由春隆は、初名を市十郎といい。寛永十八年(1642)に亡くなった。弟の江刺助之進隆次は分地して二百石を領した。
 五代目は江刺勘兵衛長房で、初名を兵十郎といった

<江刺一族や家臣で南部家へ召し抱えられた人々>

口内帯刀隆朝     (一族。信直に仕えて五百二十四石。花巻に住む)
口内彦次郎重幹    (帯刀の子。三戸に住み二百石。家名断絶)
人首平右衛門恒輝   (甚太郎の子。浪人となる)
人首平十郎盛恒    (一族。信直に仕えて百石)
人首甚太郎恒冨    (平十郎の子。七十石。家禄没収)
人首平八郎恒茂    (甚太郎の仁安。八戸へ赴く)
栃内勾当慶都     (支族。盲人であった。没落後は遠野の栃内村に潜伏した)
栃内小左衛門重廣   (勾当の子。利直に仕えて百石)
栃内小左衛門重任   (小左衛門の子)
松田検校印都吉高   (江刺の一族・江刺主膳の次男。盲人であった。閉伊那の小友村に身を潜めたあと京都へ出て、一條通りに住んだという。慶安三年{1651}に亡くなった)
松田清左衛門吉勝   (検校の子。重直に仕えて七十石。その後五十石を加増された)
松田清右衛門吉政   (吉勝の子)
松田清左衛門吉智   (吉政の子。百八十石)
三ケ尻加賀恒逢    (江刺の支族で長臣である。忠義の人。浅野長政に訴えて江刺家は信直に仕えることとなった。加賀には三百石が給せられた)
千葉重兵衛恒章    (三ケ尻加賀の子だが、廃嫡された)
三ケ尻弥兵衛吉次   (重兵衛の子。三百石)
三ケ尻弥兵衛吉道   (吉次の子)
高屋四郎左衛門恒延  (江刺の旧臣。源太夫兼網の子孫・高屋左近則政の息子。主家の没落後は遠野広長に仕えたが、その後は利直に仕えて五十石)
高屋三郎左衛門恒宣  (恒延の子。重信に仕えて百石を給したが没収となる。通称は四郎左衛門)
高屋善右衛門恒之   (恒宣の子。通称は四郎左衛門)
高屋伝左衛門恒高   (恒之子。通称は四郎左衛門)
高屋才六則久     (左近則政の弟。利直に仕えて百石)
高屋仁左衛門儀明   (才六の子。通称は六左衛門)
高屋六左衛門吉倚   (仁左衛門の子。通称は長十郎)
高屋八右衛門恒方   (左近則政の三男。浪人。田瀬一揆の際鎮圧軍に化成し、戦功があった)
高屋長五郎吉勝    (八右衛門の子。重信に仕えて五十石。通称は八右衛門)
高屋長左衛門吉当   (長五郎の子)
下河原玄蕃恒忠    (高屋左近則政の弟。柏山伊勢守に仕えたが浪人となる。遠野に住んだが、後に花巻へ来て政直に仕える。黒沢尻村に百石を給された)
下河原利左衛門恒長  (玄蕃の子)
下河原勘右衛門恒光  (利左衛門の子。百五十石)
下河原文次郎恒算   (玄蕃の次男。郡山与力で新田に三十石を給された)
及川武蔵恒明     (下河原玄蕃恒忠の長男。元和元年{1615}利直に仕えて二百石。その後加増されて三百石となるが、致仕{注・碌を返上して浪人となること}した。号を益庵といい、医業をなした)
下川原武右衛門恒元  (武蔵の子。百五十石。通称は弥次右衛門)
下川原武兵衛廣恒   (武右衛門の子。百石。通称は武右衛門)
小田代肥前氏基    (同流。江刺の旧臣。兵庫重恒の家子{注・直臣のこと}。江刺家が知行する領土のうち田瀬村に住み、慶長五年{1600}の田瀬一揆の際には、決死の戦いを見せて一揆救援の伊達勢を敗った)
小田代蔵人恒真    (肥前の子。江刺の臣{盛岡藩士の江刺氏の家来という意味。以下同じ})
小田代兵部恒弘    (蔵人の子。江刺の臣)
小田代備後恒道    (肥前の次男。江刺の臣)
小田代弥兵衛定    (兵部の子。江刺の臣)
