2016-12-02 23:33 | カテゴリ:歴史
奥南落穂集(意訳)18
葛西正兵衛晴勝のこと

 葛西壱岐守平清重は、右大将・源頼朝に仕えて多くの軍功を挙げた。文治五年(1190)頼朝の奥州征伐により藤原泰衡が滅亡すると、同六年(1191)清重は奥州奉行に任じられ、陸奥国登米郡登米城に下向した。桃生・牡鹿・本吉・登米・磐井・気仙・江刺の七郡を領地として、国人たちはこぞって服従した。

 清重には男子が八人もあったが、次男である伯耆守清親が二代目を、その三男・伊予守朝清が三代目を継ぎ、桃生郡石巻城に住して、その子孫は七代目に至って一門のものが多く繁栄した。彼らは領内各所に住んで、登米城の葛西判官三郎兵衛重政は、南朝方の北畠顕家に属し、新田義貞に従軍して戦った。
 貞和年中(1345~1349)になると、征夷大将軍・足利尊氏の一族にあたる斯波伊予守家経が奥州探題職に任命されて陸奥国へ下向し、陸前国加美郡名生城に住み着き、大崎氏を称した。これにより国人たちの大半は大崎氏に服従し、北朝方に属するものが多くなった。このとき、葛西家の八代目・兵庫助忠延は大崎家と和親してその縁族となったので争いは起きず、近郷は平和であった。
 応仁(1467~1468)の頃から諸国で騒乱が起きはじめ、豪族たちが互いに領地を争い合うようになって、世情は穏やかならぬものとなった。葛西一族の家臣たちもみな一家をなして独立したため、葛西宗家は大いに衰えた。

 忠延から八代日の子孫・葛西壱岐守晴信は、初名を三郎相模守といった。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原の陣へ参礼しなかったために没落し、浪人となって各地に身を潜めつつ流浪したが、文禄(1592~1596)中に亡くなった。
 その息子(注・名前は脱落している)は伊達政宗に仕えたという。また、別の息子・葛西正兵衛晴勝は初名を庄次郎といい、父親とともに流浪して遠野へ身を潜め、慶長六年(1601)三戸を来訪し、南部利直に謁見してその客分となり、七百石を給せられたが、同十五年(1610)には五百石に改められて臣下となった。

 その息子・正兵衛晴易は寛文二年(1662)に亡くなった。その息子・正兵衛晴綱も三百石を給せられ南部の家臣となったが、晴勝の二男・平三郎晴連は一生を浪人のままで終わった。
 その子・平左衛門晴宗は南部重信より二人扶持を給せられ、勤務に努力したため加増されて御用人に取り立てられ三百石となった。晴易の次男・市右衛門晴興は重信の代に百五十石を給せられた。
 南部の葛西一族は五家を成したが、その他にも一族は諸国に多くあるそうだ。
 江刺氏はもともとこの家の長臣であり、永正(1504~1520)の頃は主家よりも威勢があった。それについては別に伝を立てて詳細を記している。

<一族并びに臣下のもので南部家に召し抱えられた人々>

浜田彦兵衛清春  (葛西一族。浜田阿波守重正の息子。 没落後は閉伊郡に潜伏し、信直に仕えて七百石。大槌城代。寛永十六年{1651}に亡くなった)
濱田彦兵衛清昌    (清春の子。三百石となり、花巻に住む)
濱田大隔清周     (清昌の子。寛文三年{1663}に百五十石となる)
濱田甚五兵衛清秀   (大隅の子。盛岡に移り、百六十三石)
勝又右馬允清辰    (葛西支族。天正十八年{1590}主家の没落により浪人する。花巻を来訪し、慶長十一年{1606}利直に仕えて二百石を給せられた)
勝又藤左衛門清綏   (右馬允の子)
勝又六之丞清勝    (藤左衛門の子)
勝又伊兵衛偕昌    右馬允二男左内 二駄二人
名須川茂左衛門義照  (旧臣。名須川城主・名須川玄蕃の四男。主家の没落により浪人する。花巻に来て住み着いた。寛文十年{1671}重信の代に新田へ五十石を給せられた。花巻与力)
名須川茂次右衛門義勝 (茂左衛門の子)
名須川小兵衛義徳   (茂次右衛門の子)
名須川吉左衛門義正  (茂左衛門の次男。新田へ四十八石を給せられた)
布佐七右衛門常之   (旧臣。浪人。花巻に来て、石井伊賀守に仕えた)
布佐新右衛門常行   (七右衛門の子。浪人)
小野寺山三郎常久   (新右衛門の子。重信より五駄二人扶持を給せられた)

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