2016-12-01 22:09 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)17
柏山伊勢守明助のこと

 柏山氏は千葉介平常胤の子孫で、陸奥国胆沢郡の領主であった。源頼朝より地頭職を給わったとも、足利将軍の時に下向してきたとも言うが、詳細は不明である。大森城(注・大林城の誤り)を居城としたが、永正(1504~1520)の頃より衰えはじめ、江刺家の旗下となり天正十八年(1590)になって没落した。

 当主の柏山伊勢守明助は浪人となり、慶長三年(1599)に南部利直へ仕え、千石を給せられた。花巻に住して北松斎に従い、番頭(注・バントウではなく、バンガシラと読む。今でいう上級将校クラスの戦闘指揮官)を務める。岩崎の和賀氏が没落した後に岩崎城代となり、岩崎に居住し、寛永元年(1624)に亡くなった。

 死後は嫡男の半太郎明定が家督を継いだが、寛永二年(1625)になって亡くなった。子供がなかったため、弟の平左衛門明信が家督を継ぎ、江戸勤番を命じられたが、寛永四年(1627)に二十五歳の若さで亡くなった。その息子の兵蔵明通が家督したが、幼少の上に病弱で、同四年(1627)十二月に亡くなり、後を継ぐものがなく家禄は没収、家名断絶となった。

 伊勢守明助の弟の柏山九郎兵衛明知は、兄とともに花巻へ移住したが、慶長五年(1600)、岩崎一揆の際に討死した。同じく弟の柏山弥三郎明範は兄と同じく利直に仕えて百石を給わる。その息子の柏山仁左衛門明忠は寛永六年(1629)に亡くなり、子供がなかったため家名断絶、家禄没収となる。これによって柏山一族は完全に断絶した。遺骸は岩崎村(注・記載欠落)に葬った。

<一族並びに家臣の者で南部家へ召抱られた人々>

折居嘉兵衛明宗    (支族。伊勢守と同じく利直に仕えて五十石。岩崎一揆の鎮圧に功績があり、岩崎に住むようになった。万治二年{1659}八十二歳で亡くなった。柏山一族の祭祀はこの家で執り行った)
折居三九郎明吉    (嘉兵衛の子。慶安八年{注・慶安の元号は五年までしか使用されていないため、何年を指すのか不明}八駄で召し抱えられる)
折居嘉兵衛明次    (三九郎の子)
柏葉甚兵衛常永    (支族。主家の没落後、慶長二年{1598}に花巻に来て身を隠すが、後に伊勢守に従った)
柏葉安右衛門常行   (甚兵衛の子。重直の代になって新田に五十石を給せられる)
柏葉長九郎常房    (安右衛門の子。通称を安右衛門と言った)
柏葉安右衛門常令   (長九郎の子。五十八石)
三田将監義勝     (柏山の旧臣。浪人して鬼柳に住んだ)
三田玄蕃義則     (将監の子。浪人)
三田十郎左衛門義正  (玄蕃の子。重信の代に新田へ五十石を給せられ、与力となる)
及川武蔵恒明     (江刺家の家臣・下河原玄蕃の子)


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