小田代久右衛門恒政  (兵部の次男。重信に仕えて二十石。花巻与力)
小田代又右衛門恒次  (久右衛門の子。新田に七十石)
羽黒堂彦市茂道    (江刺支族。主家の没落後は花巻に来て利直に仕えて百石。松斎に従う。花巻に住んだ)
羽黒堂八左衛門正道  (彦市の子。通称は勝右衛門)
松川忠左衛門茂吉   (八左衛門の子)
松川藤四郎恒徳    (八左衛門の次男。新田に百石を給されたが家禄は没収され、家名は断絶した)
鈴木刑部広重     (鈴木三郎重家の子孫。江刺の旧臣。没落後は利直に仕えて二百石。松斎に従い花巻に住んだ。元和二年{}1616)に亡くなった)
鈴木弥五右衛門家元   (刑部の子。家督を継ぐことが出来ず浪人となった)
鈴木弥伝治茂愛    (弥右衛門の子。重直に仕えて四十石)
鈴木次郎右衛門愛次  (弥伝治の子。盛岡に移り五十石を給される)
長坂備中信胤     (千葉家の庶流。長坂城に住み、天文{1532~1555}頃より江刺家に従った。天正十八年(1590)没落し、稗貫郡瀬川村に身を潜める。慶長二年{1597}に亡くなった)
長坂刑部胤方     (備中の子。利直に仕えて百石。松斎に従う)
長坂次郎兵衛胤屋   (刑部の子。実は伊藤小市郎の息子という)
長坂市郎左衛門胤良  (次郎兵衛の子。通称は刑部)
百岡藤左衛門広胤   (備中信胤の次男。江刺の臣)
百岡藤八         (広胤の子。通称は藤左衛門)
太田代宮内清也    (江刺の旧臣・菊池家の末流。太田代村に住み、主家没落後は浪人となる。その後は花巻へ来て、寛永十三年{1637}重直に仕えて百石を給された)
太田代弥平次正也   (宮内の子。五十石)
太田代兵右衛門清邑  (弥平治の子)
太田代兵右衛門吉保  (兵右衛門の子)
鴨澤左馬助恒典    (江刺の旧臣・菊池家の末流。主家没落後は浪人となる。慶長十八年{1614}に花巻に来り仕政直に仕えて十駄を給した。寛永元年{1624}になり家禄没収となる)
鴨繹角兵衛恒充    (左馬助の子。新田に百石。花巻に住む)
鴨澤市太夫恒臺    (角兵衛の子。百五十石。盛岡に移り、角兵衛と名を改める)
鴨澤角兵衛恒作    (恒臺の子。加増分を合わせて二百石を給した。通称は兵右衛門)
鴨澤十兵衛恒篤    (恒充の次男。百五十石。家禄没収となり浪人した)
鴨澤長兵衛恒中    (恒充の三男。百二十五石)
鶯澤杢恒之       (鴨沢家の支族。通称は藤十郎)
菊池半左衛門武長   (江刺の浪人。正保二年{1646}三駄二人扶持で召し抱えられた)
菊池半之丞長則    (半左衛門の子)
菊池金十郎則武    (半左衛門の次男。七駄二人扶持)
猪川式部知宗     (江刺の臣。気仙郡の猪川村に住み、文禄年中{1593~1596}に三戸へ来て利直に仕えて二百石。重直の代になって家禄没収となり、江刺家の家臣となった)
猪川蔵人知清     (式部の子。江刺の家臣)
猪川作兵衛真次    (蔵人の子。江刺の臣)
猪川作之丞展真    (作兵衛の子。重信に仕えて十駄二人扶持)
城彦次郎重能     (江刺の旧臣・城和泉の次男。天正十八年{1590}主家の没落により浪人となる。花巻へ来て隠遁した)
城半右衛門重恒    (彦次郎の子。重直に仕えて百石)
城弥三右衛門義繁   (半右衛門の子。弟へ分地して五十石となる)
城半右衛門義敷    (弥三右衛門の子)
千田茂兵衛元忠    (重信に仕えて二駄二人扶持)

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